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2015年02月01日

竹鶴物語・その4

帰国して最初に住んだのは帝塚山。 
帝塚山は大阪市阿倍野区南西部から住吉区北西部にまたがる地区ですが、新居も勤め先の摂津酒造も住吉区帝塚山東だったそうで、長居スタジアムから西に2㎞くらいの場所です。

借家の家賃は55円で、現在の16万円くらいになりますが、月給は150円で、現在の44万くらいだったから無理なく支払うことができたようです。

ドラマで描かれていたように、摂津酒造は大戦後の不景気の影響でウイスキー事業を始めることができず、竹鶴さんは模造ウイスキー造りに嫌気がさして、1922年春に退職しました。

ドラマでは退職後、なかなか仕事が見つからず、飲食店で皿洗いや芋の皮むきなどをして家賃もろくに払えないと描かれていましたが、実際は桃山中学で化学の教師をやっていました。
(ドラマでは確かに化学の教職の誘いがありましたが辞退してますよね)
桃山中学は英国伝道協会が設立したので校長は英国人だったようで、校長婦人(たぶん英国人)とリタさんが仲良くなっていた関係で、教職の話になったようです。

教職を始めて1年の1923年春、寿屋の鳥居社長がヘッドハンティングし、その年の6月に竹鶴さんは寿屋に入社し、念願のウイスキー造りに従事することができました。
年俸はドラマと同じく4000円。
現在の1200万円くらいの破格な高給です。

1929年(昭和4年)4月1日、最初に出荷したウイスキーは、ドラマでは煙臭くて不評でしたが、実際もピートを焚きすぎたのか、相当不味い代物だったみたいです。
当時ジョニ赤が5円だったところ、1割安いだけの4円50銭。
現在の1万3千円くらいになります。
かなり味の差があって値段がわずかな差なら、ぼったくりかも。
実際、ドラマと同じく、あまり売れなかったようです。
味が悪かったのは熟成期間が短いのと、ピートを焚きすぎてしまった他に、スコットランドではビールの廃酵母を使っているので、同じく廃酵母を使ったものの、イギリスのビールはエール(上面発酵)に対して日本のビールはラガー(下面発酵)の違いがあるので、純粋培養酵母を使う必要があったとか。

大量の在庫を抱えたわけですが、他の商品なら「不良在庫」になるわけですが、ウイスキーの場合は熟成してより良い商品になるわけで「優良在庫」に変身するものの、資金繰りは相当厳しかったようですね。
戦争の影響でスコッチの輸入が途絶えた1940年頃には飛ぶように売れるようになったそうです。

1930年に養女・リマさんを迎えていますが、どうも折り合いが悪かったのか、自伝には養子は威氏のことしか触れらていないなど、あまりリマさんのことは知られていなく、竹鶴さんに関するwikiも、少し前まで記載がなく、私も養女がいたことを知りませんでした。
彼女に関してはこれくらいしかわかりません。
ご尊命なら現在80代半ばだと思いますが、どうされているのでしょうか。

寿屋の長男を預かって帝王教育をしたのはドラマと同じで、1931年には竹鶴夫妻とリマさん、鳥居吉太郎の4人でスコットランドへ行っていますね。

その後、ドラマでは確かに事実と同じく横浜のビール工場の工場長になるのですが、横浜や鎌倉に引っ越すことが描かれてなかったですよね。

寿屋の横浜にある67万円(一説では100万円強)で買ったビール工場を300万円以上で売却し、現在の貨幣価値では数十億円も転がり込んできたので、やっと資金繰りが落ち着いたのですが、工場長の竹鶴さんに一言も相談がなく売却したので不信感が募り、1934年(昭和9年)3月1日に退職しました。

1934年(昭和9年)4月に竹鶴さんは余市へ行きました。
最初は水質が良く、石狩川河畔にピートがあって石炭の産地が近い江別を工場建設地の候補にしていたけど、石狩川が氾濫して洪水が良く起こるのを知って、余市に変更したそうです。
江別はウイスキーの里になりそこねましたね。
江別には悪臭を放つ製紙工場があるので(1908年創業)水害がなくてもやはり江別は断念したかも知れませんね。

posted by かもめ |09:46 | その他・分類不能 | コメント(9) |