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2012年02月11日

帰国

1982年4月1日(木)、エイプリルフールですが、何事もなく宿で朝食。
イギリスは美味しいものがないと良く言われますが、「イギリスで美味しいものを食べたければ1日に3回、朝食を食べれば良い」と言われるように、朝食だけは充実しています。
ちなみに、そう言ったのはイギリス人(月と6ペンスを書いたサマセットモーム)ですから間違いありません (笑

宿は定年退職して家族で経営しているような感じで、ご主人が食事を運んでくれました。
紅茶を運んできて、コーンフレークスに牛乳を注いでくれました。
ほどなくしてベーコン&エッグスとイギリスらしくウェルダンのトーストが来ました。
サラダと、あと何か1品あったと思いますが思い出せません。
スープもあったかな? とにかく豪華でした。

宿はラッセルスクエア駅の近くなので、地下鉄ピカデリーライン1本でヒースロウまで行けますが、当時は各駅停車しかなくて1時間もかかるのですが、13:10発の飛行機のため宿をチェックアウトして、まっすぐ空港へ向かいました。

空港は当時IRAが活発にテロ活動をやっていたため、荷物検査とかは厳重でした。

ブリティッシュエアウェイズのジャンボ機で、アンカレッジが14:15着、成田は翌日の14:30着という具合に、ずっと昼間なのでオーロラは見えません。

それにしても成田までアンカレッジ経由は疲れます。
当時ブリティッシュエアウェイズのロンドン・成田便は週7往復あり、アンカレッジ経由(17時間20分)が4往復、モスクワ経由(14時間)が1往復、直行便(11時間30分)が2往復ありましたが、アンカレッジ経由が一番安かったです。

最近は少ないかも知れませんが、海外に行くと食事が合わなくて食欲がでないとか体重が減るという人が少なくなかったですが、私はそういうことはなかったのですが、さすがに帰国したら寿司を食べたいと思いましたね。

海外を旅すると、日本(日本人)の良い面、悪い面がよくわかって勉強になりました。

posted by かもめ |12:35 | 海外旅行 | コメント(8) |

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この記事に対するコメント一覧
Re:帰国

かもめ殿

>イギリスらしくウェルダンのトーストが来ました。

関西では厚切りトーストを好むのでイギリス流ウェルダントーストに最適な8枚切りの
角食(←これは北海道独特で業界用語が一般名詞になっている)が殆ど売っていません。
でもカリカリのトーストとカリカリのベーコン懐かしいです♪

>アンカレッジ経由が一番安かったです。

当時はまだBAでも成田に直行出来る離陸重量増加型の747-200Bが少なかったから
仕方ありませんね。でも西行きは向かい風なので、それでも運行条件が厳しく直行便でも
成田までの残燃料が厳しくて千歳にテクラン(給油のみのテクニカルランディング)が頻発
していました。燃費の良いダッシュ400になって解決しましたが(^^;)

posted by 大阪帰りの道産子| 2012-02-11 18:33

Re:帰国

旅行記お疲れ様でした。とても楽しく拝見しました。TEE体験とかアンカレッジ経由の航空機の体験とかうらやましく感じました(実際は長距離で大変だったとは思いますが)。ところで、冷戦時代に英国航空にも直行便があったのですね。冷戦時代は比較的ソ連との関係が良好だった、フィンランドのフィンエアに直行便があったと記憶しております。そして、英国航空は南周りがなかったんですね。

ちなみに私が英国で食べた朝食は残念ながらコンチネンタルブレックファーストでした。

そして、日本に帰って一番食べたかった日本食は牛丼ですw

posted by こんびに♪| 2012-02-11 18:41

Re:帰国

こんびにさんこんばんは(^o^)/

かもめのトコですがお邪魔してこんびにさんにコメントレスを・・・

>冷戦時代に英国航空にも直行便があったのですね。

その直行便はまだ西行きの北極圏(ポーラー)ルートだった筈です。当時のBAのモスクワ経由便
は東行きのシベリアルートの事で洋上飛行よりシベリア上空は大気が安定して動揺が少なく乗客の
評判が良いので各国の航空会社がリクエストしていたのですがソ連の航空管制の許容量の関係で
割り振りが少なかったのと基本的に最初は航空機の能力に関係なくモスクワ経由が必須条件でした。

たとえばANA全日空が初のヨーロッパ線であるロンドン便は全てシベリアルートでした。ソ連が
崩壊する2年前の1989年です。ソ連の航空当局はANAに対してロンドン便の二分の一を
モスクワ経由にする条件を提示しましたが同等の着陸料を上空通過料に加算する事で三分の一で
認可されました。

posted by 大阪帰りの道産子| 2012-02-11 19:07

補足説明

・・あっこんびにさんに補足説明です。

>ソ連の航空管制の許容量の関係で

それは通信やレーダー設備の関係では無く当時「英語を話せる管制官が少ない」と言う
事です。ソ連邦時代は国内はロシア語で航空管制してましたから・・ちなみに高度は今でも
中国同様にメートル法で管制しています。

posted by 大阪帰りの道産子| 2012-02-11 19:15

Re:帰国

確かに日本と欧州(ソ連を除く)の直行便は、こんびにさんの言うとおり、フィンエアーが最初ですが、ベーリング海・北極を経由して、ソ連上空を避けるルートでした。
そのルートなので、北極に近い北欧が有利ですから。
ちなみに、DC-10だったはずですが、荷物等の重量制限が厳しかったはずだし、交代クルーが最初から同行しないといけず、人件費も多くかかっていました。

30年前のブリティッシュエアウェイズの直行便は11時間半なのでシベリア上空経由だと思います。北極経由なら、13~14時間くらいかかるはずです。

>ソ連の航空管制の許容量の関係で

てっきりスパイ対策で便数制限があるのかと思ってました。

posted by かもめ| 2012-02-11 19:38

Re:帰国

おーどさん、かもめさん、大変勉強になりました。

そうか、北極圏経由の直行便だったのですね。

それとシベリア経由はてっきり軍事的な理由かと思ったのですが、航空管制上の理由だったとは。勉強になりました。

それにしてもコンサブログで、サッカー以外の勉強や知識が増えるのは愉快ですねw

最近のエアライン事情はよくわからないのですが、中高生の頃、書店でみつけた月刊エアラインをたまに購入して読んでいたことがありました。メカ系の話は飛行機も鉄道も疎いけど、フライトルポやクルーのドキュメントがすごくおもしろかったですね。

でも、今はわからないけど誤植が多く、そういうに見つけるのが疎い私でもだいぶ見つけましたw フィンエアが直行便と知ったのもやはり月刊エアラインからの知識です。

posted by こんびに♪| 2012-02-12 07:34

Re:帰国

フィンエアーのベーリング海・北極ルートは1983年から1991年までの8年間でしたね。

DC-10の燃料タンクを増強し、定員を200席強に減らしていたようです。

ソ連の管制の許容量制限は表向きの理由で、本当はやはり軍事上の理由という気がしてなりません。

posted by かもめ| 2012-02-12 08:04

Re:帰国

>本当はやはり軍事上の理由という気がしてなりません。

ネットでは無く手元の資料なのですが1983年9月1日の大韓航空機撃墜事件で、その6日後
の9月7日の国営タス通信の発表の一文に興味深い記述があります。(翻訳は共同通信です)

※ソ連領内には数十の国際航空路線が通っている。外国機も多年にわたり飛行しているが規則を
順守している限り、何も起きていない。われわれは国際規範と完全に一致するソ連法規に沿って
今後も行動する。

国境、とりわけ領空を防衛することはすべての国家の主権に属する行動であり、国家間関係が
依拠する国際法で広く認められた原則の一つである。

「この航空機をソ連空域に向かわせるためのデータがどうして機内のコンピューターに入力され
たのか誰にもわからないだろう」と言うレーガン声明ほど皮相な言葉を誰が想像できるだろうか。
今回の領空侵犯は技術的な過ちではなかった。この航空機は、情報作戦を滞りなく実行する予定
だったが、もしその任務を阻止された場合、彼らはこの作戦全体を反ソの一大政治的挑発行動に
切り替えるつもりだったのである。

米特殊機関によって汚い目的のために使われたこの航空機の乗客たちは、この厚かましい犯罪の
犠牲者となったのである。ソ連政府は罪の無い人々の死に対して哀悼の意を表明し、その遺族と
友人の悲しみを分かち持つものである。今回の悲劇の全責任は完全に米国の指導者にたちにある。

KAL007便はアンカレッジ経由でしたが韓国はまだソ連とは国交が無いので領空侵犯からの
撃墜(カムチャッカで取り逃がした)でした。ボクはこの声明と関係なく米国主犯説派です(^^;)

もし当時ソ連機が撃墜に失敗しても沿海州あたりの米国の原潜が対空ミサイルで撃墜したでしょう。

posted by 大阪帰りの道産子| 2012-02-12 14:28

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