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1978年生まれ。 コンサドーレ創立年度から応援を始め、1998年よりアウェイコールリーダーとなる。2003年春に札幌へUターン。 またコラムサイト「コンサイズム」では2001年末~2003年末までコラムを掲載。このブログではそのアーカイブと、当時を振り返るアフタートークをお送りします(予定)。
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2008年01月11日
classics #9をお届けしました。完璧にヒマネタですねこれ。 たぶんネットをうろついて探してきたんだろうけど、この当時マリノスの社長だった左伴さんっていう人はけっこう熱い文章を書く人で刺激を受けた。その文章がネットに残っていないとので引用できないのが寂しいけど。 この時のネットはたいてい会社で、メール等は自宅からダイヤルアップ。カシオのA5サイズのノートPCを持っていたのでそこから電話線を繋いでぴーごろぴーごろ言わせてた。ブロードバンドというのを体感したのは、札幌に帰ってから。ADSLがそろそろ普及し出してきたけど料金はまだ高かったので、テレホーダイで寝る前にちょこっとだけ使ってた。次第に携帯メールで用が足せるようになって、自宅から遅い速度でネットに繋ぐこともあまりなくなってしまった。 これを書いたときから数年が経ったけど、札幌のDNAというのは醸成されてきたな、と思う。良いところも悪いところもあるけれど。でも精神的なタフさっていうのは(略)。 「受け入れる暖かさ」っていうのは、やっぱり開拓地だった北海道の気質なんだろうか。移籍してくる選手はみんな歓迎するし(まあ、歓迎されない移籍なんてないはず……なんだけど)、もてなす心はあると思う。でも「諦めない強さ」ってのはまだまだなんだろう。03年以降のJ2暮らしをくぐり抜けてきた人たちの強さはすごいと思うことがあるけれどすべての人がそうであったというわけでもないし、自分のことを考えてみてもメンタル強くなったとは言えない。むしろ弱くなったんじゃないか、以前ほど力を注げなくなってきて居るんじゃないのかという思いと場面はたびたびある。歳なのか、人間性の変化なのか。 まあこの回はヒマネタらしくあんまり具体的な話を書いてませんでしたね。 そんなわけで今思い返してもそんなに書くことがありません。
2008年01月10日
眠くなっても更新。classics #9です。 はじめてだろう、他チームの話。
とある日ネットでいろいろとサッカー関係のサイトを見ていたときに、横浜Fマリノスのオフィシャルサイトにたどり着きました。 そこには「サッカーDNA」という欄があって、言うならば今までの横浜のサッカーと、これからすサッカーへの姿勢を示すような、そんなひとつの決意ととれるものでした。 それを見ながら、「じゃあ札幌のDNAって、何なんだろう」と僕は考えていました。 Jリーグ創設からのチームに比べれば歴史は浅いものの、今年7年目を迎えようとする札幌というチームがどんな遺伝子を持っているのか。僕が思ったのは「暖かさ」と「諦めない強さ」でした。 暖かさというのはこれまでいろんな人を受け入れて、サッカーの楽しさやともに応援するチームがある事の喜びを共有してきて、サポーターの数もそれにつれて年を追うごとに増えてきたという一つの事実から考えたものです。そしてそこには、札幌というサポーターの一つの良さである「人の暖かさ」というのがあるのではないでしょうか。多くの人を受け入れて、異論をむやみに排除せず議論して解決していく、そういう暖かさや、応援でも「甘い」のではなく、選手にとってホームでもアウェイでも選手を後押しできるような「暖かさ」を持った応援ができてきているのではないか思います。それはおそらく札幌の、北海道の人間性というものとは無関係ではないと思うので、これはこれで良いんじゃないかと思います。 ただ、「甘さ」と「暖かさ」とはイコールではないのです。僕らはやはり勝つところを見に競技場まで来ているわけですし、選手達も勝ちたいと思っているでしょう。その気持ちを応援だったり、時には叱咤だったりというやり方で後押ししていきたいと思います。 もう一つ、「諦めない強さ」ですが、これは先ほどの「暖かさ」が住民性を考えたときに札幌の歴史の中である程度早くからあったのに比べて、チームとして、サポーターとして経験を積んでいく中で生まれたものだと思います。それは優勝、降格、解任といった一言では言い表せないくらいの様々な経験、その中で苦しい状況を乗り越えようとする動きが今につながっていると思います。 チーム創設の96年、昇格と存続危機の97年、苦しい戦いの末の2部降格の98年、理想と現実の歯車がかみ合わなかった99年、再浮上の2000年、残留という第一目標を果たした2001年。このすべての戦いにおいて、苦しんだあのシーンで、自分の力で何とかしようと一人一人が声をあげた、その一つ一つが今につながっているのだと思います。いくら劣勢であっても、何点離されても試合終了のホイッスルまで決して勝利を諦めない、そういうサポートをしてきたつもりだし、これからもより追求していくつもりです。 そして僕自身、こうして自分の中に築き上げられた「DNA」は、応援している時だけではなく、それ以外の、たとえば仕事がうまくいかないとき、人間関係に悩んでいるとき、そんなときにゴール裏で必死になって叫んでいた、あのときの苦しさや経験を思い出すことで、目の前の現実を乗り越えるきっかけになったことがありました。 これを読んでくださっている皆さんは、そういうことがありませんでしたか? こうして醸成され、一人一人に備わったDNAはこれから良くも悪くもなる可能性を秘めています。それはこれからの行動の結果であり、良いところをこれから来るであろう新しいサポーターに託し、悪い部分はつくりかえてゆく、生き物が種の保存の本能に従って子孫を増やすように、自分のなかのDNAを変化させ、これから伝えていかなければならないのだと思います。
2008年01月09日
clasics #8をお届けしました。 ほんとうに良く言われた。「いつ田舎に帰るの?」と。 そのたびにはぐらかしたり困ったりして、なぜか田舎に帰らないということが悪いことのように思えてしまったこともあるけど、この言葉を自分に言ってきた人たちはそういえばだほとんど首都圏出身の人たちだった。 そもそも道外の大学に行く、という考えは子どもの頃から薄かった。大学付属の中学校から地区一番の進学校に行き、北大を受けるものだとばかり思っていた(そして、そう親にも言ってた)。その考えが揺らぎ始めたのはまず転勤によっていろいろと学校を変わり、考えていた附属中学校には行けなかったこと。ふつうの中学校で勉強していたときに、数学の出来があまりにも悪すぎて受験で数学を必要とする北大には行けそうもないんじゃないだろうか、ひょっとしたら私立文系まっしぐらの人生なんじゃないだろうかと思ったこと。高校でそれが現実になったのと同時に、このまま道内でずっと生きていくのはもったいないと思うようになって、道外の国公立大学で文系で試験科目に数学がないか、もしくは劇的に少ないところを選んだ。親元から離れて一人暮らしをしたいというのもあった。で、そこにコンサドーレの介在する余地は存在しなかった。応援ならアウェイでもできる。今必要なのは、これからの人生のための経験だ、と思って。 本音を言うと、死ぬまであっちで働いて暮らして死ぬつもりだった。いくら自分が北海道の人間だからといって、北海道が暮らすのにベストな土地だと思えなかった人間だっている。それが自分だっただけだ。「ふるさとは遠くにありて思うもの」であれば、それで良かった。だから仕事を辞めて札幌に帰って来たとき思ったのは「帰ってきたなあ」ではなくて「帰ってきてしまった」という悲しさのほうが強かった。そして今でも首都圏のほうが暮らしやすかったと思っているし、いつか戻りたいと思っている。だからといって、地元に帰って仕事をしたいと思ってる人や、コンサドーレのために札幌に移住した人のことを責めるだとかそういう気持ちは全くない。逆に、そういう人たちに自分が抱くのは敬意だ。 なぜこんなに首都圏にこだわるのかというのも、「東京」に住んだことがないまま札幌に戻ってしまったからかもしれない。最初は横須賀に限りなく近い横浜で、その次は近くの多摩川を渡ればすぐ東京に行けるほどの川崎だったので、「東京に近づいている!」というワクワク感もあったのかもしれない。は高校時代に芽生えた「東京」という場所への憧れは大学時代を経てより強くなり、東京に住み働くということにこだわっていた。でも応援するのは札幌以外にないと思っていて、それがなぜなのかはわからなかった。東京への憧れが地元への郷愁の裏返しだったのだろうか。だとすれば、自分というのは酷く不器用な人間だなあ。 まあ、札幌が好きだからとはいっても、必ずしもみんな札幌の土地にすべてを捧げるというわけではない、ということだ。これって自分のエゴが強すぎるだけなのかなあ。
2008年01月08日
年が明けても淡々と粛々と。おみくじにもそう書いてあったので。 そんなわけでclasics #8です。 今回のテーマは地方出身首都圏在住なら必ず言われる 「いつ田舎に帰るの?」 という質問から始まる話。 地元が必ずその人にとって住みやすい、というわけではないのにねえ。
大学入学と同時に一人暮らしをはじめてから、早いものでもう6年目を迎えようとしています。 最初の頃は地元を離れて、しかも一人で生活するということが嬉しくてたまらなかった反面、不安の方が大きかったと思います。それも今では過去のこと、自由に行動できる一人暮らしの楽しさやおもしろさをしっかりと身につけてしまって暮らしています。 その中で僕は本格的にサッカーにのめり込んでいったのですが、それも一人暮らしだったという要因が大きかったのだろうと思います。おそらく誰かと一緒の部屋だったなら、その人に気兼ねをしてしまって近郊の試合に行くだけになったかもしれません。なので、今こうしてアウェイ中心に応援しているということと今の生活とは大きな関わりがあると思っています。 ですが、特に最近会社の中や学校の同期との会話の中で「いつか地元に帰るの?」という言葉を良く聴くようになってきました。それに影響されてか、最近自分がこれからどこでどう過ごしていくのか、なんて事を思うときがあります。 昔は死ぬまで地元には帰らない、ふるさとは遠きにありて思うものだなんて考えていましたが、最近はあと何年かしてきっかけがあれば札幌に戻っても良いかな、なんて思うときがあります。そうして考えている中でやはりサッカーの事が引っかかることがあります。 首都圏と地方都市ではサッカーを直に見るという機会が格段に違い、こっちにいるとシーズン中には毎週どこかでサッカーの試合があり、そこで様々なボールの動きを追うことができます。いくらテレビがあると入っても、やはり現場でサッカーを見るというあの雰囲気には独特なものがあり、引きつけられてしまうのです。 もうひとつ、今のアウェイの応援の雰囲気が自分にとってはとても大切なものになっているということがあります。初めて行った97年開幕の水戸から、わずかな力ではあるけれども応援する仲間を増やし、どこにも負けないサポーターであるために頭と身体を振り絞ってここまで築きあげ、時にはホームチームのゴール裏を凌駕するほどの人数と応援をできるまでにしてきた仲間や応援は何者にも代え難いものなのです。まだまだ良い応援ができる、まだ変えなければならないものがたくさんあり、それにチームが応えてくれることが今まで僕がアウェイの応援を続けてきた理由です。 しかし、社会人として働いていく上では今までのような応援ができなくなる可能性だってあります。たとえば海外に行ってしまったり、試合の日に休むことのできないような仕事に就くこともあるかもしれないし、現にそういう方がおられるかと思います。そしてう中でも札幌を何らかの形で応援されている方々を素直に尊敬しています。逆に、札幌を応援するために仕事の方を変えられたりされた方もいらっしゃることでしょう。そういう方々もすごい行動力だな、と思っています。 僕自身もそういう可能性がないわけではないのですが、今は後悔しないように自分にできることを、より強い、負けない応援を作り上げて行こうと思っています。そして、このアウェイの雰囲気をより良いものに、サポーターそれぞれが個性を持ちながらも気持ちを一つにできるものを作っていきたいと思っています。今できることはそれだと思っていますし、もし自分がゴール裏に関わることができなくなったとしても何らかの形で札幌を応援していきたいと思っています。どこでも札幌の応援はできるのです。現場でも、TVでも、ネットでも、それは方法が異なりこそすれ応援であることには間違いないのです。 そして、今週の土曜日にそんなアウェイのつながりを感じることのできる、一つのイベントがあります。毎年アウェイのサポーターが集まって新年会(というか決起集会)を、土曜日担当の渡辺さんが中心となって行われます。スタジアムで良く会う人にも、あまり話すことのできなかった人とも会える大切な集まりだと思っているので楽しみにしています。 ついでに楽しみをもう一つ。会の締めに、みんなでコンサドーレコールをするのですが、このとき参加する人みんなが心から楽しそうに、嬉しそうに大きな声で叫ぶのがすごく気持ちいいのです。ひょっとしたら、自分が毎年シーズンの始まりを感じるのはこのときかもしれません。
2008年01月07日
clasics #7をお届けしました。 前回まで自分の過去を告白するような話だったせいか、この回は比較的のんびりまったりな書き方。フットボールを離れたときの過ごし方について書いているけど、このころは本当にシーズンが終わったらすっぱり見なくなってた。今ではCATVやスカパー!で録画放送見たり海外リーグを見たりしているけど、この頃は地上波とBSアナログくらいしか見られなかったので当然のように週末はヒマになった。見るといったら天皇杯と高校サッカーの決勝くらい。あとは積極的に忘れようとしていた。なんというか、フットボールだけでは人間が狭くなってしまうというような恐怖感もあったし、とにかく会社で働くことにほとほと嫌気がさしていて休みの時ぐらいは仕事を忘れたいと思っていた。はじめてデジカメを買った頃で写真を撮るのが楽しくて、どこに行くにも持ち歩いてとにかく撮りまくっていた。もう当時のデータは残ってないけど。そのうちに「町歩き」というのがすごく好きになって(毎月「散歩の達人」とか買っちゃう感じ)、ひとりでMDウォークマン片手にどこかに行っては歩いて、移動中は本を読んで、みたいな週末が開幕まで続いた。まあ、そんな幸せな週末は03年開幕での大虐殺ですっかり崩れ落ちてしまったわけですが。 切り替え方はちょっと極端だったとは思っているけど、フットボール以外のものに触れることで自分を高めるというか人間的に深くさせるみたいな考えっていうのは間違ってはいないと思う。応援だけでなく、応援文化みたいなことに興味を持っていたし、それを深めるにはフットボール以外のこともいろいろと見たり読んだり聞いたりすることになるのは必然のことで、早晩フットボール以外のサブカルな方向に自分が転ぶような気もしてたし、現実になっちゃったので始末に負えない。そのくせ「酒井と平間をどのように使うのか」とか書いてるあたりに時代を感じさせるというか斜め上しか見ていない自分にがっくし来たりしますが気にしない方向で。 確かこの文章を書いた少し前に初詣も兼ねて鎌倉に行ったんだった。川崎から横須賀線に乗って本を読みながら向かって、富岡八幡宮にお参りした後江ノ電に乗って海岸まで。ひとりで砂浜を歩いているのは犬を散歩させてる地元の人とかを除けば自分だけで、あとはカップル、家族連れ、友人同士。着いたときには陽も傾きかけてきていて、静かに寄せてくる波を足下にしながら、あるいは堤防に座って砂浜を俯瞰しながら、砂の上に座りながらして長い時間を過ごした。少し先の突端をかすめて落ちていく夕陽が見たかったので、ひとりで待つことは寂しくはなかった。そのうちに子どもが無邪気に散らかしたような輝きが波間に満ちてきて、次第にそれは金色から赤みがかったオレンジ色に変わり、夕陽が4分の3ほど落ちた頃には空にブルーグレーの闇がカーテンを掛けようとしていた。それまで、ずっとなにも考えることなどできずに海と夕陽と人の群れを眺めていた。 ゆっくりと暮れていく景色の中に、あんなに長い間砂浜に佇んでいたのは、後にも先にもあの日だけだ。
2008年01月06日
年が明けても通常営業。clasics #7です。 タイミング良く、今回はオフシーズンの話。
社会人になって初めてのオフシーズン、僕は何をしているかというと特に何かにこだわることなく過ごしています。 サッカーだけにこだわらず過ごせるこの時期というのはとても大切なものだと思っていて、あえてサッカーから離れるというのが以前からの過ごし方になっています。 たとえばシーズン中にはお金を回せなかったものにお金を使う(CDとか本とか、その他いろいろなモノ)のも一つですし、サッカーの絡まない旅行なんかをするのも楽しみの一つです。おかげであまり遠征費をためて、というわけにはいきませんが。 そうして昨シーズンが終わってから一月以上が経ちますが、今年はいつもよりも外に出ているなぁ、という感じがします。学生時代は音楽を聴く(というか、金がないので借りるのですが)か本を読むかといったあまり金のかからない、インドア的なことが主流でしたが、今年は休みのたびに外出しては東京やその近辺を歩いて見ています。この前は築地から銀座、有楽町と歩いてみましたし、その前は鎌倉の寺を歩いて見て回ってきました。スタジアムだけではない、いろいろな街を見て歩くことで、シーズン中では目を向けることの出来なかった、というかサッカーでいっぱいだった頭では見ることのできなかったいろいろな風景を見るのが今の楽しみになっています。ちなみに今年は最近デジカメを購入したので(これもサッカーに金を使う時にはできなかったことです)、さらに「デジカメで気に入った風景を撮ってみる」というのが加わりました。 こうして今年僕がよく出歩くようになったのは、社会人になったのと無関係ではないような気がします。「毎日が日曜日」状態の学生から社会人になって基本的に休みが土日になり、「休みにいろいろ動かなければ、せっかくの休みだから損だ」と考えている所もあります。もう一つは、こうやってサッカーや日々の仕事から自分を大きく切り離してみることで、自分を再確認するというか、客観視するような意識を持っているところがあります。特にサッカーとの関わりで言うなら、野球選手がオフの時には一切ボールにさわらない、という話がありますがそんな感じでしょうか。例えすぎかもしれませんが。 こんな風にサッカーに出来るだけ触れない日々を過ごしていざシーズンになると、新鮮にサッカーに接することができます。サッカー以外ではないものによって刺激を受けた脳が、サッカーを見ることでさらにまた別の所を活性化させるような、そんなところがあります。そうしてまた新たに「ああ、やっぱりサッカーが好きなんだ」ということを再確認するための時間が現在の日々でもあります。そしてサッカー以外のモノに触れたことでいろいろと充実した状態でサッカーを見ることができると思っています。サッカーが自分にとってとても大切であるからこそ、できるだけ楽しんでいけるように充電する時間が今なのかもしれません。 でも、時たまサッカーや札幌のことを考えるときはあります。たとえば今年のスタメンを勝手に予想してみたり(酒井と平間をどのように使うのか、というのが今の自分の最大の関心事です)、札幌だけにとどまらず移籍選手の動向に一喜一憂してみたり、音楽を聴いていて「これ来シーズンの応援に使えないかな」などと思ったりします。そういうことを知らず知らずのうちに考えている自分に気がついて、思わず苦笑してしまうのですが。 自分が生活していく上でも、サッカーファンとしてあるためにも 大事なこの数ヶ月、もう少し楽しんでみるつもりです。
2007年12月28日
clasics #6をお届けしました。 これ書いてた時は社会人1年目だったのかと今更ながらにびっくりして、そして文章の青さにまた今更ながらにびっくりした。青臭いのは変わってないのかもしれないけど。そしてここで書いた内容については、自分の考えは今でも変わっていない。 結果と過程どっちが大事かっていうのをテーマにして書いているけど、どちらが重要かなんてのはその都度変わるものだよなあと思う。企業活動の中でも、新規に何かを立ち上げるときは過程を経験として蓄積することが大事だろうし、そのあとに結果を求める時がくる、ということもある。もちろんその逆もある。自分と自分の周囲が置かれている立場によってころころ変わる、その中でバランスをとっていくのが大事だし、結果ばかりを求められて生きていくのはしんどい。かといって過程だけを評価されるのも寂しい。大きく言ってしまえば人間のサガみたいなものなんだろうか。 論理と非論理の話だって、岡田さんも三浦さんもリアリズム重視の戦術ではあったけれど、その人間像からかいま見える中身を覗いてみればそれ以上に夢追い人というか理想像があって、そういうものを追い続けていられるからこそフットボールは面白いんだと思う。プレーの中でも論理的なものがあるし、センスという呼び方でしか言い表すことのできないプレーもある。それが良い。仕事で巻き込まれる非論理はごめんだけど。 こういうことを考えいる自分は良く言えば論理的で、悪く言えば理屈っぽいなあと思う。昔からそうだったし、今も未来においても変わることはないんだろうとも思う。だいたいのことが論理で片がつくと思っていたし、片をつけてきた。論理がなければ意味はないと思ってずっとやってきた。でもそれは言語的な「論理」の話で、肉体的行動や、瞬間的なものにも「論理」があると気づかされたのはフットボールを生で見始めてからのことだ。感情を表すという「論理」も、自分には長いことピンと来なかった。人間はシナプスから流れる微少なプラスとマイナスの電流で生きるデジタルな生き物だと知ったときに、ある程度そういうのは理解できるようになったと同時に、感情を表に出すのはそういう論理的でデジタルな思考回路を表現しているひとつの方法なんだと思うようになった。どうしてそういう表現になるのか、と戸惑ったこともあったけど。 なんて考える自分は、相当に理屈っぽい人間なんだなあ。
2007年12月27日
年の瀬ですが第6回。今回は当時の仕事から「結果と過程」の話。
今ではどこの会社でも珍しくないと思いますが、僕の勤める会社にも能力評価制度があります。一定の期間ごとに個人の目標と部署の目標を定め、達成したかしていないかという判断を元に給与が決まる、というやつです。 僕自身も新入社員ではありますが一応この制度の対象ではあるわけで、個人の目標や売上目標をシートに記入し、評価を行いました。 その評価の席でのこと。 僕と上司の二人で評価を見ているときには、上司は 「おまえの立てた目標は〇〇で、これは達成していないな?」 「はい」 「それじゃ、未達成だな」 でも、と言いかけた僕を制して上司は一言。 「過程がどうあろうと、出来ていないものは出来ていない。おまえがいくら頑張ったとしても、未達成は未達成だ」 企業は利潤を追求する以上、結果をまず第一に求めるのは当たり前の事ですが、この事実を改めて実感した出来事でした。 会社から帰ってきて、それではサッカーはどうだろうか、とふと思いました。 結果か過程か、どちらかを重視するのは人それぞれの観戦姿勢によりますが、僕は負けたからと言ってそれだけを理由に怒る事はないし、勝ったからといって内容がひどい場合はすっきりした気持ちで帰れない事もあります。それでもどちらかを選ぶならば、やや「結果」に傾くかもしれません。今年の札幌はまず勝ち点をとって残留する、という至上命題があったということもあるのですが。 それでもサッカーというものは、ゼロか1かというデジタルな割り切り方では決して語ることの出来ないものだと思います。そこにはデジタルでは決して表現できないアナログ的な過程や要素が必ず関わっているし、そもそもサッカーがそういった論理で割り切れるのであればサポートの意味なんて全くの無用なのですから。 たとえば選手がパスを出すとします。右に出すか左に蹴るか後ろに戻すかそれとも思い切って前線に放り込むか、といった選択は、ボールを出す方向という意味においてはデジタルで論理的な選択の結果ですし、そのボールの動きは論理の重なりであるからつまりはその最終目的地、すなわちゴールは結果であると言うことも出来ます。しかし、そこに至るまでにはボールの動きという本質の他に芝の長さや風向きや観客の歓声、その時にゴール裏で歌われている歌の種類や諸々のものが入り交じった「雰囲気」によって動くものであると思います。さらに言うならば、先ほど述べた「ボールの動き」だって、トラップの場所と角度やボールを蹴る足の位置、他の選手の動き、パススピードに判断力、すべてが一人の選手の足下から分岐するのであって、非論理である要素も十分併せ持っていると思います。 つまりサッカーは論理と非論理のごちゃ混ぜの世界であり、そこには無限の過程と結果があるということです。そして、その過程と結果のバランスの判断は個人の裁量にまかされていて、それこそがサッカーの魅力なのだと思っています。 そして、僕が今結果を求める企業社会の一員として曲がりなりにもいる以上、僕は結果や論理と同じくらい、過程や非論理にもこだわっていたいのです。結果と論理だけの社会の中で生活するのはとても息苦しいでしょうし、つまらないでしょう。けれども、サッカーにはそれをうち破るほどの過程と非論理が存在し、それは再び結果という事実になって自分に帰ってくる。そんな堂々巡りに惑わされることがどうしようもなく楽しくて、僕はこれからもサッカーを見て、札幌を応援して、ほんのわずかでもスタジアムでの一存在としてありたいと、そう思うのです。
2007年12月26日
clasics #5をお届けしました。 「残留できるなら死んでもいい」って言葉は今思い返すとすごいよなあ。 結局降格したから生きてて良かったね、と友人にからかわれたのも今となっては思い出。生きてて良かったかどうかはまだわからないけど。 この回で書いたことはいちばんの若気の至り、かつ自分の情けなさをいちばん表しているエピソードだと思う。このダンマクを書いた時点で、自分は恐怖から逃げ出したのだろうし、弱さを露呈してしまっている。狂気に100%染まってしまうことはなにも良い結果を生み出さない。そして無用な諍いをして、降格した。 当時のアウェイサポーターとホームのサポーターはぎくしゃくした関係で、それは東芝移転というのもいくらか関係していたし、互いの住む土地との距離感にもとまどっていた。その小さな歯車の狂いが降格が近づくにつれてどんどん大きくなり、試合開始前に話し合いというか、アウェイ側から「もうお前達とはやっていけない」みたいなことを言い出してしまった。何もせっぱ詰まった博多の森でやることではなかったのに。結局その場は解決策もないまま(いきなり怒ったり怒られたりしてるんだから解決策なんてとりようがなかったろうし)試合に臨んでしまって、みんな声だけは出しているけど気持ちはバラバラ、みたいなことになってしまった。そんな状況じゃ、「残留できるなら死んでもいい」なんて言葉はなんの意味も持たない、過剰な自己満足でしかなかったと思っている。そしてその「ホーム-アウェイ問題」が解決を見るのは2000年頃になってから。勝つことが最大の薬だった、ということだ。 結局このダンマクは処分に迷って、結局正月に神社のどんど焼きに出して燃やした。こういうふうに処分していいのかどうかわからなかったけど、土の中に埋めるのも保管するのもどうかと思ったし、処分するにしてもゴミに出してしまうのはどうだろうとも思った。燃えるダンマクを見ながらずっと手を合わせていたけど、あの時の自分は何に対して祈っていたんだろう。悲しみや絶望も一緒に燃やしてしまいたいと思ったのだろうか、あるいはそういうものから逃げたかっただけなのだろうか。どちらにせよ、今でもこのチームを応援しているのはあのときの贖罪の気持ちが(年々薄れていくにせよ)少しでも含まれているからだろう。このチームに幾度も心を救われたという感謝と、あの時支えることのできなかった自分の無力に対する贖罪。自分の応援する気持ちというのは、そういったもので構成されているのかもしれない。 あれ以来、ダンマクを手書きしたのは一枚だけだ。
2007年12月25日
クリスマスも気にしない(ように必死で目をそらせつつ)、「classics」第5回です。
室蘭で神戸に破れ、いよいよ降格の危機が目の前に立ちはだかってきました。それから博多の森へ行くまでの僕は今まで経験したことのない緊張と不安にとりつかれていました。 たかがサッカーじゃないか。おまえはついこの間、室蘭に行かないでひたすら図書館にこもっていたじゃないか。今まで通りに生活しろよ、「割り切って」。 そういう考え方で今までやってきたんだろう? そう自分をいさめようとしましたが、感情の流れはとどまるところを知らず、何か自分に大きな重圧がかかっているようなそんな気持ちでした。「降格は悪」「降格は屈辱」「負けることが怖い」と、初めて強く思いました。 そして僕は横断幕を作るための一枚の長い布とスプレー缶を買い、博多へ向かいました。 あの日の自分は狂気がとりついていた、と思うことがあります。 福岡サポーターを片っ端から睨み、必要もなく仲間と応援で口論し、試合が始まったらただひたすらに歌い、跳び、叫び、吠え、どんなことが起こったのかも具体的に覚えていないくらい。 そしてあの日生まれて初めて作った横断幕の言葉は 「残留できるなら死んでもいい」。 あの日の自分の気持ちを思い起こしてみて、本当に自分はあの恐怖や屈辱と真っ正面から戦っていたのだろうかと思うことがあります。あんな感情になったのは、そんな恐怖の気持ちを無理にでも薄め、狂気に身を投じた自分に酔い、目の前の現実から必死で目を逸らすために、ただ自分が不安や恐怖を味わわずにとった行為ではないだろうかと。 そしてそれは正しいのだと思うのです。 なぜなら、僕は「12.8」に、室蘭にいなかった。 何をしていたかというと、神戸戦の時と同じように大学にいて、同じように図書館にこもっていました。そして携帯電話で結果を知り、結果を知ったあとすぐに勉強に戻っていました。これもまた一つの「逃げ」の行為であったと思うのです。 行ける範囲で試合は応援に行った。残留を信じて声を上げた。神戸にも、博多にも行った。横断幕も作った。しかしそれは室蘭に行かなかったという事実の前には何も意味を持たないものになりました。一つの「終わり」を、その義務がありながら最後まで見届けなかった、見届けることに耐えられず最後に逃げ出したのですから。 あとになってこの日々を思い返したとき、あのときの自分の気持ちに初めて気がついたときに僕は激しく後悔しました。最後の最後まで見届けなかった自分を嫌いました。いっそのことサポーターなんてやめてしまおうかとも思いました。 それでも僕がこうしてゴール裏に立っているのは、それでもこのチームが好きで、札幌が好きで、もう二度と裏切るようなことをしたくないという思いと、サポーターであることをやめることで自分自身にも負けてしまうような気持ちがしているからです。 あのときのような危機が訪れたときには、今度こそは何があっても最後まで見届けたい。そして自分の声で少しでも危機を乗り越える助けになりたい。そうすることが、今まで自分を支えてきた札幌というチームに自分が出来ることだと思うのです。 だからといって自分のスタンスの根底である「生活とサッカーの割り切り」というものを変えることはないと思っています。学生から社会人になった今、このスタンスはより重要になったと思っていますし、もしあのときのような危機が訪れても、両立させることが出来ると思っています。 そしてあのときのような悲しみや絶望が訪れないように、ゴール裏に行ったときには出来る限りのサポートをするのです。自分の内にある弱さや怯えの心に勝つように、そして札幌が勝つように。
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1978年生まれ。 コンサドーレ創立年度から応援を始め、1998年よりアウェイコールリーダーとなる。2003年春に札幌へUターン。 またコラムサイト「コンサイズム」では2001年末~2003年末までコラムを掲載。このブログではそのアーカイブと、当時を振り返るアフタートークをお送りします(予定)。
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