2008年02月05日

おばあちゃんの道路

 サッカー関係のネタが続かないので、ちょっと脇道にそれた話しを。

 この間まで道路特定財源の問題で、暫定税率を廃止してガソリン価格を25円下げるとか、いやいや、道路整備はまだまだ必要だとか、日本全国が(国会だけ?)大騒ぎしていましたが、そんな議論のあちこちで、まあ、いつものことですが、「国民の目線で見ると不要(不経済)な道路がある」という耳障りの良い言葉が飛び交っていました。

 これ面白いのですが、不要な道路について声高に叫ぶ人って、だいたい道路が整備され尽くされた都会在住者なんです。
 同じような例としては、自然は貴重だ、自然を守れ、自然に手を加えることはやめろ、と主張する自然保護団体の強硬派もそうです。そう主張する人達って、だいたい都会に住んでいる人達です。

 都会から見た、いわゆる地方と呼ばれる地に住んでいる人達にとっては、地元の道路は全て生活に必要な道路なんです。
 自然の脅威と相対して生活している田舎の住民にとって、自然保護は大事なことだと頭で理解していても、目前の自然は守る対象というよりも、時として、自らの命と生活を守るため戦う相手となるのです。

「おばあちゃんの道路」という考え方があります。

 町外れの道の先に一人のおばあちゃんが住んでいました。おばあちゃんが住んでいる先には、もう誰も住んでいません。冬になると雪が降ります。町は、おばあちゃんの家の前までの道路を除雪しています。これが、けっこうな出費になっています。
 町役場の担当者が、おばあちゃんの家に行ってお願いしました。「おばあちゃん、町の中に町営住宅があるので、そこに引っ越ししてくれないか。おばあちゃん一人のために除雪をしたり、水道管を維持したりするのが大変なんだよ」
 おばあちゃんが言いました。「じいちゃんも、この家で死んだ。わしの最後の望みは、じいちゃんと生活した、この家を守って、この家で死ぬことじゃ」

 経済性優先の考え方でいけば、この「おばあちゃんの道路」は不要(不経済)な道路の代表になります。最近、何でもかんでも、対費用効果とかいう損得で物事の是非を判断する風潮がありますが、本当に、そんな考え方で世の中が良くなるのでしょうか。

 世の中の事情に意を配しない、おばあちゃんの主張はエゴそのものなのかもしれません。しかし、それでも、おばあちゃんの生活のために除雪をしたり、水道水が行くように整備するのが行政の仕事なのだと思います。
 国民のため、住民のための行政って、時には、一見、無駄にみえることも必要な場合があって、そんな暖かみのある行政が無くなったら、この世はギスギスした暗い世の中になってしまうような気がします。たとえ無駄に見える施策であっても、国民・住民に共通のサービスを提供するのが平等な行政であって、そのサービスを平等に受けることが、都会でも田舎に住んでいても同じ料率の税金を負担している国民の権利なのではないでしょうか。

 最近、都会と地方の経済格差や、富める者と貧しい者との貧富の差が広がってきて、地方や弱者が切り捨てられようとしている気がして… すごく心配なんですよ。

 と、おじさんは、思うわけです。

posted by masa2007 |20:34 | コメント(0) | トラックバック(1)

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