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2017年02月17日

『死海のほとり』  遠藤周作

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戦時下の弾圧の中で一度は棄教しようとした小説家の私が、エルサレムや死海のほとりにイエスの足跡を辿る旅を描く 『巡礼』。
イエスに関係した人々を通して イエスの真実の姿を描く 『群衆の一人』。
この2つが交互に配置される2部構成で進んでいきます。


『巡礼』 では、私は大学時代の友人で聖書学者である戸田と共に旅します。
聖書に書かれている事に疑問を感じ、心の整理がつかないままの私と、“イエスが歩いたエルサレムなど最早無い。ローマ軍に、イスラム軍に、十字軍に破壊された街の上に街ができ、廃墟の上に廃墟が積み重なって丘となり、現在のエルサレムはそんな丘の上にある。最後の晩餐の家や油絞り場の園(ゲッセマネ)の遺跡はあるが、そんなものは巡礼者用、観光用のにせもの。聖書に記されたイエスの姿や言葉も後世が作り上げた創作だ” と語る戸田との会話は、遠藤が長い間、心の中で自問自答してきたものなのでしょう。
二人は大学時代に出会ったノサック神父や 「ねずみ」 と呼ばれた修道士コバルスキについて語り、ユダヤ人収容所で死んだコバルスキの最後を尋ねるために生存者を探し キブツを尋ねますが、ノサック神父やコバルスキ修道士の姿が いつかイエスの姿に重なります。

『群衆の一人』 では、病気の我が子を助けるためにイエスに奇蹟を求める男、病床でイエスに看病されたことで弟子になった アルパヨ、無実のイエスを陥れようとした 大祭司アナス、イエスに死刑を言い渡した 知事ピラト、イエスと共に十字架を担がされた 蓬売りの男、イエスの磔刑を実行した 百卒長 など、イエスと同じ時代に生き、イエスがその人生を横切った人々を通してイエスの姿を描いています。
遠藤はイエスを、聖書によって聖人化された偉大なキリストではなく、奇蹟を起こすことなど出来ず、救世主としての期待に応えられない敗北者だとし、人々の不幸を共に苦しみ悲しみ耐えてくれる存在なのだとします。
そんな惨めな姿のイエスが人々の心を打つのはなぜか。その理由が語られるのですが、「百卒長」 の章にあるシリア人の奴隷兵から聞いた言葉、 「あれは愛の人だ。力もなく、みじめそのものだったが、優しさが体にあふれていた。どんな人間にもなつかしそうに話しかけ、子供たちを可愛がり、みなが見棄てたライ病人や熱病患者の住む谷ばかりにでかけていた」 が端的に象徴していると思います。


「もっとも遠藤らしい」 と言われる作品だそうですが、遠藤のイエス観がよく伝わって来る とても興味深い作品でした。


posted by aozora |22:22 | 本の話 | コメント(0) | トラックバック(0)

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