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1978年生まれ。 コンサドーレ創立年度から応援を始め、1998年よりアウェイコールリーダーとなる。2003年春に札幌へUターン。 またコラムサイト「コンサイズム」では2001年末~2003年末までコラムを掲載。このブログではそのアーカイブと、当時を振り返るアフタートークをお送りします(予定)。
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2008年04月15日
clasics #40です。前回の「classics」に続き、「何書いてるんだかわからないシリーズ」第二弾。
言葉というのは不思議なもので、自分ではうまく言い表せなくてもどかしいことをたった一言で言われたり、あるいは読んだだけで愁眉を開くような、雷に打たれたような刺激を受けた経験のある人は多いと思う。(ちなみにそんなことない、という人はすごい人だと思う。その理由はまた後で。)その最たるものが「人生とは〇〇である」という例えの言葉だろうと思っている。曰く、「人生とは登山である」「人生とは川の流れである」「人生とは天気である」、そして僕がこうして書いているコラムで何度もしつこく言っているように、「人生とはフットボールである」とも。(ちなみに、「人生とはフットボールである」ということと「フットボールとは人生である」ということは、主語とその対象を入れ替えただけではとどまらないもっと大きな違いがあると感じているが、そのことはまだ自分の中でもまとまっていないので改めて書いてみたいと思っている) こうして人生というもの(なんだか上段に構えているようで気恥ずかしい、と思う人は「人生」を「日常」とか「生活」と読み換えてみてください)を一つや二つの簡単なセンテンスに丸め込んで表現するということは確かにわかりやすい。また、はっきりとはわからなくても「ああ、そういうことかもしれないよな」なんて、なんとなく納得できたりする。どうしてそういうふうに納得できたりするのかというと、そのように人生のメタファーとして置き換えられるものというのは、必ず今この世界の中にある何ものかであり、思想であり、物体であるからだ。人間が今までの歴史の中で誰も思いもつかなかったようなことをとりあげて「これが人生というものだ」――なんて一刀両断に言うことはまずないし、あったら人間なんて生きることに飽きてもう存在すらしていないだろう。だって人間は「それ」を思いついたことがないのだから、それはどっちかというと「発見」に分類されるものだろう。そうして人生というものは、そのメタファーにされる対象によって如何様にもその読み取られる形を変えることができる。複雑な多面体、もしくは不定の流動体をいろいろな切り口でいろいろな角度から眺めるようなものだ。それは硬質であると同時に柔らかであり、熱いところも冷ややかな部分もあり、いつもどこかしら不透明で、めまぐるしくその形を変えているものだ。そういう存在が人生であり、またフットボールでもあるのではないか――と、また僕は小難しく思ったりしている。 まあそういう思考はともかくとして、ここで僕にはひとつの思いが生じてくる。「人生とは〇〇である」と例えることによって、人生というものをシンプルに提示することはできる。しかしそこで一言にシンプル化されることによって、語られることのないいろんな感情や事象が出てきてしまうということだ。砂を両手にすくったとき、手のひらからこぼれおちてしまうように。そうしてこぼれおちたものは「人生とは〇〇である」という、理解する側にとっては圧倒的な言葉の威圧感の前にその存在感を希薄にさせられ、その言葉を受けた瞬間、それに気づくことはまずない。それゆえに、一言では言い切れなかったこぼれおちたものを別の手で受け止め、提示するために「人生とは〇〇である」というような、さまざまな表現が成り立つことができるのではないだろうか。 ゆえに「人生とはフットボールである」と言う表現もまた然り、だ。人生という長いスパンのものを90分のフットボールに例えることの中で、自分でも気づかなかったほんの小さな感情の揺れ動く様を読み取るということは非常に困難だ。朝、道ばたに咲いていた花の美しさを「フットボール」という例えを用いて表現することはちょっと難しいかもしれない、ということだ。まあ、人生の全てをフットボールに例えることができたとしたらそれはそれで悲しむべきことなのかもしれない。俺の人生ってその程度だったのかよ、なんて。 ということで、フットボールというものの中にはまだまだ僕らが語ろうとして語れないもの、感じ取ろうとして感じ取れないもの、表現しようとしてできないもの、あるいは想像もしていなかったようなものがまだまだ隠れている、と僕は思う。そしてフットボールを観て、語るということにはそういった隠れている(あるいは見過ごしていた)ものを拾い出し、感覚として共有することを大きく広げる可能性があるではないだろうか。ゼノンが「アキレスと亀」の論法の中で示したように、時間は無限に分割されることができる。だとするならば、フットボールという事象においても「時間」を無限に分割し眺めることができるのだろうし、そこには無限の意味がある。そしてそれはフットボールにとどまらず、他の人生のメタファーとして表現されるもの全て、ひいては人生そのものに広がっていくのではないだろうか。とはいえ、これはちょっとかなり乱暴な言い分だとは思うけれども。 そういうわけで冒頭でもちょっとだけ触れたが、たった一言の言葉で愁眉を開く、もしくははっとさせられるような経験をしたことがあるか、と聞かれて「そういうことはない」と答えた人は個人的にすごい人だと思う。それはつまり「人生とは〇〇である」というように、この世の全ては一言で表すことなどできない、ということをもうすでに獲得できている人なのだろうと思うからだ。そして僕はそういった経験がなかったので、人生をフットボールというメタファーにして、こうしていろいろと考えてみたりする。 まあ毒にも薬にもならないだろうが(もしかしたら毒になる確率が高いかもしれないが)、こういうことを考えるのは僕にとってはとても楽しい。だからこれからもフットボールの中に見えるいろいろなものを眺め、また見出していければいいと思っている。それが僕にとっての、フットボールを「観る」という行為だ。
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