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札幌市在住のダイです。無類のフリーキックマニアです。サッカー以外にも野球やモータースポーツ(特にF-1)も大好きです。水曜どうでしょうとSaku Sakuが大好きです。

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負けないで

2007年05月31日

おはようございます、5月も今日で最後ですか・・・早いですねぇ。

今月は色んなニュースが沢山ありましたね。スポーツ系で言えば幸雄さんの2000本安打とかミランがチャンピオンリーグ優勝とか、藤田君の代表選出とか、白鵬の横綱昇進など・・・

また政治や経済などでも色んなニュースがありました。ここ最近ではZARDの坂井泉水さんが亡くなられたというショックなニュースもありました。

僕は直接ZARDの曲は知りませんが、世間に与えた影響は計り知れないでしょう。心からご冥福をお祈りします。今日はそんなZARDの代表曲のタイトルをお借りして月末の記事を展開しようと思っています。少々文章にまとまりがない気がしますが勘弁してください。


人は「何らかのもの」と常に戦いながら生きています。

あなたは何と戦いながら生きていますか?

例えば会社で課せられているノルマでしょうか?または何らかのストレスでしょうか?学生ならどうでしょうか?学校の勉強と戦っているでしょうか?受験戦争と戦っているでしょうか?それともいじめでしょうか?

例えば長年抱えている病気と戦っている方もいらっしゃるでしょうし、やり場の無い怒りや悲しみと戦っている方もいらっしゃるでしょう。

それらの戦いは本当に大変な事、人はそれらが嫌だから時々逃げ出したくなる。

現実逃避をしてしまったり、最悪自ら・・・って事もありうる。

誰もがそれらの戦いを回避したい。でもその戦いに打ち勝たなくては自分の生活は成り立たないかもしれない。

例えば仕事・・・ノルマだったり新しい仕事だったりと様々な重圧を課せられることがしばしば・・・いや。しょっちゅうかもしれない。それをクリアすると、また新たなノルマや仕事を課せられるし、クリアできなければ「使い物にならない」とレッテルを貼られる可能性だってある。

人間誰もが楽をして生きていきたい。病気も怪我もせず、余計な圧力にさらされる事なくお気楽極楽に生きていきたい。仕事なんかしない状態でいられたらどれだけ楽だろう・・・そんなわけにはいかないのは当然のことなんだけど。

だからそのような圧力に負けたら終わりといえるかもしれない。みんなそれに負けないように歯を食いしばって生きている。だから改めてそうやって戦っている人たちに改めて言いたい・・・

負けないで もう少し
最後まで走り抜けて

そう、最後まで走り抜ける必要がある。決して後悔をしないようにするためにも。

負けないで ほらそこに
ゴールは近づいている

そう、頑張っていればゴールといえるものが見えてくるはず。それは「結果」として表れるかもしれない。それを見失ったら何も出来なくなる。ゴールを見失ってはいけない。それを見失うって事は自分を見失う事にもなりかねないから。

だから自分にも他の誰かにも伝えてあげたい・・・心から、本当に心からこう言いたい・・・

負けないで


Smile

2007年04月30日

いやぁ・・・寝た(爆)

今日午前中に宮の沢に行って練習見学とファンサを楽しんできました。その後家に帰ってお昼寝をして・・・今さっき起きました(笑)天気もよかったし選手達もバーベキューを存分に楽しんだのではないでしょうか?

では月末なのでもう一度更新します・・・


今回のタイトルは「Smile」というもの、でも今日は爆笑ネタではありませぬ(笑)

Smileという単語、皆さんもご存知のとおり「笑う」という意味があります。

皆さん最近笑ってますか?どんなことでもいいです。例えばテレビを見て笑うとか、友達とバカ話をしてゲラゲラ笑ったりとか・・・

笑うって素敵なことだと思います。一時期笑うことを忘れた僕にとっては本当にそう感じます。

「よく笑えた1日は佳い1日だ」

日高晤郎がよく言っている言葉、色紙によく書く言葉ですが本当にそう思う。笑えるっていうのは素晴らしい事だ。ストレスもプレッシャーも何もない。人として「笑える」というのは本当に素敵なことだと思う。

笑顔は人を引きつける力がある。例えばいつも笑顔な人といつも怒っている顔の人とどちらの人を友達にしたいだろうか?そのあたり子供はよく察知する。いつも怒り顔の人を子供はきっと「怖い人」と決めつけて近寄らないかもしれない。笑顔でいるということ、笑っているというのは人を引きつける力がある。

そして笑うということは健康にも寄与するということがわかった。

例えば血圧、高血圧の人が思いっきり笑えば血圧が10ほど減り低血圧の人は逆に血圧が10ほどあがるのだそうだ。

それだけじゃない、笑うことで肝機能の働きがよくなるし、血流の流れもよくなる。大腸の働きもよくなってお通じもよくなる。

実際にある診療科目では笑うことをリハビリに取り入れているようです。患者を笑わせることで治癒能力を促進させているのだろう、笑うことで「エンドルフィン」というホルモンが分泌されてそれが健康に寄与するという見立てをしている学者もいる。

昔の格言に「喜びに満ちた心は治療薬としてよく効く」というものがあります。ここで出てきた「喜びに満ちた心」というのは実際には「大声を出して笑う」という意味合いがあるようです。人が笑いを忘れたら大変なことになる・・・僕は笑うことを思い出すことが出来て本当によかった。

最近はコンサドーレが勝ち続けているのコンササポは笑顔であふれているでしょう。そうあることは本当に素晴らしいこと。その笑顔を他の人たちに振りまけるのならなお素晴らしいこと。

人は生きていくのに様々なストレスやプレッシャーと闘っている。ストレスフリーな人っているのだろうか?それらに勝つためにも笑うことは忘れちゃいけないと思う。笑うことを忘れてはいけない。忘れたら悲惨なことになってしまう。一度忘れた僕が言うのだから間違いない。

明日からも笑っていこう!


黒やぎさんにはなりたくない

2007年03月31日

まずは今日のC大阪との試合はカウエのゴールで見事に勝利、スカパーで見ていましたがみうみうのテレビでのインタビューにはしびれましたね!

インタビュアーが「これで暫定首位ですね?」という問いかけにみうみう一言・・・

「いや、関係ないです」

いやぁカッコイイっすなぁ(~_~)確かに今のところは首位だけど順位より1試合1試合を大事に戦ってほしいですね。三浦さんの言うように今は順位を意識する必要はないかもしれないですね。

今まで携帯から更新していたけどやっぱりPCからの更新っていいっすねぇ!
(^_^)v今某ネットカフェで更新していますがデスクトップのキーボードってやっぱり打ちにくい・・・(ーー;)早く僕のノートPC戻ってこ~いっ!!


さてさて、そんな
セレッソ戦での勝利で盛り上がっているところを水を差すようで申し訳ないのですが月末ということで「このブログでのお約束」をさせていただきます。興味のない方はここから華麗にスルーしてくだされ(~_~;)


白やぎさんからお手紙着いた
黒やぎさんたら読まずに食べた
仕方がないのでお手紙書いた
さっきの手紙のご用事なあに 

黒やぎさんからお手紙着いた
白やぎさんたら読まずに食べた
仕方がないのでお手紙書いた
さっきの手紙のご用事なあに 

これは「やぎさんゆうびん」という童謡の歌詞です。
このやり取りは結構ご存知の方も多いはずです。僕もこれは知っていました。

手紙の内容を知らずに勝手に手紙を食べてしまい「ご用事なあに」って本末転倒な気もしないではないですが。

手紙に限らず会話の中でも「相手の意見や考えを聞く、知る」というのは本当に大切なこと。それを理解しないと極端な話あらぬ誤解を招くことだってある。自分の意見をはっきり伝えることはとても大事だけど同様に相手の話に耳を傾けないと意思疎通が図れない。本当に大事なことではないでしょうか?

と、いうのは先月から新しい職場で仕事をしているけどまさに人の話を聞くことが今の僕の仕事になっているからです。

具体的な仕事内容はここで書いたりすることはできませんが簡単に言うなら「問題を抱えている人の話を聞いてその問題の解決のお手伝いをする仕事」という表現がふさわしいのでしょうか?

そんな仕事を今週から本格的に行っています。世の中にはいろんな人たちがいるもんだなぁと改めて感じています。

今までの仕事も人と接する仕事だったけどあくまでも「地域限定的なもの」でしかなかった。今回はそうではない。ホントに幅広くてびっくりしています。

僕らにとっての「お客様」の話をよく聞く・・・簡単そうでこれが中々難しい。と、いうのは相手の言いたいことをきちんと把握しなくてはいけないからだ。相手は僕に対して自分がわかっていることを100%伝わっていると考えるでしょう。でも実際は70%ぐらいしか理解できていないかもしれない。

よく話を聞いていないお前が悪いだろ!と思うかもしれない。でもそれほど「人の話を理解する」ということは難しい事なんですよ。だからこそやりがいというのも感じている事も事実です。

人は誰もが自分の話を聞いてもらいたいもの。自分が体験したことや感じたこと、腹立ったことや悲しかったことなど本当にいろんなことを話したい衝動があります。それを受け止めて同調するというのはかなりの技術が必要になるでしょう。

言葉のコミュニケーションというのはキャッチボールと一緒できちんとしたやり取りが出来ていないと成立しないものです。だからこそ僕は相手の話すことを100%理解したいからそのための努力を惜しまないし、そのための「聞くスキル」というのも磨いていきたい。

「やぎさんゆうびん」のように手紙を食べるようなことはしたくない。自分を必要としてくれている人たちからの言葉から逃げたくはない。もちろん今出来ることは限られている。でもね、限られている中でも最大限の努力をすればきっとそれをわかってくれる人もいるはず、そう信じています。

僕は黒やぎさんにはなりたくない。


今でも大切にしたい言葉

2007年02月28日

今日で2月も終わりですか・・・
まあ28日までしかないので早いと言っちゃえば当たり前なのですが。

そういえば今日は北京五輪の予選が始まりますね。反町ジャパンがどのような試合を見せるのか・・・今日も急いで帰らなくちゃ。

では月末なので恒例のカターイ話をご覧になってください。


皆さんはいままでどんな言葉をかけられてきましたか?

そんな漠然とした事を聞かれても「はぁ?」と思うでしょう、無理のない事です。

人と人がコミュニケーションを図る上でどうしても言葉というものが必要になってきます。でも言葉というものは諸刃の剣でよい関係を築く事もできればそのよい関係をあっさり終らせる事もできる・・・非常に厄介なものといえるでしょう。しかも後者の場合「取り消す事が出来ない」ものだからさらに厄介、いくらこちらの非を認めていても相手が許す気にならなければいつまで経っても状況は改善される事はない。

また逆の面もあってよい言葉を掛けられたらそれがいつまでもその人の中に残って極端な話それがその人の「人生の支え」になってしまうこともある。だから言葉って大事だなと思います。

今月から職場を変えてかれこれ1ヶ月、研修の中でも言葉使いに関する内容があったりするんですけど、今まで自分の中で正しいと思っていた言葉って実は間違った使い方をしているんだなと気付かされる事ばかり、そういった研修の1日1日の講義内容が今の僕にとってものすごく大事な事を教えてもらっているのだなと痛感しています。

僕もそのように「よい言葉」を言えるようになりたいものだ・・・

そう感じてしまいます。でもそれってなかなか難しい事、昨日今日ですぐに出来るようなものじゃない。

僕は幸いな事によい人たちに恵まれてきたから「よい言葉」をよく言ってもらえる機会が多かったと思います。その言葉は今でも忘れる事はできないしそれを思い出すことによって自分の中で奮い立たせているように思えます。

皆さんはどのような言葉が自分の中に残っていますか?

僕の場合いくつかあるのですがその中のいくつかをここに紹介します。

まずは小学校の卒業式のとき・・・

担任の先生がみんなを立たせてこういいました。

「みんな、教室の周りにいるお母さんたちと握手をしなさい」

まあ言われるままにそのようにしたら握手している最中に先生がこのように言いました・・・

「握手したその手の温もりを忘れてはいけません。その暖かい手であなたたちをこれまで育ててきたのですから。親に対する感謝を忘れてはいけませんよ・・・」

その言葉の重みはものすごく伝わった。今もこの言葉は忘れる事はできない。だから親を大事にしたいと思うようになりました。

そして前の職場の経営者が僕に語ってくれた言葉も今も残っています。

04年に入院していた時にお見舞いに来てくれました。「申し訳ありません・・・」とただただ謝る僕、忙しいのに時間を見つけてお見舞いに来てくれた事に対する申し訳なさと自分が今動けない状況ゆえの歯痒さとかもどかしさとか・・・悔しさとか・・・色々な思いが交錯していて・・・

で、その帰り際に一言こう言ってくれました・・・

「俺たち全員待っているから」

この時「お大事に」とか「早くよくなってね」とか、「大丈夫?」という言葉より1000倍・・・いや10万倍以上に嬉しかった。嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。普通なら使い物にならない人間に対して「お前が必要なんだ」という事を訴えてきてくれた。どんな慰めの言葉より本当に嬉しかった。病室で声を出して泣いたのを昨日のように思い出します。

そして昨日、また嬉しい言葉を掛けてくれた方がいました。

それは今働いている職場の「元」上司の方。僕を面接してくれて採用してくれた方でした。というのも僕が入社してから事情で退社されたみたいで、その方が担当していた研修講義がものすごくタメになる内容だったようでその研修を受けている同僚たちが上手く研修内容をこなしているのを見ていて「えらいハンデを背負ったなぁ・・・」と痛感していました。

昨日職場のオフィスにその方がいらっしゃっていたらしく、「メッセンジャーで一言書くように」と別の上司から言われて僕も色々書かせていただきました。その中に研修を受ける事ができなくてハンデを感じているという事も書きました。今自分が感じている心情を書いたつもりでした。

すぐにメッセンジャーでレスが届いてそこにはこんな内容が書かれていました。

「まぁ、ハンデがあるくらいが人生楽しめるってもんさ。」

本人はきっと軽い気持ちで書いたのかもしれないけど今の僕にとってこの言葉もものすごく嬉しい言葉でした。研修中にひとりで勝手に涙ぐんじゃって・・・研修どころじゃなかったです。相手もしていない新人相手にこうやって気遣いの言葉を投げかけてくれるなんて本当に嬉しかった。僕は前の職場といい今の職場といい本当に恵まれた環境にいるんだと思います。本当によかった。

それらの言葉は僕のこれからの人生において絶対的な財産になると思う。この言葉を大切にしてこれからも生きていこう。


Time Passed Me By

2007年01月31日

おはようございます。今朝は暖かいですねぇ。札幌は今日最高気温が7度まで上がるとか。雪解けが進むと思うけど、雪まつりの雪像作りに影響が出ないかどうかが心配です。

では本題・・・タイトルはTM NETWORKの曲から拝借しましたが音楽的な内容ではありませぬ(笑)


1月が終ろうとしている。ついちょっと前に年が明けたと思ったら1年のうち12分の1が終ろうとしている。

やっと1ヶ月かよ・・・

そう感じる人ってどれだけいるのだろうか?きっとこの記事を見てくださっている皆さんは僕と同じ「もう1ヶ月」という感覚ではないでしょうか?

時間というものは1日24時間、1年で換算すると8760時間ある。これは誰でも公平に、人種や国籍、住んでいる場所や貧富の差など全く関係なく公平に与えられている。

最近特に感じる・・・時間の使い方は大事だなと。

よく時間が足りないという表現を耳にする事がある。でもさっき書いたように全ての人間に与えられている時間は平等です。誰かが「1日27時間」というような事はない。そう考えると時間が足りないのではなくて、「時間の使い方が下手」なだけな気がする。

よく「時間が止まればいいのに・・・」とか「時間が戻ったらいいのに・・・」とか考える事がある。でもそれだって自分勝手な考えでそんなに都合のいい話なんてあるわけが無い。

時間は公平に与えられているけど公平に過ぎ去っていく。それはもう後戻りのできない現実、今の若者はその事に気付いているのだろうか?もしくは気付いているけどそれを「見てみぬフリ」をしているのだろうか?

確かに若い時・・・例えば10代の頃って遊びたい盛りだろう、僕もそうだった。友達とゲーセンに行ったり当時付き合っていた彼女とデートしたりしていた。でも10代でしか出来ないことって遊び以外にもいっぱいあると思う。

そういうのを見出して欲しい。例えば勉強はそのひとつかもしれない。10代で勉強した事をこの先20代や30代になって勉強しなおすとしたらそれは骨の折れる事だと思う。今しかできないことをできるようにして欲しい、だって時間は後戻りできないのだから。

昔の格言にこんな言葉があります。僕は結構この言葉が好きなんです。

何事にも定められた時がある。 誕生のための時があり,死ぬのに時がある。植えるのに時があり,植えられたものを根こぎにするのに時がある。 殺すのに時があり,いやすのに時がある。崩すのに時があり,建てるのに時がある。 泣くのに時があり,笑うのに時がある。泣き叫ぶのに時があり,跳び回るのに時がある。 石を投げ捨てるのに時があり,石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり,抱擁を控えるのに時がある。 捜すのに時があり,失ったものとしてあきらめるのに時がある。保つのに時があり,捨てるのに時がある。 引き裂くのに時があり,縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり,話すのに時がある。 愛するのに時があり,憎むのに時がある。戦いのための時があり,平和のための時がある。

そう、何をするにしても「時がある」、時を無くしては行動できない。その時を逃したらもったいない事、それを見極める力が必要なのかもしれない。だって後悔したくないから・・・

だから今できる事を精一杯していこう。改めてそう思える1ヶ月でした。


百億の出会いよりも・・・

2006年12月31日

今日2回目の、そして今年最後の更新・・・

実は今年の年越しは家でひとりで年越しなんですよ。それで村野さんの牛すじの煮込みにチャレンジしています。時間がかかるけどなかなかいいにおいがしています。スープなんかラーメンに使ったらうまいと思うような匂いを出しています(笑)ちなみにさっき試食したらなまらうまかった!写真は明日アップしようかな?

そういえば今年はPRIDEが地上波放送無いのね?美濃輪VS田村見たかったぁ~っ(T_T)

では・・・


皆さんにとって2006年はどんな年でしたか?いい年でしたか?それとも悪い年でしたか?

僕個人としては「いい年」でした。と、言うのはこのブログを通じて色んな人たちと知り合うことが出来たからです。

たじさんに薦められて始めたこのブログ、最初はどうなるかと思ったけど今でも楽しく更新しています。

2005年の最終戦、この日僕は「ひとりで」観戦に来ていました。朝早くからひとりで列に並び、ひとりで席を確保し、ひとりで弁当を食べ、ひとりで応援をしていた。まあ簡単に言うならば「サポ友」がひとりもいなかったんです。一緒に見る人もいなかった。でも不思議と寂しさというものは無かった。それが当たり前のことだと思っていたから。

でもこのブログをきっかけに本当に色んな人たちと出会えることが出来ました。一緒に行動したり、食事したり、お酒を飲んだり、試合を観戦したりetc・・・

またメールや電話などでも気遣ってくれる人たちにめぐり合えたこと、これほど有り難いと感じたことはありません。「来さ」という店との出会いも外せないですね。「ばんぶう」もそうだし「ほっと12」だってそう。本当に貴重な時間を過ごさせて頂きました。ありがとうございます。中には家族ぐるみで構ってくれたりとかいくつかのOSCの方とも知り合うことが出来ました。

「ダイさん今度の○○戦は行くの?」
「ダイちゃん今度一緒に観戦しよう!」

って声をかけてもらえること・・・本当に嬉しいです。ありがとうございます。

さらに今年はサポーターとしての経験値を大幅に上げることができました。観戦数も過去最高だし、今まで行った事の無かった入江にも行くことができた。すいかも体験したしコンサドーレを支える人たちからかなりディープな裏話も聞けたりしたし。ドームの旗搬入も経験し裏でどれだけの人がコンサを支えているのかがよくわかったし、なによりアウェーに行けたことが一番大きかった。もしブログを始めていなかったらそんな経験をすることなんて出来なかったでしょう。

僕としては本当にブログを始めてよかったと思っています。出来る限り続けたいと思っているし、このブログを通じて色んな人たちと仲良くなりたいし。

そうしたひとつひとつが僕にとって非常に貴重なものになっています。かけがえの無いものになっています。

人それぞれ違うもの、多くの人に出会ったたけど同じ人はひとりもいない。十人十色、千差万別・・・だからこそ貴重なんですよ。同じ人なんてどこにもいない。もしみんな同じ性格や感性だったら面白みも何も無い。そう思いませんか?

僕が心から尊敬する作家さんはこんな詩を書いていました。

たとえ 百億の出会いを 繰り返しても
二度と あなたと同じ人には会えない
ずっとひとりきり 抱えてた
淋しさの答えがわかった
本当のcommunication もう一度教えて

本当にそう思う・・・そう思えませんか?

さて今年も残りわずかです。今期果たせなかったJ1昇格を来期は現実のものにしなくてはいけない。予算的に厳しいものはある、でも今までの積み重ねをチャラにして1から始めるわけにはいかない。だから僕たちは前を向こう!下や後ろを向いてはいけない、前を向こう!もう62日後にはJ2リーグは開幕するのだから。

ではこのブログを見てくださった皆さん、ありがとうございました!来年もどうぞよろしくお願いいたします。

どうぞよいお年を・・・


誰にでも必要な褒め言葉

2006年11月30日

今日は11月30日・・・

選手は一体どんな心境なんでしょうね。全ての結果は早ければおそらく明日の新聞で明らかになるでしょう。まだリーグ戦や天皇杯は続くけど来期への準備はもう始まっているのだから・・・

では本題・・・

今回もなんとなく固い文章に仕上がってしまいました。よかったら見てやってくださいな。


僕自身本当にこれは自分に適用したいなぁ・・・と感じる事があります。もちろんそう出来るように努力中なんだけど、まだまだです。今回はそんな事を書いていきます。

ある雑誌の記事でこんな内容が書かれていました。

その小さな女の子にとって,その日はいい日でした。いつもは懲らしめを受けることが多いのですが,今日はとてもお利口にしていたのです。ところがその晩,その子がベッドに入ったあと泣いているのに母親は気づきました。どうしたの,と尋ねると,その子は泣きじゃくりながら,「きょう,わたし,いい子じゃなかった?」と言いました。

その言葉は母親の胸にぐさりと突き刺さりました。母親はいつも何かあればすぐに娘を懲らしめていました。ところがこの日は,幼い娘が一生懸命お行儀よくしようとしているのに気づいていながら,よく頑張ったわねという言葉を一つもかけてやらなかったのです。

わかるでしょうか?この女の子は褒めてもらいたかったのにそうしてもらえなかった。幼いなりに一生懸命行儀よくしていたにも拘らず褒めてもらえなかった。娘の一言に母親はどんなに自戒の念に駆られただろうか?

褒める事、簡単そうにみえてこれがなかなか難しい事。なぜなら人は相手の欠点をすぐに見つけることが出来るから。

人の欠点や弱点・・・これほど簡単に見つけられるものはない。例えば人の口癖であったり、しぐさや表情、態度などなど・・・例を挙げればキリがないほど。それだけ見て「ああ、この人はこういう人なんだぁ」と決めつけ距離を置いたり嫌ったりする、それは非常に簡単な事です。

人のいい部分・・・これは本当に見つける事が難しい、僕もそう感じます。仕事で新人と組む時は特に感じます。

ちょっとミスが多かったりとかあるとちょっと「ムッ」とくることは正直なところあります。腹が立つこともあります。そういう時こそ「相手のいい部分を見つけるように努力」しています。

相手のいい部分を見つけるのは本当に難しい。例えるなら1メートル四方の砂浜の中から0.01カラットのダイヤモンドを見つけるくらい難しいかもしれない(笑)そのダイヤを見つけるにはよーく探さないといけない、しかも注意深く。それを見つけた時どんな感情が湧くだろうか?

相手のよい点を見つけるには時間がかかるかも知れない。でもそれを見つけた時どんな気持ちになるだろうか?それを認めたくなるんじゃないだろうか?その時にきっと褒め言葉を発するでしょう。

褒め言葉は人を成長させます、そして自信をつけさせる事ができます。さらに自尊心も高められ自分が必要とされている事を認識する事が出来ます。

僕も職場の相方に対して、相方が自分でよい判断をした時に・・・

「そう、今の選択で正しいよ!その調子でね!!」って言うと・・・

「はい!わかりました!!」と言って目の輝きが増しているのがわかります。そして動きも良くなります。もちろんダメな部分はしっかり指摘はするけどいい部分を褒めることで指摘されたミスは減っていきます。それを手に取るようにわかると本当に嬉しいものです。

褒め言葉は誰もが欲するものです。

幼い子供であれ、若者であれ、大人であれ、高齢者であれ誰もが褒めてもらって気を悪くする人なんていない。皆さんは人から褒めてもらって気分を害したことはありますか?まず無いでしょう。
だからこそ褒め言葉が必要なんだぁ・・・と感じるわけです。

そして褒め言葉を受けたならそれを受け入れましょう。これはかなり大事な事。

相手が褒めるというのは誠実な気持ちでそうしているはず。例えば・・・

今日のごはんおいしいね!
今日の演奏最高だったね!
いいシュートを打ったね!!

とか例を挙げればキリがないほど。

で、思わず言ってしまう言葉・・・

「いやいや、そんな事ないですよ」

一見謙遜にしているような感じもするけど実際は相手の褒め言葉を拒否している事になります。豪華なプレゼントをもらえるにも拘らずそれを横柄な態度で拒否するかのように。

相手が褒めたならそれを受け入れる事、それも大事な事。だから相手が褒めてくれた時には素直に・・・

「ありがとうございます、今日は気合い入れて頑張ってみました」

なんて言ってみてもいいでしょう。それは全然傲慢な態度ではない、むしろ相手の褒め言葉に感謝を表しているのかもしれない。

う~ん、こうやって理想的なことは書けるけど実際にしてみるとこれがなかなか難しい。でも努力する価値はあると思う、そう思いませんか?


考える事の大切さ

2006年10月31日

10月31日、今日ってたしかハロウィンですよね?

っていうか日本においてハロウィンはあまり認識されていない・・・というかハロウィンの事を知っている人ってどれくらいいるんだろ??

まあ日本で子供たちが仮装して家の前で・・・

いたずらか?お菓子か?

って来たらどうしましょ??(笑)それはそれで面白いかも??(^◇^)

では本題・・・


この前、非常に興味深い話を聞く機会があったんでその話と、それをどう感じたのかを書いていきます。

先日ある講話を聞く事ができました。その内容は考えることの有益さを訴えるものでした。

特に引きつけられたのは日本の子供と欧州の子供の考え方だった。それは学校教育が影響を及ぼしていると言えるかもしれない。

その中で興味深い対比がなされていた。

日本の子供と欧州の子供に同じ質問を2つ聞いてみました。

「ペンギンはなぜ冷たい氷の上や寒い北極や南極でも生活できるのか?」というもの。

この問いに日本の子供たちの答えはひとつしかでなかったようです。それはなにか?

「わかりませーん」というもの(苦笑)

ところが欧州の子供たちは色んな考えをどんどん発表したのだそうだ。もちろん想像や憶測がほとんどだろうけど、色々な発想から様々な答えが出てきたそうだ。

次にこんな質問をしてみた。

「ペンギンはマイナス何度まで耐えられるのか?」

これには欧州の子供たちは「わかりませーん」と答えたようだ。むしろそういうことに興味が無いともいえる。

それに対して日本の子供たちは色んな答えを出してきた。中にはマイナス100度とまで言った子供もいたそうだ(笑)

ここで何がわかるかお気づきでしょうか?

つまり、日本の子供は「結論にしか興味が無い」ということがわかるのです。

確かに日本人ってすぐに結論を付けたがる傾向ってあると思う。YESかNOかってある部分でははっきりしているかもしれない。まるでWHY?という単語を知らないかのごとくに(笑)

でもね、「なんで?」「どうして?」っていうのってホントに大事なことだと思う。それは考える基本でもあるだろうし、アイディアを生み出す原点だろうと思うからです。

日本人が結論しか考えないというひとつの実例っていうかやっぱりそうなのか?と思える記事がありました。

某サッカー雑誌でジェフの選手のインタビュー記事があってその内容が「オシムの指導内容について」というもの。そこでその選手は興味深い事を言っていました。

「オシムからはコレコレをこうしなさいと指示が出ます。で、その通りにするんです。そうするとオシムに怒られるんです。」と。

なぜ?の問いにこの選手はオシムにこう言われたそうです。

「今の指示を(練習)相手のDFも聞いているだろう?その通りにやって結果が出ると思うのか?」って。

なるほど!と僕は思いましたね。きっとオシムは指示を与えてそこからその指示を踏まえつつ選手自身でどう発展させるのか?という事に注目していたんだと思う。だからオシムは「意外なプレーを好む」と言われているのがよくわかりました。

考えることをやめてしまったらそれは人間じゃない、単なるロボットだと思う。

実際にサッカーに関する例えで考えてみましょうか・・・

例えば「オフサイド」というルールがあります。

このルールが出来た時っておそらく今までのサッカー理論が覆るほどだったかもしれない・・・たぶん(笑)

でもこのルールをただ当たり前に受け入れてきただろうか?むしろそのルールをよく理解した上で・・・

「このルールをうまく使うことは出来ないだろうか?」

って絶対に考えたと思う。その結果が「オフサイドトラップ」という守備戦術に表れていると思うんです。そして攻撃面ではオフサイドにならないようにGKと1対1になるにはどうしたらいいか?って考えたのではないか?その結果足の早いFWやパスのうまいゲームメーカーを育て「スルーパス」などの技が生まれたのではないか?

だから考えることってすごく大事なことだと思う。

自分で考えて導き出した結論の優位な点ってなんだろう?

例えば人に「これこれをしなさい」と決めつけられたようにいわれる事がある。それに対して納得できない場合があると思う。たとえそう言われた内容をする事が正しいとしても。なぜなら自分で導き出した結論ではないから。自分で考えて、自分で導き出した結論は納得するといえます。

例えば学校の校則

色々制限があって窮屈に感じる事があるかもしれない。僕自身もそう感じる事がありました。「なんでAがよくてBがダメなんだ?」みたいな感じで。

僕が通っていた中学校は当時「札幌で5本の指に入るほどの風紀が整った学校」という評判を得ていました。その分校則がメチャクチャ厳しかったですが。

例えば、遅刻したら昼休みに遅刻者の名前を放送されたりとか、靴ひもの結び方まで指定があったり、髪型は男子は横の髪が耳にかかったら校則違反とか・・・スゴイ極端な校則がいくつかありました。

でもね、それって結局は「自分で考えることをしないから反発する」んだと思うんですよ。自分で「どうしてこの校則があるんだろう?」と考えて自分の中で答えを見出したなら、きっと納得して校則に従ったのだろう。きっとそうする事が「大人になる」ということなのかも知れない。

だって社会に出たら色んな制約とかしがらみがあって大変な事があるけどそのためのウォーミングアップと言えるのが学校という社会だと思う。今頃になってわかってもしょうがないんだけど(笑)

しつこいけど考えることってホントに大事な事なんだなぁ・・・って改めて感じます。最近の教育にもその兆候が見られているようで、例えば足し算も・・・

5+4=
8+9=

って事じゃなく・・・

5+□=9
□+9=17

みたいになって来ているようです。

これはあくまでもひとつの例だけどこのように考えることをするって事って結構忘れがちになっているのは事実じゃないだろうか?考えることを怠る・・・これは車を運転していて「一時停止の標識を無視」することに例えることができるかも知れない。

左右確認もしないで交差点にスピードを落とさずに進入したらどうなるだろうか?


何かの行動をする時に「ちょっと待てよ?」とまず一旦ブレーキを掛けることから始まると思う。それは考えることによってそうできますよね?それによって進むべきか止まったままでいるべきか、あるいは曲がるべきかって考えることができる。それが賢い方法だと思うし物事の成功率も高くなるでしょう。安全性だってぐっと増す筈。

考えることを求めるサッカーを展開するオシムや柳下さんのサッカーって本当にレベルの高い事をやってるなぁ・・・と感じるわけです。

僕もこれからの事を焦ることなく色々と考えていこう、でもあまり考えすぎないようにしない事も大事ですよね?かえって重荷になってしまうから(笑)


当たり前のありがたみ

2006年09月30日

昨日は清野くん、今日は加賀くんの誕生日。宮の沢はスゴイ事になったんだろうなぁ・・・

そして10月はすぐに試合が無いのが淋しいなぁ・・・正直禁断症状が出てひどいんですけど・・・

では本題・・・


以前の記事でも書いたように吉野家の牛丼を久々に食しました。値段も昔に比べたら高いし、1日限定だから牛肉自体に味もそんなにしみ込んではいなかった。でもその牛丼が食べたいために並んでいる人はいたし、個数制限はあるけど持ち帰りをするために列に並んだ人もいた。そして今では毎日食べられるみたいですね、数量限定ではあるけど。

そんな光景を目にしながら色々考えるんですよ。それが今回の主題の「当たり前のありがたみ」って訳です。

ごく当たり前なこと、それがあって当然とかそんな考えがあるんだけどそれを失った時人はどう感じるのだろうか?

例えば今回の牛丼に関して言えばBSEが発覚してアメリカ産牛肉が輸入禁止になった。それを受けて外食産業、特に牛肉を扱う店にはホントに大打撃を受けた。おかげで僕の大好きな牛タンが食べられなくてそれも切ないです(苦笑)

ところが今回のような「1日限定復活」のような事があるとみんなこぞって店に行って牛丼を食べる。前回2005年の時はある種の社会現象と言っていいほどの反響があった。

だから当たり前のモノを失うと人は当惑し、それが復活すると大いに喜ぶ、でもこれって自分勝手じゃないだろうか?

当たり前のモノを当たり前に感じている、それに対する感謝の欠如というものがそこには表れているんじゃないだろうか?

家ではどうだろう?例えば妻や母親がしてくれることは「当たり前」のことだろうか?家族の食事を栄養価を考えて作り、洗濯や掃除をして家の中を清潔に保ち、家族が病気になれば「看護婦」だってする。経済面ではどうか?費用を計算し計画的に金銭を使って家族のために蓄えたりする・・・そうしたこと一つ一つは「当たり前のこと」なのか?

もしそんな存在を失ったらどう感じるか?きっと当惑するし後悔するだろう、「もっと母さんを大事にすれば良かった・・・」って。

そうなってから感謝するならはっきり言って遅いと思うわけ。普段から感謝の念を示すことは出来ないのか?「お母さんいつもありがとう!」と言ってもらえたら母親や妻の立場の人はどれだけ報われるのだろうか?母親への感謝は「母の日に限定」するものなのか?

僕も普段からその点は心がけています。おかげで母子の絆はすごく深まっています。

例えばコンビニ。

convenience(便利)という意味の通り生活にとって欠かせない存在になってきているはず。でももしそれが自分の回りに無くなったとしたらどうなるんだろう?今までの生活スタイルを変えなくちゃいけない問題にブチあたる可能性だって否定できない。

そしてコンサドーレという存在を「当たり前」のように感じていますか?

チームがあるということを「当たり前」に思ってますか?札幌で試合があるということを「当たり前」だと思ってますか?選手や監督がファンサービスする事を「当たり前」だと思ってますか?

チームを立ちあげるという作業は並大抵じゃないし、札幌で試合を開催するにしても相当の準備が必要だ。選手や監督だってファンサービスの重要性はわかっている。練習や試合でクタクタになりながら、または個人的用事があって時間が迫っているかもしれないのにファンサービスを実践する、それは自己犠牲そのものじゃないだろうか?

もちろん選手達にはサポーターがいつもファンサービスを求めて来る事を「当たり前」と捉えないで欲しい。中には「この日しか練習見学できない」という人だっているはず。言わばその日を逃したらずっとサインをもらえないという思いで望んでいるのかもしれない。その気持ちを汲み取ってほしい、そう願います。

だから全ての事を「当たり前」と捉えないようにしたい。行なわれている事の背後には色んな努力が詰まっている事を認識したい。そしてそれらに対する感謝の気持ちを忘れないようにしたい。そう改めて感じる事ができました。


大切にしたい3つの「あ」

2006年08月31日

今朝に日本代表が発表されました。これについての個人的見解は明日書くことにします。

では本題・・・

先週、怪獣2匹・・・

もとい!姪が帰っていった。短い期間だったけど結構遊んだし、楽しんでもらえたんじゃないだろうか?そう自負はしています(笑)

そんな姪2人に僕は特別な感情を抱いています・・・


数年前の話になるんだけど姪は一時期「父親がいない」状況にいました。詳しい事はプライベートな事なので書くことは出来ないけれど、その間僕が彼女たちのある意味「父親代わり」な存在として接してきました。保育園への送り迎えや病院へ行く事など、僕と母はそうやって姉と姪2人を支えてあげていました。姪たちが淋しい思いを感じさせないためにも・・・

そんな姪によく言い聞かせた事があります。人として本当に大切なことだと思い、自分にも言い聞かせるつもりでそれを何度も繰り返し教えてきました。

それが今回の記事のタイトルになっている「3つの『あ』」です。それは何か?

ひとつめの「あ」・・・

それは「あ」いさつをすること。

おはよう!とかこんにちわ!とかおやすみなさい・・・とか人として挨拶が出来ることの大切さを訴えてきました。人に言われてからするんじゃなくて自分から挨拶が出来るようになってほしかったからです。

ふたつめの「あ」・・・

それは「あ」りがとうと言うこと。

自分にしてもたっらこと、例えばごはんを作ってくれた事や車に乗せてもらった事など、それらを当たり前に考えないようにと訴えました。全ての事に感謝の精神を示すこと、その気持ちを身につけてほしかったからです。

みっつめの「あ」・・・

それは「あ」いすること。

姪たちはこれから5~6年の間に色んな事を覚えるだろう。その時に今自分たちが置かれている状況を理解するはず。そのときひょっとしたら自分の母親に対して憎しみの感情を抱くかもしれない。でも、自分たちを産んでこの世で生きる権利を与えてくれたのは間違いなく自分たちの母親なんだという事、そして血の繋がった姉妹同士が仲良くしてほしいし互いに愛を持って接してほしい。親を、自分の兄弟を、親族を、友人を、そしてこれから表れるであろう最愛の人を愛してほしい。その事も伝えました。

これら3つの「あ」を姪たちはしっかり守ってくれました。その事を思うとホントに嬉しくなりました。

きっと親の立場にいる方ならこのような事をごく「当たり前」にしているのでしょう。でもこれってすごく大変なことですよね?僕は結婚していないし当然子供もいない、そんな中である意味父親のような事ができました。これは貴重な経験になりました。でも僕は人の親になれる自信はないです。でもこのことをきっかけに親への感謝の念が一層深まりました。

そんな僕の姪たち、明日からまた学校です。元気に過ごしてほしい・・・そう願ってます。

姪たちよ、また来年会おうな!君たちの事を遠く札幌から見守っているからね!!


命の尊さ、重さを改めて知るこの7月・・・

2006年07月31日

あらかじめお断りしておきます。

今日の記事はとてつもなく「重い」内容になっています。その事をご理解していただいた上でご覧になってください。

ではご覧下さい。


もうすぐ7月が終わろうとしている。毎年の事なんだけど、いつも7月を迎えると気持ちが少しブルーになってしまう。

別に誰かのせいというわけじゃない、自分の中できちっと整理つけなくちゃいけない事なんだと思うけどなかなかうまくはいかない。でもそのおかげで自分自身を守っているような気がする・・・今回はそんな話を書いていきます。

北海道で有名なもの・・・コンサドーレや日ハム、ジンギスカンやスープカレー、野菜や海産物などイメージがつくものが結構あるでしょう。他にも北海道といえば・・・というものがあります。これは決して喜ぶべきイメージではないです・・・

交通死亡事故件数の多さ

これは本当に深刻な問題です。ここ数年北海道警察の努力の甲斐があってか昨年は交通死亡事故の件数全国ワースト1を返上した。前年と比較すると飛躍的に減少した事になる。ちなみに交通事故死亡者数は今日7月31日現在では126人で前年と比較すると19人減っている事になる。とてもいい傾向じゃないだろうか?

実は以前ある人からのメールでこんな一文があった。

「ダイさんは人殺しってどう思う?」

一瞬ビックリしたけど僕なりに考えてこう答えた。

人殺し・・・どんなことがあっても絶対にしてはいけないことだと思う。僕は毎日車に乗っているけどそれは「人を殺すことが出来る凶器」に乗っていることになるから、スゴク慎重に運転しているよ。人を轢くことの悲惨さというものを第3者的立場から見ているから。

本当にそう思っています。僕は車という便利な乗り物を利用しているけどそれが人を殺す凶器にだってなりうる。このメールにもあるように第3者的立場からこの悲惨さを経験した。

いまから7年前の話、僕が22歳のころ・・・

1999年7月23日金曜日、その日の朝夜勤を終えて一時的に仮眠を取り、昼から人に会うために出かけた。眠い目をこすりスーツに着替えその人に会い、一緒に食事でもしましょうか?っていう話になって車を動き出した時に僕の携帯が鳴った。

相手は僕の兄貴だった。

兄貴「ダイ、今いいか?」
ダイ「今運転中だけど車を止めたよ、どうしたの?」
兄貴「いいか、落ち着いて聴けよ!○○(僕の友人)が昨日の夜車に轢かれたんだ。」
ダイ「えっ?どうして??」
兄貴「詳しい事はわからない。ただ轢かれて危篤だっていうのは分かっている。時間があったら今すぐ病院に行ってくれ!」
ダイ「分かったよ!で、その病院はどこ?」
兄貴「桑園の市立病院だ。場所は分かるな?」

ってなやり取りをして一緒に食事しようとしていた方も一緒に(共通の友人だったため)市立病院へ。兄貴の話によると救急医療の集中治療室にいるという話なのでまっすぐそこに向かう事に。

病室の扉を開けた瞬間、信じられない光景が僕の視界に入ってた・・・

人工心肺をつけられて「何とか生きている」という友人の状態、当然意識はない。目が半開きで言葉も発する事もできない。手を握っても握り返す事は出来ない。

絶句・・・言葉が出なかった。

その友人の家族とは家族ぐるみの付き合いだったので当然その場に僕の母もいた。

友人の母親によると木曜日の夜、本人が仕事帰りにコンビニで弁当を買って横断歩道を渡って帰ろうとした時、RV車に跳ねられたそうだ。病院には轢いた本人、加害者もいた。当然沈んでいる。

僕はその加害者を殴りたかった、思いっきりボコボコにしたかった。でも出来なかった・・・ある意味加害者も被害者なんだなって事がわかったからだ。自分が悪いという事は本人も良くわかっている事、責められて当然だと言うこともよくわかっているはず、だからそれに追い討ちを掛ける事はできなかった・・・

次の日も病院に向かった。面会をするためにだ。友人の両親は僕を温かく迎えてくれた。

僕は友人に話しかける・・・

「おはよう、そろそろ起きようか?」

返事はない

「暑くないか?病室はクーラーが効いていて涼しいだろ?」

返事はない

「そういえば巨人はどうなっただろ?結果知ってる?」

反応があった。と、いっても脈拍や血圧が若干上がった程度だが本人には聞こえているのかも?と思えた。

その後少しずつではあるが脈拍や血圧の上昇が見受けられた。そして僕自身もそう感じたし、友人の両親にとって一番嬉しかったのは「病院スタッフが友人を人間扱いしてくれた」ことだった。

正直に言うと状態としては「植物人間状態」だった。ただ点滴を通じて最低限の栄養を得ているような感じ。でもそんな患者相手に歯を磨いて上げたり、ヒゲを剃ってあげたり、体を拭いてくれたり・・・と普通の患者と同じ接し方をしていた。

そして日に日に脈拍や血圧が少しずつではあるが上昇し、回復傾向に向かっているのでは?と思った矢先・・・

1999年7月28日の夜、容態が急変したらしい。友人の家族はすぐに病院に向かったが僕の手元にはその情報が来なかった。僕の元に情報が来たのは翌朝だった。

1999年7月29日 友人はこの世を去った。享年18歳、もうすぐ誕生日を迎えるところだったのに・・・

18歳だから友人と言うよりは「弟分」として可愛がっていた存在だった。

その情報を知っていてもたってもいられなかった。車を走らせてすぐに病院に向かった。

病室に入ると青白い顔をした友人がいた。不思議と涙が出てこなかった。

「頑張ったんだなぁ・・・」

そう思うしかなかった。

母は葬儀の手伝いをする事になり会場に母と母の友人と共に車で向かう。既に遺体も運ばれていたようだ。葬儀会社の人間が遺体に化粧を施すという。その間、僕は車を運転できる関係上色々な雑務をこなしていた。少しでも遺族の役に立てるのなら・・・という思いだけで手伝いをしていた。

まもなく化粧が終わった。遺体がある部屋に通された。

綺麗な顔になっていた。

ちょっと頭を叩いたら「なにすんだよぉ!」とでもいいながら起き上がりそうな感じの顔だった。そしてスーツ姿に着替えた姿・・・

一気に涙があふれ出した・・・

その時友人の死というものを初めて受け入れた気がした。

翌日葬儀が行なわれ、その次の日に荼毘にふされた。

友人を轢いた加害者の男性はただ下を向くばかりだった。後から話を聞いた内容によると彼は近々結婚する予定だったという。ただ今回の事故で婚約破棄はされなかったけど結婚は延期になったらしい。納める結納金を補償に当てたのだそうだ。

こういった事から人の命の儚さと、人は簡単に人の命を奪えるんだということ、そして交通事故の悲惨さを目の当たりにする事ができた。

僕は車の免許を取得して11年目を迎えます。免許の更新の時はよく交通事故被害者の遺族の声というようなビデオを見せられるんだけど、その気持ちが痛いほどにわかります。もし、僕が加害者になって轢いた人間を殺したら・・・と思うとぞっとするし、そうしたくはないと願う。アイルトンの事もあった、友人の事故もそう・・・僕は交通事故に対してすごくナーバスになっているかもしれませんね。

ハンドルを握る時点で「4つの命」を握っている事を意識しています。

自分の命
同乗者の命
対向車の乗員の命
歩行者の命

命は自分の両親を通じて神様が与えてくださった貴重な贈り物、それを大事にしたいし粗末にしたくはない。まして自分の手で人の命を無くするような事はしたくはない。

友人の死から得た教訓を無駄にしないためにも・・・

そしてコンササポの方が交通事故で悲惨な目に遭う事は僕には耐えられないことです。だからこの記事を通して皆さんが命の尊さや交通事故の悲惨さを理解していただければ幸いです。

僕はこの事をきっかけに「ひとりひとりの関係を重んじる」ようになりました。友人との死別というものはそれだけ僕に影響を与えました。そういうことなんです・・・


携帯電話の功罪について考える

2006年06月30日

今や誰もが持っている携帯電話。僕も98年10月から使い続けています。本当に便利になったなぁと感じる今日この頃・・・


いつでもどこでも電話を掛けられる、今ではインターネット機能がついているわけだからメールのやり取りだって自由自在だ。

携帯電話に限った話ではなくパソコンの普及に伴ってインターネットを通じて様々な情報を得る事ができる。例えば新聞なら明日にならないとわからない情報もインターネットならその場で知る事ができるわけだ。

僕たちはそのデジタル化の恩恵に浴している。もう生活にはなくてはならないものと化してしまった。

しかし、どうだろう?デジタル化された生活の中で僕たちの思考回路もデジタル化されてはいないだろうか?

先月の話、床屋で髪を切ってもらっていた時、店内から流れるラジオの内容が携帯電話に関するものだった。リスナーの投書に対してパーソナリティーは個人的な意見だと思うがこのように述べていた。

「確かに携帯電話の普及によって私たちの生活は便利になりました。でも、例えば自分の勝手で『ああ、今日は無理ですゴメンなさい』って電話を切り、そして電源を落とすことで他との連絡手段を閉じてしまう。これほど身勝手で無神経な事があっていいのだろうか?メールでもそう、『ごめんなさい』とメールを送信して、相手から返信メールが来ないように設定すればその人との関係が切れると考えている人もいる。これもおかしな話で、人間としての感情が伴っていないんじゃないかと疑ってしまう。」

確かにその通りだと思う。そんな形でしかコミュニケーションを培うことができないなら、考え方がデジタル化、もっと言えば機械化されたものなんだろう。それは果たして人間がするものなんだろうか?

人間は喜怒哀楽を持っていると思う。喜ばしい事、哀しい事、怒る事、楽しい事・・・そんな感情があるから人間でありうると思う。でも今のデジタル化によってその感情が無くなっているのかも知れない。例えば道端に咲く1輪の花を見て、「ああ、綺麗だねぇ」とか何ともいえないような夕日を見て「ああ・・・すごいなぁ」って感嘆な言葉を述べることもできなくなっているのかも知れない。

ここ最近起きている少年少女の犯罪、15歳未満の子供たちが人を簡単に殺してしまう世の中、その原因の背景にもこうしたデジタル化の影響はあるんじゃないかとさえ思ってしまう。インターネットを通じて人が殺された場面の映像を見る事だってできるだろうし、人の殺し方なんてものを知ることだってできるだろう。テレビゲームの進歩によって、血しぶきや悲鳴など人を殺すアクションがリアルになってしまったため「現実と空想」の見分けがつかなくなっているのかも知れない。これは果たして好ましい状態と言えるだろうか?

話を携帯電話に戻そう。

携帯電話の普及に伴って流行したEメール、ここ最近では「手書きの手紙」がかなり見直されているらしい。確かに手書きの文章には書き手の感情が伝わってくる。例えば「ありがとう」の一文を書いた時ワープロで打った文字と手書きで書いた文字を見ると書き手の感情の伝わり具合は一目瞭然である。

こういった事を今見直してもいいんじゃないだろうか?

文字で情報や内容を伝える事はできる。でも手書きの最大のメリットは「感情を伝えることができる」というものだ。こればかりはワープロやEメールではできないことだと思う。

人との繋がりを持つ点では確かに便利な世の中にはなってきた。こんな便利な世の中だからこそ、人としての感情が伝わる「アナログな接し方」というものを見直してもいいんじゃないかと最近感じました。


幸せな1ヶ月がまた始まる・・・

2006年05月31日

月末なんでもう一回更新・・・


カテゴリーとは違うけどサッカーな話です。でもマジメな内容になっているんでよかったら見てやってください。


4年前、日本と韓国でワールドカップが行われた事は皆さんもご存知の事でしょう。もちろん僕もテレビにかじりついていた。

サッカーが好きな人間にとって4年に1度のこの世界的祭典が本当に楽しみで楽しみでしかたがないんじゃないだろうか?

4年前、毎日テレビをつければ地上波でも最低1試合は「国際Aマッチ」が観れたわけだ。こんな贅沢な環境があっていいのだろうか?そしてこんな幸せな事があっていいのだろうか?世界レベルのプレーを夜更かしとかしないで、自分たちの時間で観戦できる・・・こんな幸せな事があっていいのだろうか?

ましてや地元で行われる試合を生で観戦できるチャンスだってあった。札幌ではドイツ対サウジアラビア、イタリア対エクアドル、そしてアルゼンチン対イングランド。残念ながら僕はどの試合をも観る事はできなかったけど我が街でワールドカップが!って思うと嬉しくてたまらなかった。

最初に見たワールドカップは94年のアメリカ大会からだ。日本が初めてのW杯出場をかけて戦っていたオフトジャパンの頃の話、カズやラモスや福田などが命がけで戦ったにも拘らず出場できなかったW杯とは?という思いでテレビを観ていた。

ただただ感動!

世界各大陸の予選を勝ち抜いてきた国がガチンコで戦うW杯、これを見てしまったらもうサッカーにハマるのは時間の問題だった。特に今でも印象に残っているのがロベルト・バッジョの存在だった。はじめて目にする「ファンタジスタ」のプレーに魅了された。

決勝はブラジル対イタリア、PK戦までもつれ込んだが最後はブラジルが勝った!この時ブラジル代表の面々はこの勝利をアイルトンに捧げてくれた・・・これだけで胸がいっぱいになる大会だった。

98年のフランス大会で日本は初めてW杯に参加する事になった。大会直前にカズを代表から外すというサプライズがあってどーなるものか?と思ったけど結局は予選リーグ全敗だった。ただ秋田とバティのマッチアップは見ていてゾクゾクしたし、ヒデが世界で通用する事もわかった。他にはベッカムの事件などもあったけどホスト国フランスがブラジルを破って優勝した。

02年日本と韓国と共同開催、初めてだらけのW杯、フランスやアルゼンチンが予選リーグ敗退など波乱もあったけど見所もいっぱいあった。中でも韓国の健闘は本当に讃えたい。ホン・ミョンボのキャプテンシーが際立ち、パク・チソンのテクニック、アン・ジョンファンのカリスマ性など魅力あふれるチームをヒディングは見事に束ねていった。

そして今年・・・

来月からまたその幸せな1ヶ月がやってくる、今度の舞台はドイツ、今回はどんなドラマを見られるのか・・・非常に楽しみです。


バリアフリーについて考える

2006年04月30日

昨日の試合の話で盛り上がっているこのコンサブログの中で違うテーマで書かせて頂きます。自分の中での「お約束」なんで許してくださいね!

バリアフリーって言葉ではよく聞くけど実際に経験している人ってどれほどいるだろうか?

僕は経験した事があります、バリアフリーの素晴らしさを。今回はそんな話を・・・


前にも書いたように僕は腰の骨を折った事があります。04年の4月に職場で怪我をして診断結果が「腰椎横突起骨折」というものでした。左側の横突起という骨を4本折って救急車で運ばれて即入院、最初の10日間は車椅子でなくちゃ移動が出来ませんでした。

その車椅子生活で気づいた事は「ちょっとした段差や凹凸ってすごく怖い」ということ。

例えば車椅子でエレベーターを使って売店に行こうとすると、エレベーターとフロアの間にある「ちょっとした隙間」がいやらしい。力を入れればなんて事はないんだけど下手に力を入れると腰に負担がかかる。ちょっとした隙間が「ものすごく大きな溝」に思えてしまう。

実際に歩行訓練のリハビリをする時もちょっとしたでっぱりが「大きな丸太」のように思える事もある。足元が平らってすごくいいもんだなぁと感じました。

バリアフリー、文字通り障害物がない状態というものは本当に必要なのかもしれない。さっきの車椅子生活を過ごしていた時、例えばトイレに行くと車椅子用の洗面台がある。これが車椅子からの視線にちょうどよくあう。非常に使い易かった。

また公衆電話でも(病院で携帯を使ってはいけません)車椅子用の電話があるんだけど、これもちょうどいい高さで、且つ車椅子から楽に手を伸ばせて電話を掛けられるように設計されている。あまり感じなかったけど自分がその状態で経験してみて「なるほどなぁ」と感心していた。

じゃあ世間的にみて本当の意味で「バリアフリー」なのか?って話になると実際はそうじゃないと言わざるを得ない。

施設面では確かにバリアフリーは実現できているだろう。では「人との繋がり」においてはどうだろう?

例えば体にハンデを負っている人を健常者が「障害」と感じているだろうか?もしそう感じているならバリアフリーとはいえないだろう。

若者が集う討論番組で足に障がいを持ったひとりの男性がこう言った。

「障がいを持っている男を彼氏にできる?」って。答えた女の子は少し時間を置きながら「・・・できるよ!」と言った。
その男性はつかさずこう言った・・・

「うそつくなよ」と。

もしその気持ちがあるならなんで少しでも迷うのか?というのがそう感じた理由らしい。これはよくわかる気がする。つまりどこかに「偏見」があるのかもしれない。その気持ちは理解できる。

でも障がい者は健常者と同じように扱ってほしいし、自分が助けを必要としている時、もし助けの手を差し伸べられたら喜んでそれを受け入れる姿勢を示しています。

これは僕が経験したことなんですが、職場に「白い杖」を持った方が客としてこられます。いわゆる「全盲」という方です。

「お手伝いしましょうか?」と聞かれてまず断る人はいない。それは自分の限界をわかっているから。それは本当に謙遜な人なんだと感じました。そして相手の善意を理解している、これは見習わなくちゃいけないなぁと感じた。

僕自身も入院中に車椅子を使ってのエレベーターでの乗り降りを全く知らない人に手伝ってもらった事が何度もある。そのような厚意に対して「ありがとうございます」としか言えなかったけど,そうしてもらえた事がすごく嬉しかったし、自分が逆の立場になった時には積極的にそうしてあげたいと強く感じました。

数年前の話なんだけどひとつだけ「手話」を教えてもらいました。その手話は「ありがとう」という手話。右手と左手を十字に交差させるという簡単な手話なんだけどこれを覚えて本当によかったと思う。

職場には「ろう者」の客が来る事があります。ろう者とは「手話で話す人」、もっと言えば口から言葉を発せられない人たちの事をいいます。そのひとりの客は自分が言葉を発せられない事にものすごいコンプレックスを抱いていたようでものすごく申し訳ないような気持ちを抱いていたのだろう。その客が帰る時に、「ありがとうございます」の手話をしたところ、その客は「涙を流して」くれました。

この時「本当のバリアフリーってこういう事を言うのかな?」って思いました。

人との繋がりにおいてのバリアフリーはまだまだ難しいし、課題も沢山あるでしょう。でもひとりひとりが少しでも意識するならこの「障害」は除かれると思う。僕はそう信じているし、その一端を是非担いたい。


今、女性達に伝えたい事

2006年03月31日

日本対エクアドルは日本が勝ちましたねぇ。今頃南米に勝つというのもいかがなものか・・・

昨日の記事へのレスは後ほどつけます、ごめんなさいねぇ。そして「ナチュラリスタ」の集計結果(っていうか結果がもうわかる)は明日アップしますんでそれも楽しみにしてくださいね!(っているんか?そんな人・・・)

あと、今日は宮の沢で道都大学と練習試合がありますねぇ。観に行く方は万全の防寒対策で行きましょう!!僕も観に行きます!!

さて、さりげなくカテゴリーに加わっている「月末に語るマジメな話」。月の最後にものすごく固い話でしめようかな?と思っています。
今月は僕なりに感じた女性に対するメッセージを書いていきます。応援のつもりで書いていますけど、人によっては皮肉に捉えてしまうかもしれません。もし不快に感じたらごめんなさい。ただ僕の正直な気持ちをここで伝えたかったからです。ではご覧ください。



すごく信憑性がないかもしれないけど僕は女性を心からリスペクトしています。本当に心からそう思っています。

今まで接してきた女性達は「生き生きしていて輝いている」と感じているからです。

なぜ、こんなにも輝けるのだろう?

男の僕にとっては永遠の謎になると思う。

自分が20歳の頃や、同年代の男性と比較しても、勝っていると思う。

女性の皆さん-今、このブログを読んでいるあなた、と言ってもいい-の順応性と対応力は素晴らしいです、本当に。

例えば僕の友人のひとりでAちゃんという子がいる。

彼女は東北の出身で進学の為に札幌にやって来た。彼女と僕が初めて会ったのは彼女が札幌に来て3~4ヶ月経ったときの事だった。

ダイ「どこに住んでいるの?」
A子「すぐ近くですよ!」
ダイ「そうなんだ・・・じゃあずっとここに住んでいるの?」
A子「いや地元は違うんですよ。」
ダイ「地元は?」
A子「実は○○県です。」
ダイ「うそぉ!!マジで???」

ってな感じだった。全然わからなかった。訛りの言葉も2,3日で標準語になるらしい。1ヶ月もいれば完璧なんだろう。だから全然彼女が地方出身である事なんで想像にも出来なかった。

男だって同じだよ!!と思うかもしれない。でも違う、断固として違うといいたい。

例えば札幌暦1ヶ月のB君とB子さんを並べたら一目瞭然だろう。

男の場合1ヶ月都会に住んだからと言って変わったり順応できるような奴なんていないと思う。

その点女性はあっさり適応してしまう。なぜか?それは生活に前向きだからだ。ゆえに順応性も高いのだと思う。

しかも男性よりも外に向ける努力を怠らない。それは本当に素晴らしいと思う。単純にいえばファッション。その努力たるは見習いたいと思う。そして女性は自分のセールス・ポイントやチャーム・ポイントをその人なりに考えて、そして知っている。少なくても同年代の男より自分のいい所を心得ていると思う。

色々な状況に対してすべてに順応してしまう、どうにかしてしまうのが女性です。本当に尊敬しています。

しかし、順応したり対応するために時間を費やしているのだから何かが欠落しているはずだ。人間には公平に24時間しか時間は与えられていないのだから手が回らないところがあって当然だと思う。

例えばそれは一般時事だろうか?
それは一般常識だろうか?
でもそれを知らなくてもリカバリーできる特質がある。これは男より勝った能力といえるかもしれない。

例えば徹夜した女の子に会ったとしよう。

彼女から言ってこない限りこっちも気づかない。が、男の場合は一目瞭然、一目見て「徹夜明け」がばれてしまう。男って損だなとついつい感じてしまう。

そして女性の我慢強さには本当に脱帽してしまう。

例えば出産、これは女性にとって人生における最大級のイベントといってもいいかもしれない。

命を生み出す・・・これは女性にしか出来ないことだ。陣痛で苦しんでいる妻を黙って見ている夫・・・これほど男が無力に感じた事はないと義兄に聞いた事がある。本当にそう思う。実際男が陣痛と同じ腹痛を実際に経験するとおそらくその痛みに耐えることができずに死ぬとさえいわれている。耐える力は男より女性の方が勝っている。

例えば女子マラソン。日本人ランナーを必ずといっていいほど苦しめる存在の外国人ランナーがいるけどそのほとんどが「ママさんランナー」であることをご存知だろうか?彼女たちの不屈の精神と言うか負けない気持ちはきっと陣痛という痛みに耐えてきたからなのかもしれない。「陣痛の痛みに比べれば42キロ走ることなんて・・・」てな感じだろうか?

でも女性の方々は年齢を重ねる事で消極的になってはいないか?「もういい年なんだから・・・」とか「こんなに遊ぶのもねぇ・・・」とか「そろそろちゃんとしなさい」とか言われたりして・・・

僕はそんな事はないと思う。

だから女性の皆さん、これからも輝きを放ち続けて欲しい。年齢なんて関係ない、もっとアピールしてもいいと思う。女の自粛なんて必要ないかもしれない。自分が持つ眩しさを自分から曇らせたり、隠したりしないで欲しい。

そう思うのは僕だけではないはずだ。

あなたの隣で、あなたを認めている男性がいるはず。少なくても僕はそのひとりです。

だから恥ずかしがらず、自信を持って、魅力をアピールして欲しい。

あなたは輝けるのだから・・・