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2008年02月06日

理性と自然

今、清家竜介「フランクフルト学派の批判理論」(仲正昌樹ほか著『現代思想入門:グローバル時代の「思想地図」はこうなっている!』PHP)を読んでいる。そこでは、ハーバーマスが、フランクフルト学派第一世代が乗り越えられなかった「主観・客観図式」をいかに乗り越えようとしたかについて説明されている。ここでいう「主観・客観図式」とは、巨大な自己反省する主観、つまり理性が客観である自然を表象し、それに働きかけることで目的合理的に利用していくという理論モデルのことである。
理性がいかに自然(身体)を統制していくか。

実はこれは2歳児の発達課題なのではないかと思う。
乳児は身体的情動や欲望をことばという理性によってコントロールすることで幼児になってゆく。

今朝のtomo。
母が先に起きていなくなった布団の中で夢うつつに母を捜して動いているうちに頭をベッドの柵にぶつけてしまった。ぶつけて頭が痛かったのと母が自分をおいて行ってしまったことに対して泣いて激しく訴えた。「ママがいなくなったからわたしが頭をぶつけて痛かったんだ」と。
そんなこと言われてもこちらとしては、早起きでもして準備をしなければ朝ご飯も食べられないし保育園にも行けないし、困るのはあなただよ、と言いたいのだけれど、それはさておき。
ここ何日かは、激しい怒りにとらわれるともう自分でも何を言っているのかわからなくなり相手のことばも耳に入らない状態になってしまっていたtomoだったが、今朝は母が「わかったよ。ママがいなかったから頭ごんごんしていやだったんだね」と言うとスッと気持ちがおさまったようだ。そしてそこから自分で泣くのをやめていくことができた。情動をことばで表象することで方向転換させたのだ。
これは理性が身体を統制する、その未発達な形態なのではないか、と、ふと思った。


おそらく気質的に「あきらめること」が苦手な上に、発達上の課題も重なり、その上さらにじんたろう(仮名)が出現したという、彼女にとって今はとても苦しい時期なのだ。そんなわけで今、母を独占したい気持ちが最高潮に高まっているtomo。そんな我が子をかわいいと思う反面、そのあまりの激しさに負けてしまいそうになる。
育てる側にも理性と自然の葛藤がある。
こういうことをもう少し情緒的記述ではない方法で説明してみたい。

posted by mou3 |16:29 | 子ども | コメント(0) |

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