2007年04月23日
ちょっとアレ、なこと
自分が書いた論文とめちゃめちゃタイトルがかぶっている論文が出たので少々焦りながら読む。 読み終わって自分の主張とはまったく異なっているのでほっとする。 基本的なロジックの組み方が違うのだけれど、その「基本的に」違っているということをきちんとわかるように書かなければいけないと思う。 しかし10年間新しいデータをとっていないのって、ちょっとアレ、ですな。
posted by mou3 |22:30 | 研究 | コメント(0) |
2007年04月22日
食べる
研究集会で子どもの「食」に関する実践報告を聞いた。 生きているニワトリを絞めて調理して食べる、ということの保育実践としての意義とその発達心理学的問題について話し合われた。 子どもは自分の生活がどのようにして成り立っているのかを知らない。 自分の目の前にあるさまざまなモノがどんな過程を通じて生産されるのか、またそこにどれだけ多くの人が関わっているのかを知らない。 そんなこと大人だってわからない。 そんな時代に自分が食べる食べ物がどうやってつくられるのかを見せることは、わたしたちは他の生き物の命をいただいて生きているのだ、感謝しよう!という道徳的メッセージ以上の意味をもつのではないか。 牛から搾りたての生の牛乳の味とスーパーに売られているパックの牛乳の味がどれだけ違うか、なぜ違うのかを知っている人間なら、日本に輸入されたトマト缶1個のためにアフリカに住む1人の赤ちゃんが餓死するという事実についても考えることができると思うのだ。
posted by mou3 |23:30 | 雑感 | コメント(0) |
2007年04月21日
エガオ
温泉に来ている。 残念ながら旅行ではなく研究会で。 でも旅行みたいなものか。あまりにも気楽に来てしまった。 tomoはいろんなひとに愛想をふりまいてかわいがってもらい、おだっていた。 4月にはいってからずっと風邪をひいていて元気がなかったから久しぶりにぴかぴかの笑顔を見た気がした。 3週間も風邪が長引いた本当の理由は実際にはわからないのだけれど、保育園で新しいクラスになり担当の先生が替わったことが大きいのではないか、と、つい考えてしまう。 去年はこんなことまったくなかったのに、最近は楽しく遊べているだろうか、と毎日心配でたまらない。 どんな環境のなかでもたくましく生きていってほしい、と思う。 これを「適応」とか言ってしまうのは本当につまらないけれど。 温泉につかったから体がだるい。
posted by mou3 |23:50 | 雑感 | コメント(0) |
2007年04月20日
労働疎外から革命へ
宮沢章夫「『資本論』も読む」(WAVE出版)を読了。 「わからない」壁を乗り越えた後に自分の「声」の量が格段に増していった、という点がおもしろいといえばおもしろかった。 もはや僕は人間じゃない と歌ったのは森山直太郎だが、「人間が生きる」ということにやはり興味がある。 いかに生きるか。生きざるをえないか。 今は生の哲学だよ!性じゃなくてね、と、かのS氏は言った。 目前の書かなければならない論文にまったく関係ないと思われる社会・哲学関係の本を、今こんなの読む暇ないだろ、と思いつつ、読むことをとめられない。
posted by mou3 |16:29 | 雑感 | コメント(0) |
2007年04月19日
森山直太郎再び
森山直太郎を最近再び聴き始めた。 森山直太郎→さだまさし+吉田拓郎 CDに付いていた解説を読み、彼は自意識の塊だな、と思った。 ぽっちり研のときにKatoくんが ラジオで福山正治がエロ話をしてもエロくないが 森山直太郎が話すとエロいんだよ と言っていたのを思いだした。 自意識量の差がこの違いを生み出しているのだろうか。
posted by mou3 |09:58 | 雑感 | コメント(0) |
2007年04月18日
疎外
考えてみたらもう半年もずっと具合が悪いのだった。housanは。 痛くなる部位は異なるけれどとにかく常にどこかが痛い。 これはヒステリーの一種かも知れない、などと思う。 搾取、ということばが思い浮かぶ。 損なわれ続けているのだ、ずっと。 思い当たる原因はあり、解決法もわかっている。 休めばいいのだ。 1週間くらい。沖縄にでも行こう。 それができれば最初から病気になどなってはいないのだ。
posted by mou3 |15:11 | 雑感 | コメント(2) |
2007年04月16日
使用価値
やおら文献を集めはじめる。 集めただけで読んだ気にならないようにしよう。 『波状言論S改』を読了。 東浩紀『存在論的、郵便的:ジャック・デリダについて』って、そういえば前読んだような気がするなぁと思い本棚から取り出してみると、付箋がいくつか貼られており線もそこかしこに引かれており、最後まで読んだ様子。 しかしまったく覚えていない。どんなことが書かれていたのか。 わたしにとっての「使用価値」がなければ「最後まで読み終えたこと」は何の意味ももたない。 「使用価値」というのは、あの、マルクスのいう使用価値のことだ。 なぜ突然マルクスか、というと波状言論S改を読み終えて今は宮沢章夫「『資本論』も読む」(WAVE出版)を読んでいるからである。
…「わかる」も労働の一種だとすれば…「価値量」としての「わかる」は「物知り博士」や「クイズ王」である。「使用価値」としての「わかる」は、「生きるため」のなにごとかであり、人は誰だって「クイズ王」と呼ばれたくはないはずだ。
だからあの本の帯に書かれていた 「理論」を使いこなす! というのは別に間違いじゃあないのだ。 生きるためのなにごとかにならなければ、たくさん読むこと自体には意味はない。
posted by mou3 |15:26 | 研究 | コメント(0) |
2007年04月10日
アレントから学んだこと
最近くりかえし思うのは 「家事労働は何も生み出さない。そして生きている限り終わりがない」 ということ。 ぽっちり研究会で読んだハンナ・アレント「人間の条件」から学んだことだ。 「人間の条件」の主題からはまったく逸れているが、主婦には響くことばだ。 世間に「顔」をもたない人間はマクロ的には存在しないのに等しい。 波状言論S改を(ようやく今頃)読んでいるので 環境管理統制されてしまう民衆(そして石原慎太郎を当選させてしまう民衆)と 社会的(あるいは私的)領域にのみ生きる顔のない人間という概念とを 接続できないかな、と考えている。
posted by mou3 |20:47 | 研究 | コメント(0) |
2007年04月08日
敗因
今日は統一地方選挙日だった。 tomoが熱を出しているのでhousanと交替で一人ずつ投票に行く。 選挙速報を見ていると開票して1分とかで当選確実などと出てしまうので現実感がわかない。 アナウンサーが浅野史郎に今回の敗因は何だと思いますか、と尋ねていた。 「それは、都民が思ったよりバカだった、ということです」 って答えたらおもしろかったのに。