2008年12月09日
どんなときも子どもは悪くない‥‥原因は
ここ二週間ほどtomoの夜驚と昼間の感情爆発に悩まされている。 なんとも表現しがたいが、ほんとうに力の限り泣き叫ぶ。動物が吠えるというのに近いかもしれない。他人が聞いたらまず間違いなく虐待だと思うだろう。これにつきあうこと自体疲れるし、夜落ち着いて眠れない、夜の時間を安心して家事や仕事に使えないというので、大人もいらいらしている。子どもが眠った後の時間というのは、親にとっては大切な時間なのだ。 こうしたtomoの姿は、生活の中で気持ちを受け止めてもらえていない、満足できていない、というメッセージなのだということはわかっていた。だから受け止めてあげたい、と考える。が、現実に目の前で激しく泣き叫ぶ子どもに対峙すると、何とかして今すぐこれをやめさせたい、という思いにとらわれてしまうのだ。ほんとうに何とかして。何としてでも。 実際には何もしない。ただ待っているだけだ。30分くらいたつとtomoは自分で泣き止み、だっこしてと言ってくる。 朝に昼に夜に泣き叫ぶ子どもにじっと耐えるということを続けて、大人の方にもそろそろ限界が近づいていた。 原因はなにか。 子育てにおける問題を解決しようとするときに原因を追及することは、ほとんどの場合あまり有効ではない。子どもの粗暴のきっかけが両親の離婚だったとして、では再婚したら子どもの粗暴はおさまるのだろうか?コンピュータがうまく作動しないときに原因のプログラムを書き換えるように? 関係性の問題を解決する際に、当事者と関係者にできることは、システムをオープンにすることだと思う。 今日、2歳児についての文献を読んでいて気がついた。 そうか、tomoは大きくなったのだ‥‥! まだ小さくて一番甘えたいときに妹が出現して、両親は忙しくて、でも思いをうまく表現できなくて‥‥じゃなくって、彼女は2歳児らしく自立し始めたのだ。周りの状況もよくわかったうえで、プライドをもって自分を主張しているのだ。王道を歩んでいるだけじゃないか。感情が爆発してしまうのも、2歳児らしいといえば2歳児らしい。 「自我」ということばは、安易に使われすぎてブラックボックスみたいになっているのではないかと感じていたので、今まで自分ではあまり使わないようにしてきたのだが、2歳児をとらえるときにはやっぱり必要な概念なのではないかと思えてきた。