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性別:男 年齢:30歳代半ば 出身:兵庫県西宮市甲子園 現住地:北海道札幌市 サッカー歴:素人。たまにフットサルをやる程度 ポジション:アウェイ側B自由席 2007/12:加齢に伴い年齢を実態に即した形に書き換えました

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読書管見・桂米朝『落語と私』

2006年01月21日

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桂米朝『落語と私』(ポプラ社 ISBN:4591089673)
 著者は戦後上方落語の復興に尽力した「四天王」の一人、人間国宝・三代目桂米朝。落語の技法や楽しみ方・歴史に、自らの落語に対する認識等を織り交ぜて綴った落語論。以前も書きましたが、中学生の頃から米朝さんが好きで、ラジオでこの人の落語をよく聞いていました。


 最近秘かに落語がブームになっているようです。本書はもともと中高生向けに書かれたようですが、ちょっと聞いてからこの本を読むと、落語の奥の深さが理解できるのではないでしょうか。



 落語はやはり寄席に行って鑑賞するのが一番、と米朝さんは言います。
 落語のネタを収録した本はたくさんあり、私も持っています。しかし、「落語は文学とは違う」と米朝さん。それは演者の腕次第で名作とされている話がくだらないものに聞こえることもあれば、話としてはあまりうまくできていないものでも面白くできる。その意味で文学とは言えないのではないか、というのが米朝さんの考えです。

 例えば落語の入りによくある、「こんにちは」「おう、こっちへおはいり」。これを文字だけで見るのと、噺家が「演じる」のとでは雲泥の差がある。「おはいり」を笑顔でやれば待ちわびていた客が来たことになるし、しかめ面でやれば「またヤなヤツがきよったで」ということになる。厳かに発声すれば説教の一つでも垂れてやろうと待ちかまえていたことになる。噺家の表情の作り方で全く異なった意味が付与されるのです。また、ここを見るだけでちゃんと稽古したかどうかが分かる、とも米朝さんは言います。(【独り言】…うーん、何だか報道の読み方に通ずるものがあるような気がします。)

 こうした「表情と言葉の融合」なら講釈師や舞台俳優などでもできますが、噺家の特色は、扇子と手ぬぐいという限られた小道具を使って様々な所作を具現化してしまうところと、複数の人物を一人で演じきってしまうところにある、と米朝さんは続けます。
 例えば扇子。仰々しく腰のあたりから引き抜けば刀になるし、ちょっと広げて立てて置けばお銚子。手ぬぐいは帳面にもなり、財布にもなり…拍子木をトンと鳴らすことで場面の転換・時間の経過を示す。こういう小道具と、それを用いた所作が現実味溢れる演出を生んでいるのです。
 また、講談などは演者自身が話を語る形式をとっていますが、落語は噺家が複数の人物を演じわけるとともに場面説明にほとんど言葉を費やさない。基本的に「枕」と呼ばれる前置きが終われば噺家=語り部自身が顔を出すことは極度に少なくなる。
 だからこそ、寄席で見ることで、表情の作り方・間の取り方が伝わり面白味がますのだ、と言うのには、なるほどの一言です。

 一方で、数ある古典芸能と落語は本来肩を並べるべきものではない、とも言っています。落語に登場するのは平凡な人々で、別に何か教訓めいたものを示すわけでもない。「これは嘘ですよ、おどけばなしなんです。だまされたでしょう。アッハッハッハ」…。これが落語本来の姿勢だ、と。私なんかはこうした姿勢にこそ大きな魅力を感じます。


 この本によって、「落語は今で言うところのマルチメディアだ」という自分の考えが明確に整理出来ました。言葉と所作と小道具と。お囃子という音楽による演出もある。歌舞伎・浄瑠璃・狂言といった既存の芸能のいいところをとって登場してきた、江戸期における「最先端」の話芸。現代まで生き残っている理由がよく分かりました。



post by tottomi

21:34

読書管見 コメント(2)

イヤかも知れないこの補強・鳥栖編

2006年01月21日

 特に根拠もなく今年も手こずりそうな予感がする鳥栖。
 こんな選手を補強したらしい。

 だいぶ老けたなぁ…