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2006年01月25日

戦うのは選手であってサポーターではない

いまだに耳にして慣れない言い回しが
「戦っていないサポ」というやつなんですわ。

一生懸命応援して選手の後押しをしよう、選手が好プレーを
発揮できる環境を作ってやろう、ミスをしてへこみそうな選手を
激励してやろう、ファインプレーを存分に誉め称えよう。
そういう意味を強調するためのレトリックであるのなら
「サポも一緒に戦おう」という言葉も美しいと思う。
 
ただそれが、「ああ、俺はチームにこんなに身も心も捧げて
応援しているんだ、何て美しいサポ魂を持った俺…!」
というナルシシズムに陥った瞬間、その自己陶酔はたやすく
他者非難に変わる。
「俺はこんなに必死で応援しているのに、あいつらは
声も出さず、応援もせず、突っ立っているだけ。何て情けない
奴らだ。あんな奴らがゴール裏にいっぱいいる現状はとても
耐えられないぜ。熱血席に座ってるんならもっと声を出せ!
サポも戦え!戦ってないサポなんか来るな!」

…ちょーっと待っておくんなさい。
戦っているのはピッチに立っている選手であって、サポじゃない。
サポも一緒に戦う、というレトリックは美しいが、サポは決して
戦えない。ただ、戦っている選手にサポは自分のアイデンティティを
託し、応援するだけだ。そしてその度合いがナルシーな理想に
一致しないからと言って、他のサポの本気度を罵倒できるはずはない。

感動的な映画を見て、号泣する人もいれば、そこまで行かないが
静かに満ち足りた思いを抱く人もいる。それと同じだ。
なら、ゴール裏には熱狂的なサポだけが占めて、それ以外の
連中は散れ、という人もいるが、座席が値段に拘束されている
ことを忘れないでほしいな。全席同一価格ならそういう言い方も
出来ると思うが。
 
かつてドームが満員御礼になった頃には、確かにあの
「熱血サポ席」はそういう人々で埋め尽くされていたんだろう。
(だろう、と書いたのは、そのころオイラは道東住まいで
常勝札幌を現地で見たことがなかったから)
今それが寂しくなったのも事実なんだろうが、だからといって
可能性のある未来を切り捨てて熱血サポ席を廃止するわけにもいくまい。
看板に偽りありなのが耐えられない人もいようが、それは呑み込んで
ほしいものだ。
 
前にも言ったことがあるが、今のB自由席を
オイラは歌舞伎座の「一幕見席」のようなものだと思ってる。
最低価格を設定することで、毎回必ず来てくれる見巧者の
常連が熱心に声をかけて贔屓役者をもり立てると共に、
これから関心を持とうとする一般人・学生や観光客が気軽に
見ることの出来る席。
 
今のB自由席はそういう場になっている。それが苦々しいと思う人が
眩暈を起こしそうなほどに統率と迫力をもって応援している
他チーム(嫌がられついでに、たぶん浦和とかを見てなのかな、
と書いてしまってみる)に感動と、そして同時に嫉妬を覚えて
「ああいうふうな応援の出来ない札幌サポは『戦ってない!』」
と言いたいのだろう。
 
でも、それは実は、隣の芝生が青く見えてるだけさ。
なに、札幌はまだ頑張っているサポが大勢いて、恵まれている
というふうにも思えますよ。
札幌が強くなり、勝ちを重ね、上位争いをし、寸指の先に優勝や
昇格が見えるようになれば、さらにはJ1レベルで観客を魅了できる
ようになれば、もう勘弁してくれ、そんなに熱くならなくていいから、
って言いたくなるほどにB自由席は文字通り、額面通りの
「熱血サポーター席」になりますって(笑)
 
長くなったが最後に。
オイラ自身は、たとえチームが点が取られようが何の変化もなく
歌い続けている応援方法って、ちょっとどうかなと思うんだ。
やっぱり点を取られたら、全身で悔しさを表現するのが自然だと思う。
(前にやってたバルサの番組でも、あの熱狂的なバルササポだって
失点すれば天を仰ぎ腕を振り、大声を上げて無念の声をあげてたよ)
その意味では、よく引き合いに出される浦和の応援は、正直
オイラは気味が悪い。まあ、この点は好みの問題だから申し訳ないが。


posted by FT |16:08 | サッカーから見えること | コメント(3) | トラックバック(2)