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2007年11月06日

漢字「歓」について

風邪をこじらせました。
週末何となく体がだるいので静かにしていたんですが、
全身倦怠感と胸やけ&腹下しに襲われました。
今日は頭痛と微熱。食欲は少し戻りましたが、相変わらず
腹具合は治りません。

インフルエンザが流行りだしてるという話ですが、熱はそれほど
無いので違うでしょう(汗) 頭がぼんやりしているせいで、
さっき夕食を作っていたら、プラスチックのフライパン返しが
コンロの火で燃えてしまいました(汗) 
用心用心。

さて、戯言です。




「歓喜」とか「歓声」とかの「歓」の字。
旧字体だと上記のように「歡」と書きます。

漢字の右側は、下の「隹」が「ふるとり」と
いう部首で、鳥です。
上の方にくさかんむりと口が二つありますが、
あれは、鳥の耳と目です。
耳がピンと張った、両目が正面を向いた鳥。
ミミズクかフクロウを表します。

漢字の右側「欠」は、「欠伸(あくび)」などと書くように、
本来は「左側に向かって大きく口を開けて、大きな声をあげている」
図を表します。

我がブログにローマ神話の智慧と発明と芸術と武勇の女神
「ミネルヴァ」の名を冠しているのは、フクロウが「智慧の鳥」
として女神のお使いになっているからです。
フクロウは、神の鳥なのです。
そして古の人々は、神に祈りを伝えるために、フクロウに向かって
声を届けました。
それが「歓声」なのです。
神に祈りが届いたことを喜ぶ、それが「歓」の字なのです。

我らが凛々しき梟雄たちに、思いの丈を込めて「歓声」を
送りましょう。されば、その祈りの深さに応じて智慧と武勇の女神は
恩恵を施してくれるものと信じております。

posted by FT |22:07 | 今日の寸言 | コメント(0) | トラックバック(1)

2007年10月11日

内藤大助おつかれさんでした&あと一試合待つ

試合終了後の、勝ったというのに笑顔一つ無いぶんむくれ
状態の内藤に、ああ、きっとフルラウンドまでつきあってやってくれ
というアングルに忸怩たる思いだったんだろうなあ、と同情(汗) 
ポンサクレックの再戦権まで買ったりしてお膳立てされた試合を
興行的に盛り上げるためにも仕方なかったんだろうなあ、と思う。
ボディを打ち込んでもっと早くマットにへたらせることも出来たと
思うんだが、手数の多さで採点をつけさせる戦い方をしたんだろうな。

さてと


負けが込んでいるときにこういうことを言い出すのは自分でも
みっともないとわかっているが。

チームがこれ以上従来の戦術を変えず、相手の思うつぼに嵌るばかり
の試合に甘んじるならば、三浦監督の更迭を要求したい。
オイラはもう少し監督には引き出しがあると思っていたし、また
以前にも書いたとおり、戦術を徐々に進化させる方向にある
と思いこんでいた。

だが、「解かれたパズル」を放置しておくならば、これからの
試合には何らの期待も持てない。何かを変えずして今の苦境は
脱し得ないことは明らかなのに、そして今の敗北が何ら未来のため
の糧にならないならば、百害あって一利無しである。

サブメンバーを効果的に使えず、むしろ劣化させている現状も不満だ。
結果として連戦の疲労をトップに過剰に蓄積させ、サブの能力を
腐らせ、あまつさえ貴重な戦力を肝心な時期に外部に流出させた。

仙台戦の敗北の後、なぜ林をライバルにお人好しにも貸し出した
のか、その責任を問う声がなかったのには首をかしげた。
岐阜に行っても結局天皇杯にも出ていない相川を失い、
今のところ何の仕事も出来ていないイタカレを出すセンスも
おかしい。(どう考えたって相川の方が有能だ)
選手の移籍の問題に監督の意向がどこまで関わっているかは
不明だが、必要な選手の流出を監督が認めるはずはないから、
流出は監督の承認が前提と考えるべきだろう。ならば責任はある。


次の草津戦で、また同じ過ちをしたらハッキリHFCに
メールで伝えることにしようと思っている。
草津は実は一番早く札幌のパズルを解いたチームだ。
そこを抑えきれば考え直しても良いが、また同じように
氏原に縦スルーパスに走り込まれたりしてポコンと
得点されたら、オイラはみうみうに見切りを付けることにする。

posted by FT |21:18 | 今日の寸言 | コメント(2) | トラックバック(0)

2007年07月03日

あえて拗ねる(時事ネタ)

1954年3月、アメリカのビキニ環礁での水爆実験の
死の灰を浴びた日本のマグロ漁船・第五福竜丸が被曝し、
乗組員全員が放射能症に冒され、無線長の久保山愛吉氏が
死亡した。

だが、その直後、当時の吉田茂内閣の外務大臣・岡崎勝男
は冷戦下の対米協調に汲々とし、国会でアメリカの核実験に
抗議するよう求めた野党に対し「今の日米関係ではアメリカの核実験
に反対するべきではない」と言い切り、さらに翌年には日米協会の
スピーチで「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」と
のうのうとヌカしたのだった。
(この段落のみ敬称あえて略)

まあ、要はこういう人間達の末裔が今の権力に座っている
というわけですな。

しかし、オイラはてっきり今回の久間発言について、改憲派の皆々様
から「よく言った、エライ」という声が出ないもんだと不思議だったな。
だって改憲派が最終的に目指す「普通の国」って、武力を備えて
近隣諸国から舐められないようにしたいっていうのが根っこに
あるんだから、最終的には再軍備して核武装したいんでねえの?(笑)
アジアの人たちが戦時中の被害を訴えても「そんなのウソだ」
「捏造だ」「オレたちの父祖を侮辱するな」とか言って、戦争が
立派なものだったって意識操作したい人々なら、
広島や長崎の被災者にも「戦争で死んだのはお前達だけじゃない
んだから、グズグズ言うな」とか罵声を浴びせて、核武装正当化を
声高に叫ぶんじゃないか、それがいつも言ってることとの整合性じゃ
ないのか、と思ったんだが、あいにくというか何というか、
そこまで「お馬鹿さん」じゃなかったということか。
それとも某掲示板とかではネット右翼がそういうことを言ってるんだろうか。

こういうサポーターが集うブログは独立していると同時に、一種の
連携もある場所だから、個人的な政治的信条を述べるのは特定の
思想宣伝にもなるんで、あまり好ましくないのかも知れないので
少しは自制するが、まあ、次の選挙でどうするかはもう決めたわ、自分。

posted by FT |23:15 | 今日の寸言 | コメント(5) | トラックバック(0)

2006年07月15日

「闘」の字に

今さらながら、「闘」という字がいい。

「門」の部分は、いわゆる「もんがまえ」というやつに見えるが
この字の場合は門じゃなくて、左右に並んだ兵士が両側から
槍とか矛とか戟とかいった長い柄の武器を構えている姿を
かたどっているそうだ。
古い字体の「鬪」だとちゃんとギザギザに刃が描かれて
いるので、違いがわかる。

オイラの目にはむしろこの「たたかいがまえ」は
両側から大きく振られるフラッグのようにも見える。
いや、その方がむしろイメージが沸くかも。

その旗の下に描かれている「豆」は、これはおマメではなくて、
本来は神に捧げる穀物を入れる容器。一番上の横棒が蓋で、
平らなのでこれを楽器として使うこともあったそうだ。

横にある「寸」は、これは「手」を表す部首の一つで、
テンの部分は特に親指を強調して表しているらしい。
長さの単位「寸」は3センチ程度だが、親指の幅から来て
いるそうだ。

でも、これもオイラの目からは
「優勝カップを手にした選手」の姿だよ(笑)
そういや、この「豆」とイタリアのスクデッドはそっくりだな。


赤黒の旗が祝福に翻るその下で、
優勝カップを手にする選手たち。

このイメージが現実となる日が近くなることを
この字を見ながら思ってしまう。
妄想に近いが、この字を今季の象徴としたからには、
その言霊を、文字に込められた祈りを強くしていきたい
と思うのだった。

posted by FT |11:20 | 今日の寸言 | コメント(0) | トラックバック(0)

2006年05月30日

碍子ってわかります?

不振のチームへの心配は、ちょっと一息。
 
タイトルの「碍子」は「ガイシ」と読む。
ご存じの方も多かろうが、電柱なんかで電線の電気が
漏電して電柱や地面に触って感電したりしないように、
絶縁する白い磁器製の物体だ。
 
で、「碍」とは今の日本人には見慣れない漢字だが、
「さえぎる」という意味の漢字だ。

ちなみに、「日本ガイシ」という会社があって、この
碍子を製造する会社なのだが、今はむしろ、その技術を応用
した「浄水器」で有名だ。「シーワン」というその浄水器は
極めて性能が高いとのことで、何とか手に入れたいと資金を
準備しているオイラである。

さて、いきなりヘンなことを言い出したが。

社長ブログを見て、以前から触れていた「食育」がらみの
話題を読んでいたのだが、ふと言葉の問題で気がついた。

「障がい」「障がい者」という表記だ。
以前聞いたことがある。
「障害」の「害」という字は、まるでその存在が「害」
のような連想を起こし、障害を持つ人々への差別に繋がる
ので、使わないようにしよう、ということで、この
「障がい」という表記が出来たとか。

オイラも「障害」という表記はよろしくないと思う。
だが、その理由はやや異なる。
実は周知のことだろうが、「障害」という表記は本来
存在しなかったのだ。

正しくは「障碍」
そう、「碍子」の碍だ。
障も碍も、ともに「さえぎる」「じゃまする」という意味で、
何らかの邪魔になるものが存在する、という意味だ。
かつては「障碍者」と書かれていた。
肉体的機能に何らかの「さえぎる要素」が存在している人。
事実を正確に捉え、しかも無用な差別意識をかき立てることもない、
何らの問題もない表記である。

それが「障害」と書かれるようになったのは、いわゆる戦後の
漢字制限のせいだ。全く罪作りな話で、健全な漢字をわざわざ
使えなくし、誤解を生む表記をやむなく作り、それが今や
ひらがなで書くハメになった。

話を戻して、オイラは社長をどうこう言うわけではない。
ただ、この「障がい」「障がい者」という表記はいただけない。

理由は二つ。
まず、漢字とひらがなの組み合わせで熟語を表記するのが
ゲシュタルトとしてみっともない。
「ら致」とか書くのと同じだ。熟語の統一性を失った、恥ずかしい
書き方だからだ。

もう一つ、こっちの方が問題だ。
「障がい」とひらがなで書くことによって、自分は差別的な
言葉は使いません、という態度を表明しているというつもりに
なるのだろうが、実はこれが逆効果なのだ。
読んだ側はこの「がい」とひらがなで書かれた表記を見て、
逆に消されてしまった「害」という漢字をむしろ鮮明に透視して
しまうのだ。
むしろ従来通り「障害」と書いた方が気がつかれない分だけ、
罪がないほどである。

で、どうだい。
「障がい」なんてみっともない上に、反差別の自己満足と
裏腹の毒を孕んでしまう表記も、もちろん戦後に便宜的に
でっち上げられた「障害」もやめて、旧来の表記である
「障碍」を使えば良いんじゃないのかな。
碍って字が難しい?いやいや、今だって電柱にはちゃんと
「碍子」はあるんだから。

以上、言葉の問題をちょっと考えてみました。

posted by FT |22:18 | 今日の寸言 | コメント(1) | トラックバック(1)

2006年05月03日

今日はただの休日に非ず

今しばらくしたら厚別に向かうが、その前に朝風呂の準備中(笑)
聖地に赴くのにスッキリして浄めていかねば。
(実は昨夜風呂に入り忘れただけだが
 
さて今日は、言うも愚かだが「憲法記念日」である。
コスタリカと並んで軍隊の非所有を明記し、
国家間交渉の手段としての「戦争」を全否定した、
しごくまっとうな理想をめざした憲法であります。
 
現実には自衛隊があいまいに創設されて定着し、
在日米軍が各地に幅をきかせ、しかも巨大な国家予算を投じられ
てはおり、現実との乖離は確かに存在しているがね。
されどその理念は決して風化することはないはず。
おろかな人間が我が欲のために他人の命を弄び、その甘言に
踊らされた国民が自由の価値を忘れてしまわない限りは。
 
権力による隠微な、しかし着実な「改憲」という名の
「理想の放棄」の策謀にただただ従順に乗っかっていく
ことを意識して拒否し、自分自身、そしてこの後の世代が
安心して生きていける社会を維持していくために、
オイラは「日本国憲法」の改変に反対する立場をとろうと
その制定記念日にあらためて思うのであるよ。
 
この件に関しては様々な意見があるだろうが、ここで論争
する気はないので、おかしな反論コメントはしないでいただきたい。
あくまでオイラ自身の考えを新たに意識し直しただけなので。
(論争したっていいんだけど、スペース的に限られたブログ内じゃ
水掛け論で終わってしまうだろうからね)
 
では後刻、厚別でお会いしましょう。

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2006年04月20日

For Many are Called, but Few are CHOSEN

タイトルは、最近HBKことショーン・マイケルズの
Tシャツに書かれていた言葉。
出典は新約聖書・マタイ福音書。
(なお、オイラはクリスチャンには非ず、念のため)
 

 
「召されし者は多し。されど選ばれし者は寡し」
 
サッカーの神様は、あまり気前は良くない。
気まぐれなボールのほんの僅かな誤差に、栄光と悲哀の
紙一重の差が潜んでいる。
そして、概して栄光が与えられる方が少ない。
 
その意地悪な神様の後ろ髪をひっつかみ、むりやりに引き留め、
こっちに顔を向けさせるほどの全霊を、選手は傾けなくてはならない。
蓄えた技量、鍛えた体力、そして断固たる意志によって。
 
栄光の門はあまりに狭い。
そこを通ろうとする者は多いが、通り抜けられるのはほんの僅か。
 
札幌の選手達が、選ばれた者になることを願ってやまない。


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