2005年12月18日

記憶に残るデュオ

 ここに、NBA(北米のプロバスケットボールリーグ)創設以来の「偉大な50人」に選ばれている二人の選手の経歴があります。

 【ジョン・ヒューストン・ストックトン】
  1962年3月26日生まれ
  出身:ワシントン州スポケーン
  ゴンザガ大卒、1984年ドラフト1順目16位
  オールスター選出10回 オールスターMVP1回(1993)
  オリンピック金メダル2回(1992・96)
  所属:ユタ・ジャズ(1984-85~2002-03)

 【カール・マローン】
  1963年7月24日生まれ
  出身:ルイジアナ州サマーフィールド
  ルイジアナ工科大卒、1985年ドラフト1順目13位
  レギュラーシーズンMVP2回(1996-97・ 98-99)
  オールスター選出14回 オールスターMVP2回(1989・93)
  オリンピック金メダル2回(1992・96)
  所属:ユタ・ジャズ(1985-86~2002-03)→ロサンゼルス・レイカーズ(2003-04)

 彼ら二人は、ユタ州・ソルトレイクシティをフランチャイズとするチームでキャリアのほとんどを共に過ごしました。これだけ長い間共にプレーすること自体が非常にまれなのですが、NBA史上に燦然と輝く次の数字は、二人の関係が特別なものであったことを端的に現してくれます。


 ストックトン:通算アシスト数15,806(歴代1位)
 マローン:通算得点数36,928(歴代2位)

 ストックトンの記録は、マジック・ジョンソン(HIVウイルス感染を告白し、その後バルセロナオリンピックでの「ドリームチーム」結成を呼びかけたことでご存じの方も多いでしょう)が「私の最も大切な記録」と言っていたものを破った、まさに金字塔であり、またマローンの得点数は「神様」と呼ばれたマイケル・「エア」ジョーダンを上回るものです。

 ご存じの通りバスケットは5人1チームで行うスポーツですが、それぞれにポジションというものが与えられています。

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 ストックトンは「ポイントガード」というポジションでした。これは所謂「司令塔」で、ドリブルでボールを運び、味方にパスを配球し、ゲームの流れを読んでオフェンスのパターンを選択することを主なタスクとしています。背は低いが高い技術を持った選手が務める、チームの心臓です。最近のNBAでは、ガードというポジションには敏捷性に優れ、派手なドライブイン(ドリブルでゴールへ向かって切れ込むこと)やダンクシュートを決める「アスリート」タイプの選手が多いのですが、私に言わせればそんな選手は本物のポイントガードではなく、ダンクもできない、足も遅い、けどゲームの流れを読むことに長け、抜群のリーダーシップを発揮するストックトンのような選手はこれからも現れないのではないかと思っています。


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 対してマローンは「パワーフォワード」というポジションで、これは主にゴールに近い「インサイド」と呼ばれるエリアでプレーし、そこで得点を挙げることとリバウンド(シュートのこぼれ玉)を拾うことを求められるポジションです。特にマローンはジャズではチームのNo.1スコアラーで、大学時代に付けられた「メイルマン(郵便配達人)」というあだ名通り、常に確実にゴールを決める選手でした。晩年はヒザの怪我に苦しめられましたが、この人のトレーニングに対する姿勢はまさにプロフェッショナルと呼ぶに相応しく、体をぶつけ合うことを求められるポジションにあって、怪我による欠場の数が極端に少なかったことで知られています。

 つまり、彼らの関係は、ストックトンのパスをマローンがスコアするというものであり、単に共にプレーしたというだけではなく、本当の意味での「デュオ」と言えるものだったのです。彼らの「ピックアンドロール(2対2の局面で相手のマークをずらし得点につなげるプレイ)」は芸術品の域に達していました。当時NBAでは原則としてゾーンディフェンスは禁止されていたので、彼らのこのプレイはまさに「分かっていても止められない」プレイだったのです。


 経歴を見れば分かる通り、彼らはナショナルチームのメンバーとしてバルセロナ・アトランタ両オリンピックで金メダルを獲得、NBAオールスターでは二人同時にMVPを受賞しました。しかもその時の開催地は彼らの地元、ソルトレイクシティでした。
 しかし、彼らは最も欲していたであろうものを手にすることなく、2003年にストックトンが引退、パートナーを失ったマローンは「欲していたもの」を手にする最後のチャンスを求めて、スーパースターがそろっていたロサンゼルス・レイカーズへ、最低年俸を受け入れての移籍を決意。NBA史上最高のデュオは終焉の時を迎えました。

 彼らは結局、一度もNBAチャンピオンになることができなかったのです。


 2005年のJ1優勝争いは、劇的な幕切れとなりました。G大阪の優勝は、結果としては妥当なものに思えますが、それより私の心に残っているのは、「またか」という思いです。

 チームが大久保嘉人を失っても、古橋達弥という「素晴らしい三人目」を得ても、途中、一人が海外でプレーした時期があったにせよ、彼ら二人は常にチームの中心でした。しかしまたしても、「欲していたもの」は彼らの目の前から消えていきました。またしても…


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 ユタ・ジャズは、ストックトンとマローンの在籍中に、年間王者を決めるNBAファイナルに二度進出しています。その時は、二人の他にジェフ・ホーナセックという、3ポイントシュートを得意とする選手がいました。彼ら三人を含めてジャズは素晴らしいチームワークを発揮し、1997・98年のファイナルに進出し、そして「神」ジョーダン率いるシカゴ・ブルズの前に、二度とも敗れ去りました。97年には、NBAファンの間では語り草になっている第5戦でのジョーダンの鬼気迫るプレーに。98年には、レギュラーシーズン勝率1位となり、プレイオフでも圧倒的な強さ・早さでウェスタンカンファレンスを制しながら、ブルズの勝ち上がりを待つ間にゲーム感覚を失ったのかあっさりと。
 その後、ホーナセックが引退した後はプレイオフには進出するもののファイナルに進むことはできず、前述の通り二人は相前後して引退を迎えたのです。



 負けん気の強そうな顔つきの、背の高い彼は、「アイツを胴上げしたい」と常々言っています。人の良さそうな、周りまでも幸せにしてくれそうな素敵な笑顔を持つ彼は、今シーズン、節目となるゴールを決めましたが、あくまで通過点だと言います。しかし、キャリアの終わりが近づきつつあることは彼自身がよく分かっているでしょう。

 彼らは来年、「欲していたもの」を手にすることができるでしょうか。


 しかし、たとえそれを手にすることができなくても、やはり彼らが素晴らしいデュオであることにかわりはありません。

 マローンは言います。「レイカーズでもファイナルに進んだが、やはりあの二度のファイナルは素晴らしかった」と。

 ストックトンの引退に際して、マローンが贈った言葉です。

 "There absolutely, positively, will never ever be another John Stockton -- ever." 


posted by tottomi |23:20 | サッカー全般 | コメント(0) | トラックバック(1)

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