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2007年02月22日

僕らは失う機会すら与えられなかった-(その2)

昨日の話の続き。なんだか朝日批判チックになってきていて本筋とは逸れてしまいそうな勢いですが。
昨日の話では自分もそのど真ん中に所属しているとされる「失われた世代」のことを朝日新聞が特集して点で、「誰が」「どのように」「何を」失ったのかという焦点がぼやけたまま、間違った方向で印象を与えてしまっているということを書いた。

で、この特集にはもうひとつ欠けている点がある。それは「格差社会」という観点だ。
格差があるのはどの国も街も一緒だ。だけどその格差があまりにも広がりすぎていて、富がごくわずかの層に大きく集中しすぎているのが今の日本。だってそうでしょう?企業は大きくその利益を伸ばしているけど、一般社員ですらその恩恵にはあずかれない。企業側が「バブルとその崩壊の時代」の経験をトラウマにしているせいなのか分からないけど、富の再分配は行われていない。そういう全社会的な「格差」を含んで考えなければ、「失われた世代」へのアプローチはうまくいかないのではないか。

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posted by ishimori |23:56 | miscellany | コメント(0) | トラックバック(1)

2007年02月21日

僕らは失う機会すら与えられなかった-(その1)

ちょっと昔の話になるけど、朝日新聞が元旦から「ロスト・ジェネレーション」という特集を組んでいて、その新聞記事があまりにもお粗末で矮小化されたものだったので社会学系ブログなんかで思いっきり炎上して、それから「ロスト・ジェネレーションってなんなんだ?」という話題が出てきたことがあった。その話題は今となってはすっかり鎮火しているに等しいのだけど、ここでちょっとぶり返してみたい。個人的にまとめたい(でもって憤りたい)だけなんだけど。
そもそも、「ロスト・ジェネレーション」という言葉は何を意味しているのかというところからはじめたい。この言葉が出てきたのはヘミングウェイやフィッツジェラルドといった小説家の生まれた世代、1920年代から30年代という二つの世界大戦のちょうど「戦争の風穴」のような時期に青年時代を過ごし、その後の第二次大戦のにより文化的、情緒的に異質なものをもたらした人々を指す言葉だ(かなり要約)。
それをふまえた上でまず朝日新聞の第1回のリード文を読んでみると、そもそも定義からしてかなりいびつにされている。

今、25歳から35歳にあたる約2千万人は、日本がもっとも豊かな時代に生まれた。そして社会に出た時、戦後最長の経済停滞期だった。「第2の敗戦」と呼ばれたバブル崩壊を少年期に迎え、「失われた10年」に大人になった若者たち。「ロスト・ジェネレーション」。第1次大戦後に青年期を迎え、既存の価値観を拒否した世代の呼び名に倣って、彼らをこう呼びたい。(1月1日)

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posted by ishimori |23:15 | miscellany | コメント(0) | トラックバック(1)

2007年02月20日

恥を知れ!しかるのち死ね!――極私的書評『夜は短し歩けよ乙女』

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森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』

本屋でその装丁に惹かれて買っていこうかなと思っていたらとんでもない人気らしくたちまち消えてしまっていて、重版になってやっと並べられた「夜は短し歩けよ乙女」をようやく買い求めることができた。
そんで一気に読み終わって一言目の感想。なんてキュート!

間違えば完璧にストーカーとして引っ立てられるであろう(いや、すでにそうかもしれない)主人公の「先輩」が、片思いの彼女の気を引くべく、なるべくできるだけ多く彼女の目にとまろうとすべく京都の町を駆け回る。夜の木屋町から先斗町で、夏の盛りの下鴨神社で開かれる古本市で、晩秋も深い学園祭の大学構内で、風邪の風吹く真冬の高野川で、北白川で、今出川通で、四条河原町で。主人公が追いかけるのは黒髪でひよこ豆のような後輩の彼女。けれども主人公とちょっと天然っぽい彼女はすれ違うばかりで……という、四季それぞれの京都を舞台とした連作小説。果たしてこの本をどのようにジャンル分けすべきか。作者がデビューしたジャンルであるファンタジーか。すれ違いの平行線を歩み続けるボーイミーツガールの恋愛小説か。どうにもこうにも分けられることができないが、なんとしても面白いことだけは確かである。


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posted by ishimori |20:41 | books | コメント(0) | トラックバック(1)

2007年02月19日

許される街、秋葉原。

ちょっと前から引きずっている、東京話のつづき。

「東京と言えばどこ?」という質問ほど、その時代の移り変わりを示すものはないんじゃないかと思う。その昔、東京が「東京」であることをはじめた頃の回答は「浅草十二階」だったろうし、「帝都」と呼ばれた時代もあったし、戦後のそれは「東京タワー」から「サンシャイン60」を経て「お台場」が代名詞となってきた。だが今同じ質問をしたときに、勢力を伸ばしつつあるように思える回答が「秋葉原」だ。かつて電気街として繁栄し、やがてマニア/オタク(マニアとオタクは別の意味です)の聖地となったこの土地は、昔自分たちが社会科の授業なんかで思っていた未来よりもちょっといびつでサイバーで、なんだか「萌え」という単語の乱立する明るいカオスの街、「アキバ」になった。

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posted by ishimori |23:25 | miscellany | コメント(0) | トラックバック(0)

2007年02月12日

「東京」とフットボール。

昨日のエントリで極私的な「東京」への思いをぶちまけて収拾のつかないまま無理矢理に終わらせてしまって(文章としては最低の終わり方だ)、なんとなくもやもやしたまま起きた今日。激しく雪が積もる外を見て出かける意欲を早々になくした僕は、書棚の整理なんかを始めることにした。もともと家にあるのと同サイズ同色で買い増しして設置していたカラーボックスがきれいに(まるで三浦フットボールにおける4バックのラインのように!)並んでいるのだから、中身もきちんと並べようと。そうしてせっせと単行本や文庫本を並べ替えているときに、ある本を持っていたことを思い出した。それが今回のエントリを書くきっかけになった『フットボール都市論』だ。この本で舞台となっているのはパリ、マルセイユ、香港、そして東京。そんなわけで、この本をきっかけとして昨日の「東京」の話を再びしてみたい。今度は個人的な側面からでなく「フットボール」と「都市」という側面から。

周知の通り、東京には二つのJクラブがある。FC東京と東京ヴェルディ。この2チームと、その周辺(いわゆる「首都圏」「郊外」という言葉でくくられる地域)を軸にして「東京」というのはどういう街なのかということを書いておきたい。
まずFC東京と東京ヴェルディにおける「東京性」の差異から。
東京ヴェルディは等々力競技場をホームスタジアムとする「ヴェルディ川崎」として発足した。前身の読売クラブ時代から日本代表を数多く擁して多くのタイトルを獲得してきたのだが、2001年の東京移転初年度にJ2降格の危機に瀕する。かろうじて残留に成功した後、2004年の天皇杯で優勝するものの翌2005年のシーズンではJ2に降格し、今年2シーズン目のJ2を戦うことになっている。
それに比するFC東京は、旧JFL所属の東京ガスサッカー部を母体として創立されたチーム。当初は東京ガス時代から引き続いて深川のグランドで練習し、江戸川陸上競技場や夢の島競技場、西が丘サッカー場などをホームとして戦ってきた。1999年、J1へ昇格すると2004年に初のタイトルとなるヤマザキナビスコカップ優勝を果たす。

この2クラブのプロフィールを比較してみると、J1/J2といったリーグにおける存在位置以前にもっと対照的な点が浮かび上がってくる。日本のフットボールにおける黄金時代を築いたヴェルディと、下町の企業サッカー部からトップリーグまで上がってきたFC東京。歴代の日本代表を多く輩出したヴェルディはテクニックとセンスで魅せるのに比べて、FC東京は知名度にそれほど高くない選手がほとんどで、「部活サッカー」と揶揄されるほどに愚直で運動量のあるゲーム運びをする。なぜ同じ「東京」を掲げるチームが、こんなにも大きく違うのだろう?

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posted by ishimori |17:53 | football | コメント(0) | トラックバック(1)