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2007年07月10日

天国のフットボール

6月からこのかた体調を崩しっぱなしで、5月末に引いた風邪が扁桃腺に巣を張って喉の痛みで水も飲めないくらいの日々が何日か続いた。ラジオに出る予定があったので(三角山放送局のあの番組です)抗生物質で何とかして1時間の生放送を乗り切ったら痛みが再発してまた別の抗生物質を飲むことになってしまい、それを治すのに6月をまるまる使ってしまった。で、7月に入ってからの自分はだるさやら微熱やら頭痛やらといった不定愁訴に悩まされている。これは毎年のこと。
自分は7月生まれなんだけど、小さいときから誕生日近辺にかならず体調を崩していた。逆に誕生日前後は絶好調というひとも見かけることがあって、自分の「誕生日前後は調子悪い説」がこの歳になっても続いているのはそういう星回りだからなんだろうとあきらめている。誕生日を存分に楽しめないのは少し寂しいけど、それでもフットボールを見ている時だけはなんとか気を紛らわすことができた。

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posted by ishimori |23:19 | miscellany | コメント(0) | トラックバック(1)

2007年04月30日

私的な戯言――雪道の歩き方

バスからゆっくりと降りた老婆が杖を突いて歩き出す。
その杖の先は金属で尖っていた。すこしでも冬道に滑らず歩けるよう、杖の先に錐状の金具を取り付けている。
こういった金具をここ何年かでよく目にするようになった。錐のようでなくても、スパイクのようなものを取り付けて歩いている人もいる。みんな、雪道に足をとられないようにしているのだ。そういえば僕の子供の頃も、滑り止めのついた靴を履いていた。靴底に折りたたみ式のスパイクがついていて、4つついてたら「4WD」なんて名前をつけて売られていた。当時の子供たちにとってはそんな冬靴が憧れだった。雪道でどんなに遊んでも滑らないことが誇らしかった。

あの頃より確実に雪は少なくなり、ある程度除雪のできている街に住んではいるが、湯道で滑ることは何十年たっても相変わらずだ。でこぼこに氷の張った歩道の上をおそるおそる進んでゆく。ずるっと滑りそうになるところで踏ん張って体を支え、次の一歩を踏み出す。こうして歩き続けていて、やっと冬道の歩き方にコツのようなものを見つけることができたのは最近のことだ。

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posted by ishimori |23:47 | miscellany | コメント(0) | トラックバック(1)

2007年03月21日

フェジョアーダを煮込む。

20070321-00.jpg

「しまふく寮通信」を読んでフェジョアーダが食べたくなったので、作ってみた。
関東在住時代にCOPA TOKYOという店に連れて行ってもらって食べたのがはじめてのフェジョン。シュラスコ食べ放題のコースなのに、フェジョアーダばっかり食べていた記憶がある。
ちなみにこの「COPA TOKYO」というお店、Jリーグ各チームのブラジル人がこぞって集まる店としても有名。エントランスには選手のサインがびっしりと!

そんなわけで作ってみる。
調べてみると地域によって使う豆が違うらしいけど、今回はブラジルでポピュラーな黒豆(黒いんげん豆=「フェジョン・ペレット」)で。
作り方については、こちらを参考にしました(簡易版のほう)。

そうそう、できればご飯も炊いておいてくださいね。


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posted by ishimori |00:12 | miscellany | コメント(2) | トラックバック(1)

2007年02月22日

僕らは失う機会すら与えられなかった-(その2)

昨日の話の続き。なんだか朝日批判チックになってきていて本筋とは逸れてしまいそうな勢いですが。
昨日の話では自分もそのど真ん中に所属しているとされる「失われた世代」のことを朝日新聞が特集して点で、「誰が」「どのように」「何を」失ったのかという焦点がぼやけたまま、間違った方向で印象を与えてしまっているということを書いた。

で、この特集にはもうひとつ欠けている点がある。それは「格差社会」という観点だ。
格差があるのはどの国も街も一緒だ。だけどその格差があまりにも広がりすぎていて、富がごくわずかの層に大きく集中しすぎているのが今の日本。だってそうでしょう?企業は大きくその利益を伸ばしているけど、一般社員ですらその恩恵にはあずかれない。企業側が「バブルとその崩壊の時代」の経験をトラウマにしているせいなのか分からないけど、富の再分配は行われていない。そういう全社会的な「格差」を含んで考えなければ、「失われた世代」へのアプローチはうまくいかないのではないか。

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posted by ishimori |23:56 | miscellany | コメント(0) | トラックバック(1)

2007年02月21日

僕らは失う機会すら与えられなかった-(その1)

ちょっと昔の話になるけど、朝日新聞が元旦から「ロスト・ジェネレーション」という特集を組んでいて、その新聞記事があまりにもお粗末で矮小化されたものだったので社会学系ブログなんかで思いっきり炎上して、それから「ロスト・ジェネレーションってなんなんだ?」という話題が出てきたことがあった。その話題は今となってはすっかり鎮火しているに等しいのだけど、ここでちょっとぶり返してみたい。個人的にまとめたい(でもって憤りたい)だけなんだけど。
そもそも、「ロスト・ジェネレーション」という言葉は何を意味しているのかというところからはじめたい。この言葉が出てきたのはヘミングウェイやフィッツジェラルドといった小説家の生まれた世代、1920年代から30年代という二つの世界大戦のちょうど「戦争の風穴」のような時期に青年時代を過ごし、その後の第二次大戦のにより文化的、情緒的に異質なものをもたらした人々を指す言葉だ(かなり要約)。
それをふまえた上でまず朝日新聞の第1回のリード文を読んでみると、そもそも定義からしてかなりいびつにされている。

今、25歳から35歳にあたる約2千万人は、日本がもっとも豊かな時代に生まれた。そして社会に出た時、戦後最長の経済停滞期だった。「第2の敗戦」と呼ばれたバブル崩壊を少年期に迎え、「失われた10年」に大人になった若者たち。「ロスト・ジェネレーション」。第1次大戦後に青年期を迎え、既存の価値観を拒否した世代の呼び名に倣って、彼らをこう呼びたい。(1月1日)

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posted by ishimori |23:15 | miscellany | コメント(0) | トラックバック(1)