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生まれ:1978年旭川市生まれ。 育ち:道内あちこち。その後横浜、川崎を経て再び札幌。 観戦暦:1996年・対日本電装戦が初応援。翌年より道外への進学に伴いアウェー中心に応援、1998年よりアウェイコールリーダーとなる。2003年春に札幌へUターンし、現在ホームゴール裏で応援中。 サッカー以外の趣味:音楽と活字。

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許される街、秋葉原。

2007年02月19日

ちょっと前から引きずっている、東京話のつづき。

「東京と言えばどこ?」という質問ほど、その時代の移り変わりを示すものはないんじゃないかと思う。その昔、東京が「東京」であることをはじめた頃の回答は「浅草十二階」だったろうし、「帝都」と呼ばれた時代もあったし、戦後のそれは「東京タワー」から「サンシャイン60」を経て「お台場」が代名詞となってきた。だが今同じ質問をしたときに、勢力を伸ばしつつあるように思える回答が「秋葉原」だ。かつて電気街として繁栄し、やがてマニア/オタク(マニアとオタクは別の意味です)の聖地となったこの土地は、昔自分たちが社会科の授業なんかで思っていた未来よりもちょっといびつでサイバーで、なんだか「萌え」という単語の乱立する明るいカオスの街、「アキバ」になった。


ちょっと前までは「秋葉原に行く」というのは勇気のいる時代で、行き先は隠して秋葉原駅で降りるような恥ずかしさがあった。今でもそんな恥ずかしさは場所によっては残っている/別の意味でもっと気恥ずかしくもなっているけど、以前よりはずっとオープンな街になったとは思う。少なくとも、パソコンのパーツをふらっと買いに行き、メイド喫茶の店先を冷やかす程度には。でも中央通りから奥へと進むたびにまだまだディープでカオスで、それが今でも人を引きつける力になっていると思う。
例えて上げれば汐留/お台場/六本木ヒルズ。今東京で話題性のあるスポットといえばこのあたりか。これらの街で、秋葉原と決定的に異なっている点がひとつ=「時代性が薄い」ということだ。都市再開発の流れで作られたこれらの土地は、まっさらなところに(六本木はそうでないかもしれないけど)突如として生えてくるビルと堰を切って進出するアミューズメントチェーン、ITとメディア企業がこぞって進出する街になった。まるで巨大な箱庭を突然、どんと目の前に置かれたような光景が広がっている。そこに通り一辺倒の「面白さ」や「目新しさ」はあっても、2回3回と通ううちに新たな発見などは無くなっていく。そのうち興味もなくなってきたころに、新たな箱庭がどこかにできて今度はそこに人々が押し寄せて……という図式が、ここ十数年で繰り返されているように思える。今や東京の真ん中はハメコミ合成の箱庭だらけでスカスカになってきているような気さえする。都市としての歴史的地理的な厚みや、奥へ奥へと入り込める面白さを求めるのなら新宿か秋葉原か。あるいは下北沢くらいしかないんじゃないのかなあ。

自分が秋葉原に行ったときは、一番華やかな中央通りから順番に、S字を逆からたどるように奥へと歩くのが通常ルートだった。まず中央通りを秋葉原駅から地下鉄末広町の方向にずっと歩く。大通りは、まずはその街のリアルタイムな流行を知るのにちょうどいい。大型電器量販店の店頭や、ゲーム専門店なんかをのぞき見しながら流して歩く。末広町近くでいったんその町並みはとぎれるので、そこで折り返して反対側の歩道をまた秋葉原方向に向かって歩く。だいたい僕はその途中で腹が減って疲れて一休みしたくなってくるので、立ち食いそばだったり土日に軒を並べる出店でドネルケバブ(トルコ料理。羊肉をパンでサンドしたようなもの)を食べたり。
再び歩き出して秋葉原駅前まで来たらもう一回折り返して今度は中央通りの一本奥、パソコンの中古専門店やパーツショップなんかのある通りへ。ここでなにか出物があったりするので、じっくりと店を眺めるのが恒例だ。ちょっと型落ちのCPU/ちょっとレアなPDAのアクセサリ/ちょっと面白いUSB接続のグッズ。手にとって眺めながらまた末広町方向へ。それでもってまたまた折り返し、もう一本奥へと向かうと秋葉原本来の持つディープさがむき出しになって見えてくる。くたびれたメモリ/IBMのマウスだけ詰め込んだ段ボール/一台500円のジャンクなPC-98NOTE。知識の薄い自分には使いこなせるわけなんてないんだけど、その「何が何だかわからない感じ」がなんだかわくわくさせる。違法なものに手を出すことさえしなければ、好奇心をこんなに満たしてくれる街はない。

一方の汐留やお台場には、そんな場の力もなく、どことなく嘘くさいエンターテインメントの匂いがする。でも、そんな嘘くささの混じった箱庭は、それはそれでなんというか別の意味でテクノでサイバーなんじゃないかと思うんだけど。
そんな「別の意味でのサイバーさ」=いわゆる顔のない「箱庭」的な街を闊歩するには、人はそれぞれ個性を押し殺して薄っぺらい顔をしなければならない。もしくはおのぼりさんの顔を無理矢理作って無邪気に見上げることがよしとされる。なぜなら、「箱庭」はそれ自体で完結する底の浅い街の物語で、歴史的な地層の厚さなんて誰もそこに求めないし、その地層の厚さによって生じる迷路的なわくわくも物語性も求めない。求めるのは目新しさと嫉妬の混じった羨望だけだからだ。だけど、秋葉原にはそんな心配はいらない。歴史性/地理性の深い場所では、「箱庭」でみんなと同じ一般人のふりをして顔のない顔をしている必要はない。欲しいものには目を輝かせ、好奇心のおもむくままにうろついていられる自由がある。友人に話すのはちょっとためらわれるような好みでも、この街ではそれを堂々と表に出して歩ける。そして日常で潜めていた自分を許してくれる街でもある。無線が好きならそれでいい。クロックアップに命をかけるならそれでもいい。もちろん萌えちゃっても大歓迎だ。アホで/オタクで/サイバーな、そんな街などここだけだ。ネットじゃ見えないリアルな人と物が溢れて、どこにもない「自分だけのもの」が見つかる街。でっかい量販店のビルが建っても、TXが通っても、やっぱりそこは変わらずに面白い街が「アキハバラ」。


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23:25

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近くて遠い街。

2007年02月11日

TBSラジオで現在放送されている番組に「文化系トークラジオ Life」というのがあって、ここ半年ばかり毎週聴いている。とはいえ北海道の地上はラジオではネットしていないので、Podcastで聴いている。ラジオで流れたトーク部分がまるまる聴ける上に、Podcastでしか聴けない「外伝」なんかもあったりしてなかなか面白い。内容はと言えば、「戦争とサブカルチャー」のような堅いテーマから「モテる技術」なんていうユルいテーマまでを「文化的側面(体育会系とは真逆に位置する、サブカルや社会学系なところ)」から、メインパーソナリティーの鈴木謙介氏と編集者・ライター・批評家などのサブパーソナリティーがあれこれと語るというトーク番組。自分もどっぷりと文化系な人間なので、トークに共感したり笑ったりうなずいたり。ほんとうに面白いので、是非一度聴いてみてください。

で、2月3日の放送は「東京」というテーマだったのでいつもよりもじっくりと聞き耳を立てていた次第。なんで「東京」というテーマにぴんと来たのかというと、大学時代に卒論を書いたテーマが「大正政治史における関東大震災の復興計画について」なんていうものだったからだというのもあるし、東京という存在そのものが自分にとってものすごく興味を惹かれるものであると同時に、いろんな感情や思い出のある街でもあるからだ。

そもそも「東京」という存在に興味を持ったのは大学で都市論の講義を聴いたり、ゼミで江戸時代の文化や東京の近代建築について調べたりしたのが最初のことで、そこから日本政治史を専攻にしたということもあって「東京の都市計画」という話と「大正時代の政治」を組み合わせて研究(というにはおこがましいが)していたことから、というのが表向きな話になる。ただもっと個人的な話に限定していうと、高校時代にまで興味のきっかけは遡る。


高校時代、僕は大学進学を考えていたもののどこに行くかは考えていなかった。親からは「地元の北大に行け」とは言われていたものの、大学にまで北海道で過ごすのはなんだかもったいないとぼんやり思っていた。せっかく進学するのだから、首都圏か阪神圏の大学に行きたいなあと考えて調べてみると横浜の某国公立大学が自分のレベルにあてはまった。合格レベルで言うとC判定プラスくらいだったかと思う。その大学に狙いを定めて「私立には行かないんだから道外に出てもいいじゃん」と親を説得して、無事に合格できた。そのときの僕は
「あこがれのトーキョーライフ!」
という考えでいっぱいで、前途洋々とした新生活にわくわくしていたのだ。だけど、この時点で地方の人間が陥りやすい一つの罠に嵌っている。それは「1都3県みんな首都圏」という間違った思いこみである。たとえ住むのが横浜だとしても、行けば高円寺や下北沢みたいなサブカルチャーの匂いがするちょっぴり刺激的なキャンパスライフを送れるものだと信じ込んでいたのだった。後にそれはものの見事に夢と砕け散り、それゆえに「東京」という街そのものへのねじれたコンプレックスを持つことになってしまったのだけど。
そうやって無邪気にわくわくして上京して横浜での新生活を始めた僕は愕然とした。横浜は横浜でも、僕の通っていた大学はかなりの横須賀寄りに存在するのに伴い、住むところも必然的にそっちの方向に引っ張られることになった。京浜急行の「屏風浦(びょうぶがうら)」というなんだかそこどこよ(横浜のみなさんすいません)、というような小さな駅から坂を上って15分のところにある6畳一間のアパートで理想とはかなりかけ離れたうらぶれた生活だった。僕が抱いていたアーバンでクールなシティライフはどこへ行ったんだ!と思いながらもそこは学生、なおかつアウェイ遠征で常に金のない身には引っ越しなどできるはずもない。近くには横浜一荒れていると噂の高校もあり、かなり窮屈だった。東京(首都圏)ってこんな街じゃないよなあ、と万年床の上で思い続けていた。後に屏風浦はとあるロックバンドが出したアルバムの中の曲名にもなってちょっと溜飲を下げたような気もしたけれど、やっぱり東京という街への妄想的な憧れや、一方的な思いこみに近いコンプレックスは消えなかった。

その大学を卒業した後、僕は東京に勤務地のある会社に就職したのだが、そこでもまた「自分の思い描いていた東京」とはかけ離れた世界にがっかりしてしまうことになる。
一つめが職場。面接は渋谷の宮益坂(この地名だけでなんだかときめく)をちょっと登ったところにあるオフィスだったのに、いざ配属となってみると「五反田」。なんだよそれ!とひとり憤慨してしまった。東急の地下で昼ご飯を買ってきたり会社帰りにHMVに入り浸ったりとかできないじゃん!俺の思い描いていたアーバンで(略)なトーキョーライフはどこへ!そうしてさらなるがっかりを得つつ五反田のオフィスで働くことになったのだけど、ここもなかなか僕の想像とは逆方向に濃いところだった。夜遅くまでやってるのは飲食チェーン店か本屋が一軒くらいのもので、昼ご飯を食べるのは居酒屋がやってる高めなランチメニューか、もしくは古い店構えで安いけど微妙な味の料理を出す中華屋くらいしかなかった。駅の向こうにはあやしげな飲食店と風俗店ばかりがギラギラとネオンを光らせていた。せめて東京で働いてるときくらい、かっこいいトーキョーライフ……なんていうのはもはや夢物語でしかなかった。
さらに追い打ちをかけたのがその当時住んでいた借り上げ社宅で、こともあろうにアーバンとはほど遠い南武線沿線にある川崎市の某所(川崎市のみなさんすいません)にあるマンション。仕事が終わって最寄り駅に降りるとコンビニの灯り以外は真っ暗な街で、仕事で失敗した時に帰るときなんかは暗さで悲しみが増幅されて余計に落ち込んだりした。そうして落ち込んだままの何もない休日なんかには、ひとりマンションの裏にある川べりにいってため息をついていた。その僕のため息を流していたのが、多摩川だった。川の向こうは東京の狛江で、渡ってしまえば昔思い描いていた生活にちょっとだけ近づける。けれどそのわずか先にある「川向こう」へ行くだけで家賃は1万上昇し、暮らしはなんとも心許なくなる。どうしても手が届きそうで届かない東京という街。もどかしさを抱えながら僕は川向こうを見つめることしかできなかった。そのもどかしさをどうにかして抑えようと、自分は東京の町並みを散歩することがひとつの趣味になっていった。冬の日にゆりかもめでひとり有明に降り立ち、海から叩きつけてくる強風に身を任せてさまよっていたり、深夜の新宿から皇居までひたすら歩き続けてみたり、休日に用もないのに出かけては都内のビジネスホテルに泊まってみたり、そんなことを延々繰り返した挙げ句に僕はいろんな事情で仕事を辞めて札幌に帰ることになってしまった。

札幌へ帰ることになった時の気持ちを今でもよく憶えている。どうにか川向こうまで近づいた東京から、こんどは海峡ひとつ隔てた地元へ出戻りになるという惨めさ。地元へ逃げ帰るような悔しさ。僕は荷物をまとめながら、東京への憧れが一部分で逆流して心のどこかで憎しみへと変質していくのがありありと感じられた。大学へ進学を決めたあのとき、僕は確かに「故郷」を心の中からどこかへ捨てる覚悟でここまで来たはずだったのだ。どこでもない、「東京」で自分は生きていく覚悟を決めたはずだったのだ。室生犀星の言うとおりに「故郷は遠くにありて思うもの」で、盆と正月の帰省に「とらや」の羊羹なんかを手みやげにして帰り、東京の話をすることがささやかな夢だったのだ。それがただの見せびらかしであったとしても、自己満足であったとしても。東京に暮らしてもフットボールは故郷を応援するという、二律背反のような思いを持っているとしても。
それから幾星霜、今も僕はいったん捨てたはずの札幌で冬を越している。どうして僕はここにいるのだろう――そんな思いを抱きながら。今夜みたいな真冬の夜には、特にそう思う。僕は今でも、東京への思いを捨てきれずに、いつか必ず住んで、あそこで生きてやるとずっと思い続けている。その思いは、フットボールとは全く別のところにある、僕自身がどこまでも拘泥していることだ。

僕だけにとどまらず、東京について語るべき思いを持つひとはたくさんいる。それが憧れであれ、はたまたどうしようもないほどの嫌悪であれ。その街並、社会性、様々な文化の発信拠点、「東京」という街の名前を聞くとどうしてか思いを巡らせずにはいられないのは僕だけではない。ラジオでいろんな人がいろんな東京を語る声に耳を傾けつつ、なんでこんなに東京は「語りたい街」なのだろうかと思いめぐらせつつ、なんだか思っていたよりも違う愚痴っぽい方向にいってしまったこの文章に苦笑いしつつ。


post by ishimori

22:58

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リアル/バーチャル

2006年02月13日

常々ネットをやってて年に一度くらいどっかで大論争になってるのが

「ネットはリアルかバーチャルか」

というネタ。

このところネットの片隅で再燃している「リアルとバーチャル論」だけど、そのネタ元は「ウェブ進化論 ほんとうの大進化はこれから始まる」の発売に刺激を受けた(自分もその一人)からなんだろうと思うけど。

ネットにおけるコミュニケーションは不毛だとか、現場で顔をあわせるコミュニケーションこそが至上でネットにおける意味などないとか、そういうことが延々と語られたり反論されたり罵倒されたりしてきた。そうしてネットの立場は毎回「リアル」の前に沈没させられてきたけど、このごろちょっと風向きが変わってきたのかな、ということを感じている。Blogの普及がそのひとつ。誰も彼もがネットでの言論空間(という言葉がカッコよすぎるのなら、「人に見られるチラシの裏」とでも言おうか)を持つ事によって認知され、大衆化されてきた。つまりは、「バーチャル」という言葉の持つ旧時代的なイメージがやっと変化して「大衆メディア」としてのカオになってきたのだろうか、と思う。これはこれで、善悪ふくめて、言葉と時代に沿ったいいカンジのものになってきたんじゃない?

つまり、前時代的な「リアル」「バーチャル」の持つ一面的なイメージは駆逐されつつある。

一言で「バーチャル」と言ってしまうと有史以来人間が生み出したコミュニケーションツールやメディアぜんぶがバーチャルになってしまうのであって、それは昔で言うところの電報だったり電話だったりテレビだったりするのだ。これらが新たな「リアル」の時代を作り出した。そうして、今まで僕らがやってきたコミュニケーションや、見聞きしたもののなかに、「お前はリアルじゃない」と前時代的「リアル」どもに蔑み罵られてきた「バーチャル」がこの時代の層に加わった。テレビやラジオに代わる、新たなメディアというチカラ(←こうやって朝日新聞風にカタカナで「チカラ」って書くとこっ恥ずかしいというのを今身をもって経験した(笑))がバーチャルとリアルの境目にいる状況が現代だ。確かにネットはまだ完全ではないが、ネットの進化はある程度予測できても(Web2.0とかね)完全性などどこにも見えないものであり、見えてくるものでもない。けれども確かにネットでこうやってブロガーたちが発信するものは紛れもない「リアル」である。

それに対する「現場主義」という考え方も否定しないではない。だって自分も現場(リアル)の真っ只中にいたんだから、その良さと面白さだってわかってる。でも最近思うのは「現場の多様化」ということだ。リアルは一面だけじゃない。限りなく球体に近い多面形で、人それぞれの思いも行動もある。それを現場の限られた一場面だけでひとくくりにしてしまうのは、とても危うい感じがする。あまりにも前進主義でありすぎて、次を求めることしかしなさすぎて、その急進的な感じが怖い。オプティミズムが時代を動かすとは限らないんじゃないのか、と思う。今だからこそ、ちょっと足を止めて自分たちの立ち位置を考えてみるのも悪くないんじゃないか。

ところで昔流行った「バーチャルリアリティ」という言葉がある。極論すればバーチャルを用いてリアルをそのなかに取り込む、という意味だ(本当に極論だな)。ただ、この言葉が語られた(あるいは一人歩きした)イメージはカクカクしたポリゴンでどう見てもかわいくなんかない「美少女」が画面の中を動いてプレイヤーに告白する、みたいなイメージが先行して植えつけられてしまって、結局この言葉は「オタクっぽい」の一言でゴミ箱に投げ捨てられた。でもこの言葉をもう一度拾いなおしてみてみると、今の時代になぜかしっくりくる部分だってある。時代が「バーチャルリアリティ」という言葉が概念的に目指していた方向へと向かっている、気がする。

ネットはリアルの一部に食い込んでいるし、もうネットがリアルかどうかなんて議論こそ不毛そのものに他ならない。コミュニケーションの一手段として、メディアのひとつとしてもうちょっと考えてみてもいいんじゃないだろうか。「お前が逝け」「いやお前が逝けよ」と掲示板で罵りあったり、現場では「逃げんじゃねえ」とすごんだ奴のブログのエントリに説明を求める他のブロガーのコメントやTBを「うざい」とか「名前出せ」だので振り払った挙句に炎上するなんてのは「リアルの忌避」に他ならないし、世界が広がっていることを知らないという事こそが新しいインターフェースに対応できないが故の「逃げ」であり「罪」なんじゃないかと思う。

だからこそ今、世界という無限大の多面体の一側面を、ネットはもう果たしていることに、その一面に、目を向けるべき時代なんじゃないだろうか。



これを書いていて思った言葉。

「ネット足軽」

ブロガーと呼ばれるひとはこんな風に例えられる気もしないではない。

で、ブロガーにコメントやTBを貼って食いついてるのは

「ブログ乞食」

まあ、俺は自分の事を

「IT土方」

だと思っているのだけど。

でも足軽も土方も河原者もいないと、世の中変わる事なんてないんだぜ、
と強がってみる。

(おまけ)
今回の参考文献(参考ブログ)。
「世間2.0」
「404 Blog Not Found」
「好奇心と怠惰の間」
「H-Yamaguchi.net」



post by ishimori

21:47

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リセットボタン

2005年12月31日

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年の瀬も押し迫ってきた。
今年はいろいろあって実家には帰らずにひとりで過ごす。毎年実家に帰り、親戚と年越し蕎麦を啜り新年を迎えていただけに少しだけ違和感がある。でも静かな新年というのも悪くない。

新年が近くなると、「良いお年を」とか、「新たな気持ちで」とか、「リセットして新年に」なんて言葉を良く聞くけど、あんまり僕は好きじゃない。年が変わりこそすれ1月1日だって昨日の続きだし、毎日の中の一部分であることに違いはない。「良いお年を」なんて言われると「じゃあ今年は良い年じゃなかったのかよ」なんて邪推してしまう。悪い癖ですねこれ。
札幌に関して言えば、少なくとも「良い年」ではなかったと思う。悪いことのほうが多かった、のかもしれない。でもそういったアクシデントを乗り越えたことは、間違いなく「良いこと」だ。だから「新たな気持ち」になっちゃいけないし、「リセットして」はいけないのだ。このチームを支える僕らは、この一年を刻み込んで次のシーズンに繋げなければならないし、次の世代に伝えていく役目を担っている。そして繋げた向こうにはJ1があり、アジアがあり、世界がある。そのために毎日を送る。フットボールだけでなく、自分の感じた何かを、考えた何かを伝え合うために、毎日を送る。幾つの歳月が移り過ぎても、そのために日々を送るものなんだと思う。少なくとも僕は、そう信じている。
生きるとは自分の何かをこの世に伝え続けることだと、信じている。有形無形、アナログデジタル、そんなのは関係なく、僕らは何かを伝えるためにここにいる。そのひとつが札幌という記憶だということだ。

来年は僕らが育んできた、大事にしてきたものをJ1昇格に結実させる年になる。リセットなんて使わない。これまでのすべてを選手に力として送り、共に戦い喜ぶための一年だ。だから今年の最後に「来年はいい年でありますように」なんて他力本願なことは言わない。

来年は、いい年にしてみせる。



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21:41

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後悔

2005年12月21日

選手に渡したかった、札幌を去ってしまう選手達に渡したかった、と後悔していることがある。
黄色をしたシリコンゴムのブレスレットだ。
このラバーブレスというのは「ほっとけない世界のまずしさキャンペーン」で多くの人が知ることになったものだが、渡したかったラバーブレス(「イエローブレス」とよく言われる)はそれよりも前に始まっていた。
活動を始めたのは自転車競技界の英雄、ランス・アームストロングである。

ランスは将来の自転車競技を背負って立つと期待の大きかった25歳の当時、主治医からガンを宣告されてしまう。しかも初期治療が遅れていたがために彼のガン細胞はランスの腹部や肺、脳にまで進行してしまっていたのだ。
しかし彼の強力な意思と周囲のサポートによりガンを克服し、1999年にツール・ド・フランスを制覇する。それから前人未踏の7連覇を成し遂げ、2005年に自転車界を去った。そして、今度はランスと同じようにガンに冒されている、ガンと共に生きるためにガン撲滅のための運動に身を投じたのだ。(ここまで要約した「ガンを克服した」話は、自身の著書である「ただ、マイヨ・ジョーヌのためでなく」に詳しい)

そのガン患者支援のために彼は財団を立ち上げ、前述の「イエローブレス」の売り上げをガン撲滅のための活動資金としている。そしてそのブレスには、こう文字が刻まれている。

「LIVE STRONG 」

このブレスは自転車レースやガンと戦う人たちだけでなく、彼の活動に共感する市民や他のスポーツ選手にも広まっている。それは、このブレスにこめられた思いはガンに対してだけのものでない。人々がそれぞれの人生を、困難を乗り越え、強く生きるメッセージがこの小さなブレスの中にこめられていることを感じて、共感しているからだ。
「強く生きろ」ーーみんながどこで苦しんでいても、ともに強く生きようとする思いはこのブレスを通じて共有される。そして、何よりも強い絆となる。
僕は最後の何試合かを、このブレスを身につけてゴール裏で応援した。強く生きよう、強さを手にして、勝利を掴もうーーそんな思いを持って。

フットボールの場所だけではない。どこかに出るときには、いつもこのブレスを左腕に着けている。このブレスはもはや僕にとって、お守り以上の価値がある。勝手な思いだと笑われるかもしれないが、僕は選手達にこのブレスを渡したかった。強い気持ちで戦う絆として、これを渡したかった。

「LIVE STRONG」

この気持ちで、フットボールの世界で、日常社会で、僕は生きていこうと思う。

※リストバンドの通販先はこちら。(英語サイト)
また、リストバンドの発送は10個単位で行われるのでご注意を。



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02:37

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