2007年04月30日

私的な戯言――雪道の歩き方

バスからゆっくりと降りた老婆が杖を突いて歩き出す。
その杖の先は金属で尖っていた。すこしでも冬道に滑らず歩けるよう、杖の先に錐状の金具を取り付けている。
こういった金具をここ何年かでよく目にするようになった。錐のようでなくても、スパイクのようなものを取り付けて歩いている人もいる。みんな、雪道に足をとられないようにしているのだ。そういえば僕の子供の頃も、滑り止めのついた靴を履いていた。靴底に折りたたみ式のスパイクがついていて、4つついてたら「4WD」なんて名前をつけて売られていた。当時の子供たちにとってはそんな冬靴が憧れだった。雪道でどんなに遊んでも滑らないことが誇らしかった。

あの頃より確実に雪は少なくなり、ある程度除雪のできている街に住んではいるが、湯道で滑ることは何十年たっても相変わらずだ。でこぼこに氷の張った歩道の上をおそるおそる進んでゆく。ずるっと滑りそうになるところで踏ん張って体を支え、次の一歩を踏み出す。こうして歩き続けていて、やっと冬道の歩き方にコツのようなものを見つけることができたのは最近のことだ。

まず一歩を踏み出すとき、どこに足をおいたらいいのかを考える。なるべく地面の露出しているところに一歩目を出すように気をつける。そして二歩目、三歩目となるべく踏みしめやすいような場所を選んで歩く。真っ平らに凍った道より、少しでもでこぼこができているほうがかえって歩きやすいのだ。誰かの歩いた後がそのまま凍っていたり、逆に一部分だけ盛り上がっていたり。氷ばかりが平面的に広がっているところではなくて、雪が上に乗っているところのほうが踏みしめやすい、とか。下を見てそういうところがないかどうか確認しながら、ひょいひょい……とまではいかないけど、歩いていく。そうして結構な回数の冬を過ごしてきて、やっと冬道の歩き方がわかってきた。
そういえば冬道を歩くのが下手だった時代は生きるのも下手だったんじゃないか、とも思う。東京で就職したけれども2年ぎりぎり保たずに辞めてしまって、実家に逃げるようにして帰ってきた数年前の3月、千歳空港に降り立ったときの冬の寒さと、堅く凍てついた道が歩きにくくてとても困ったことを覚えている。そして春までほとんど僕は外には出なかったし、雪かきをするのも嫌だった。雪と冬、というもの自体が嫌いだったと言っても良かったのかもしれない。雪の降らない東京から、いまだ雪深い札幌へ。なんだか自分自身が東京という土地に負けて北へ敗走してしまったような気がして、冬将軍に耐えきれず敗走したドイツ軍のような気がして、つまりは世間の負け犬になってしまったような気がして、滅入ったままただただ春を待っていたことを思い出す。
だからそのときは雪が解け、氷がゆるみ、道が乾く季節を何もできないまま待っていた。自分の足で歩くこと、雪や雨風に逆らって歩くことに自信も持てなかった。生きることを諦めてしまいそうになるほど部屋に閉じこもって、鮮やかな緑に彩られた道を誰かが用意してくれることだけをやみくもに信じているだけだった。だけど、そんな道などなかった。僕の前には途方もない荒野だけがあり、緑のあふれる場所にするためには僕自身の努力以外方法がないということにがっくりと気を落としていた。このまま雪に埋もれてしまいとさえ思っていた。
 
あれから何年かが過ぎて、僕はようやく冬道を平気に歩けるようになった。平気を通り越して、冬道を歩くことが好きになってきた。ただ平坦な道を歩き続けるだけではなく、でこぼこでつるつるな道の中でどこがいちばん歩きやすいかを探しながら一歩一歩を踏みしめていくことに楽しみを見いだすようにもなった。
それは僕の中で大きな変化だったんだろう、と思う。昔は冬道を歩き続けることなど苦行以外の何物でもないと思っていた自分自身の心が、それこそ春が来て雪解けが訪れるようにゆるんでいった。不器用な歩き方でも、それが楽しいのだと、それが僕の歩く道のりのひとつなのだという自覚も持つようになった。生き方は相変わらず不器用だけど、その「不器用である」ということそのものをやっと自分自身の中で受け入れて、それを楽しみに変化させて生活ができるようになった。平坦な道はつまらない。でこぼこしていて、滑りやすい、真っ暗な寒い夜の道のほうが、むしろ楽しい。そしてそういう道をたくさん歩けば歩くほど、緑あふれる遊歩道にもたどり着くことができる。歩かなければ先はないし、その先には新しい道があって、新しい道も、そのために今歩く道も、楽しいものなんだと考えられるようになった。未来は僕の手の中にあるのではなく、次の一歩にこそある。
生きていくことでも、実際に足を動かすこともどっちも同じ。
どんな道でも歩く(か走る)以外に方法なんてないし、抜け道や回り道をして楽に先へ行ってやろうということしか考えていない人間は、力が足りずに結局は道を走りきることができずに途中で脱落するものだ。地味にこつこつと歩いたり走ったりして、その足を止めないこと。どんなぬかるみでも、濁流でも、雪道であっても、前へ進むということを止めないこと。むしろそれを楽しむような気持ちになれたなら、まわりの誰かにどんな汚い言葉をかけられても、小突かれたりされようとも、歩き続けることができる。どれだけ歩くのが遅くても、水たまりを楽しそうによけて歩く子供のような心を持っていけばたどり着くところはきっとある。そう思えるからこそ、これからもこの冬道を楽しさをもって歩くことができるのだ……そう思って、僕は今日も靴を履いて玄関を出てゆく。

もう、桜の咲く季節である。札幌の街は、緑と花が一気に輝く季節である。
僕の歩く道にタンポポの一輪でも咲いていれば、それだけで十分、次の一歩を踏み出せる気持ちになるのだ。さあ、僕はもう一つのスタートを切るときだ。

posted by ishimori |23:47 | miscellany | コメント(0) | トラックバック(1)

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