2007年02月22日

僕らは失う機会すら与えられなかった-(その2)

昨日の話の続き。なんだか朝日批判チックになってきていて本筋とは逸れてしまいそうな勢いですが。
昨日の話では自分もそのど真ん中に所属しているとされる「失われた世代」のことを朝日新聞が特集して点で、「誰が」「どのように」「何を」失ったのかという焦点がぼやけたまま、間違った方向で印象を与えてしまっているということを書いた。

で、この特集にはもうひとつ欠けている点がある。それは「格差社会」という観点だ。
格差があるのはどの国も街も一緒だ。だけどその格差があまりにも広がりすぎていて、富がごくわずかの層に大きく集中しすぎているのが今の日本。だってそうでしょう?企業は大きくその利益を伸ばしているけど、一般社員ですらその恩恵にはあずかれない。企業側が「バブルとその崩壊の時代」の経験をトラウマにしているせいなのか分からないけど、富の再分配は行われていない。そういう全社会的な「格差」を含んで考えなければ、「失われた世代」へのアプローチはうまくいかないのではないか。

そんな風に考えているときに、2月18日の社説にこういう記事が載っていた。

'「格差是正 失われた世代に支援を」 
(前略)
 格差そのものは、どの時代にもある。努力を怠った結果であるなら、自己責任を問われても仕方がない。そのうえで生活保護など最後の安全網を整えるのが政府の仕事となる。
 では、政治が最優先で取り組むべき格差問題は何か。正社員と非正規の働き手との間に横たわる賃金や契約期間など処遇での差別こそが焦点だ。正社員なら若い時期から会社の負担で能力を高められる。得意技や専門知識が身につけば、転職しての再チャレンジも難しくない。一方の非正規雇用は最初から不利な立場に置かれる。 
 私たちの社会には、こうしたハンディを理不尽な形で負わされた仲間がいる。就職氷河期といわれた90年代に就職活動をした25歳から35歳ぐらいの層だ。「ロストジェネレーション(失われた世代)」ともいわれる。 
 バブル崩壊による不況のなか、企業はリストラを急いだ。過剰な設備や借り入れだけでなく、社員の採用も削り込んだ。本来なら若手社員に任す仕事を派遣や業務請負などが埋めた。身軽になり、競争力を取り戻した企業は、いま高収益を享受している。だが、就職にあぶれた人々は取り残された。 
 経済協力開発機構(OECD)の対日審査報告書は「格差拡大の主な要因は労働市場における二極化の拡大にある」とし、その固定化に強い懸念を表明した。問題は本人だけにとどまらない。消費の落ち込みや、社会保障の担い手の不足、中堅や熟練労働者の減少など、社会に様々なひずみを生む。 
 神戸の大手アパレル、ワールドはパート約6千人のうち5千人ほどを正社員に登用した。年22億円のコスト増だが、「一生の仕事として取り組む人材を確保する」という将来をにらんだ戦略だ。 
 こうした企業を増やし、低賃金の非正規雇用にあぐらをかく経営者に転換を迫ることで、失われた世代を支える仕組みを社会全体で考えたい。(後略)'

果たして、この社会は個人が生み出してしまったものなのだろうか?「バブル以後の不況に耐えきれなかった世代」が生んでしまった鬼子なのだろうか?この文章を読む限り、すべてとは言わないけれど責任の多くは個人にある、とでも言いたげだ。そして「私たちの社会には、こうしたハンディを理不尽な形で負わされた仲間がいる」と呼びかける文章へと繋いでいる。

 仲間?

俺たちはいつから朝日新聞の仲間になったんだ?誰があんたたちの仲間にして欲しいと頼んだ?そもそもフリーター世代にとって「仲間」っていう言葉は、自分たちにとっては嫌いな方に入っている言葉だだろう。新聞で呼びかけられる薄っぺらい「仲間」という名前の御都合主義な連帯よりも、あんたらが薄っぺらだと決めつけている自分探しで見つけた「仲間」の方がよっぽど大事だ。それを自分から大声で叫ばなければ、本当の意味での「格差是正」にはならない。
自分は「失われた世代」の一員として、何を失ってきたか、そしてこれから何を手に入れられるのかを考えたい。未来は無限ではない。無限とはほど遠い、数えるくらいの「有限」の中から考え抜いて選んで、それをメシの種にして乗り切っていくしかない。それが今の時代の現実。そうやって思っていくと、自分が失ったのは「未来」という名の希望であり、選択肢であり、場所である。所得階層を自分の力で勝ち取る自由すらも失ったと言っても過言ではないと思っている。そして失ったのは、自らの過失ではない。もっと言うなら、自分は「失う」ということの社会的体験、失うことの悲しみや挫折感や悔しさすらも感じることさえ奪われてしまったのではないか。学生時代には失ったものはある。それは人間関係であり、志望校への入学だったり。だけど社会に出て仕事に就くようになったとき、すでに失うべきであったものは失われ尽くされていた。これ以上失うことを会社は許さず、わずかに採用された新人には荷が重い仕事だったような気がする。たぶんそんな一時期を乗り切る力があったとしたら、今頃はかなり会社人間(いい意味で)として成長できていたんじゃないかと思うこともあるけど、それはもうどうしようもない話。気がついたときには「失うこと」すらすでに失っていた「失われた世代」は、このままよくてワーキングプア、ともすればホームレス寸前のワンコールワーカーみたいになってしまうのだろうか。これ以上失うものがない自分から、社会は何を奪おうとするんだろう?

どこにも答えを見いだせなくて暗闇を這いずり回る感覚の下に、この項、了。

※参考資料
朝日新聞2/18付社説「格差是正 失われた世代に支援を」
官邸による「成長力底上げ戦略」(PDF)
官邸による「成長力底上げ戦略」の主な論点(PDF)

posted by ishimori |23:56 | miscellany | コメント(0) | トラックバック(1)

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