カレンダー
プロフィール
コンサドーレの試合をはじめて見たのは、招待券で見た1996年伝説の厚別初戦。ペレイラのフリーキックと、オテーロのVゴールを目撃しました。娯楽の少ない北海道で、それは衝撃的な体験でした。そして実際に自分がファンからサポーターになったのは98年に、オフィシャルサポータークラブに入ってから。以来、今日までホーム全試合観戦を目標に、シーズン券を買って、応援を続け、たとえJ2の最下位になろうとも、年間に5回しか勝てなくとも、(実際になりましたが)、チームがある限り、サポであり続けることを誓って、今日まで生きてきました。
最新のエントリー
月別アーカイブ
コメント
検索
2007年07月13日
今にも雨の降りそうな 重苦しい天気でした。
オオカミに追われたシカがとる行動は2つ。コースを変えるか、もっと速く走るか。 研究され、勝てなくなるとともに、2位以下に詰められた札幌が、とった行動は、コースを変えるのではなく、もっと速く走ることでした。厚別での福岡戦。2-1の勝利は、これまで続けてきたサッカーを変えることなく、入念に繰り返した結果でした。 1点目のゴールは、札幌の武器として磨いてきたセットプレイからの曽田(西嶋のゴールのようにも見えるんですけど)のヘッド(と押し込み)でしたし、2点目も、2ラインディフェンスがボールを絡め取り、すばやく前線のダヴィに送って得られたもの。札幌の生命線である高いラインとコンパクトなゾーンが保たれ、最後まで選手はさぼらず走り回りました。 一方、失点も、これまでと同じ相手の2列目からの飛び出しによるもの。1点目を奪った後に、無理をしないサッカーに切り替えたことが、相手に主導権を渡すことにつながり、徐々にラインが下げられ、福岡の誇るスピードスター田中佑昌が飛び出しに決められました。前半32分ことでしたが、この10分ほど前にもまったく同じかたちで、わずかにボールがそれたシーンがあったことを思うと、同じことを同じ選手に2度もやられたわけで、決して誉められたことではありません。 同じ選手に何度も、といえば、この試合、ダヴィが3回もキーパーとの一対一を演じました。3回目がようやくPKになったものの(リティはシュミレーションだと言って怒っていました)。まぁ、あんなにGKとの一対一を外す選手にPKは任せられませんね。ダヴィがPKも蹴らせてもらえれば、得点ランキングももう少し上でしょうに。それでも1対1を何度も作り出すことができるのは、FWとしての実力ということもできます。 しかし、この試合に限っては「福岡の方にひとつ、ふたつ問題点があるようなディフェンスの形で」という監督の言葉に、真実があるように思います。「福岡とやるときにはダヴィが相手にとっては嫌な選手だという感じはしました」とも言っています。おそらく、三浦監督は福岡の試合を研究して、ダヴィを中心とする何らかの策を授けたのでしょう。それが見事にはまったと。研究するのは相手だけではない、ということですね。 もっとも、これについて監督は「非常にいい質問ですが、あと1回対戦が残っているのでちょっとお話できません」と口を閉ざしています。 いずれにしろ、第2クールの終盤にあったモヤモヤ感を見事に払いのけたこの勝利の最大の立役者は、サポーターだったのかも知れません。選手入場とともにゴール裏はもとより、SB、SA、SSのすべても観客が立って「厚別の歌」を合唱。これがちょうど良い発声練習になったのか、試合が始まってからも、歌に合わせる者がいつも以上に多く、入場者数6000人とは思えない、厚別ならではのホームの雰囲気を作ることに成功しました。天気は寒くても サポーターは熱かった
2007年07月11日
行け 行け 赤と黒の 俺たちの札幌 そう、ここは我らの厚別! 見せろ おまえの情熱 スタジアム全員で合唱しました。 そして、その思いが届きました。 情熱を見せてもらいました。 まずは、札幌厚別からの第一報です。
2007年07月08日
24節のザスパ草津戦と26節の山形戦とでは、審判に際だった違いがありました。 草津戦の審判は、審判の技術向上のために招かれたデンマーク出身の国際審判員ニコライ・フォルクアーツさん。むやみに試合を止めない、流れるような(決して“流すような”ではありません)レフリングで、サッカーのスピード感、スペクタクルが十分に堪能できる試合となりました。 試合後、札幌の三浦監督も次のようにコメントしたそうです。 「最後に、今日のレフェリングに関しては、これまでよりも大きな違いを感じた。選手が苛立つことなくゲームを進めることができていた。そういう部分の違いを、ゲームを見ながら感じた」http://www.jsgoal.jp/news/00050000/00050643.html この試合の次に見た26節、厚別公園での対山形戦のレフリングが、いつものジャパンスタンダードだったので、なおさらフォルクアーツさんのレフリングが光りました。 草津戦のフォルクアーツさんと26節の日本人審判を比べて思うことは、フォルクアーツさんがサッカーゲームというイベントの「PCO(Professional Congress Organizer)」であるのに対して、日本の審判はサッカー試合の「役人」だということ。 フォルクアーツさんは選手にとってはもちろん、観客にとっても「良い試合」になるように試合をコントロールしようとしたのに対して、26節の日本人審判は試合から超然とし、客観中立を強調したいがために、ホームの雰囲気に流されないぞ、とあえてホームチームに厳しい笛を吹いているようでした。このような「逆ホームタウンデシジョン」は、この日ばかりではなく、Jリーグ全体に多いように思います。 Jができてわずか15年です。なるのに長い月日かかるA級審判のかなりは、サッカーファンの一人としてチケットを買い求め、一人の観衆としてゲームを楽しんだ経験が乏しいじゃないでしょうか。 また、日本のサッカーは学校体育から来ているので、先生が審判を務める機会が非常に多かった。そのために自然とグランドの中に、教師と生徒の関係が持ち込まれているようにも思います。 こうしたことから、試合を観戦する観客を含めて試合をトータルにオーガナイズする意識が日本の審判の中には乏しい、と改めて思いました。
2007年07月08日
札幌のシステマチックなゲーム運びを、各チームが研究してきて対策が確立しつつあるように思います。草津は、2列目から、キーパーとディフェンスの間にボールを放り込み、そこにFWが走り込むという作戦でのぞんできました。 第2クール最終節となる山形戦。相手の4-4-2破りに対応して、札幌は志賀と大塚をボランチにし、カウェをサイドに出して、相手の2列目からの球出しを厳しくチェックして、ゾーンとゾーン間に良いボールを供給できないようにする布陣を取りました。 立ち上がり、札幌としてはコンパクトに出来ていまし、悪い入り方じゃなかったと思います。失点までは比較的、新布陣は機能していたと思います。一方、芳賀・大塚の2ボランチでは、やはり攻めの迫力を欠き、2トップにロングで当てる以外に有効な攻め手がありません。そのため膠着した展開が続きました。 一方、山形は、ゾーンディフェンスの弱点といわれる、ゾーンとゾーン間を徹底的についてきました。前半の失点は、志賀のミスもありますが、志賀から奪われたボールが、簡単にキーパーとの1対1になってしまったのは、ゾーンデフェンスの弱点もあったと思います。 札幌も前半終了間際に同点に追いつきます。ダヴィへのロングフィードを、ダヴィが肩で絶妙なトラップを見せて(偶然?)、ディフェンダーを置き去りにして決めたもの。ロングボールをツートップにあたるという執拗に続けてきた攻撃がようやく実りました。 後半、精彩の欠いた芳賀に代わって砂川を入れ、カウェをボランチに戻して攻撃への比重を高めますが、追加点が奪えない。バランスを欠くレフリングにはばまれ感もありました。そうこうするうちに次第にラインが間延びして、セカンドボールが奪え無くなってきました。 後半に中山を下げて岡本賢明がリーグ戦デビューを飾り、砂川に変わって右サイドに入り、砂川がフォワードに入りました。岡本は投入された早々、ドカーンと抜かれて、トップの洗礼を受けました。 いつもならば、時間とともに札幌が回転を上げ、相手が先に止まるというところでしたが、この試合では先に札幌の足が止まりはじめ、ラインが間延びして、セカンドボールが相手に奪われることが多くなっていきました。 結果は引き分けで順当なところでと思います。もし延長があれば、Vゴール負けしていたのは札幌じゃなかったかと思いますね。 札幌はそんなに変わっていないんですが、相手の研究が進み、その結果、これまで1-0で勝ち点3だったものが、1-1で勝ち点1になってきた。これここ数試合の傾向です。 1-0で勝ち点を拾っていたときは、攻められ続けても、ゲーム全体の主導権は札幌にあったと思います。しかし、相手の札幌への研究が進むようになってからは、主導権を渡す時間が増えてきた。監督は、試合後のコメントで、変える必要がない、と言っていますけど、あの人のコメントは相手に対する作戦の一つなので、別なことを考えていそうな気もします。
2007年07月07日
これどこだと思いますか? 道東のどこかの高原みたいに見えるでしょ。 実は、厚別公園なんですよ。 今の季節の北海道は(住んでいながら思いますけど)本当に気持ちいいですね。 都会の、住宅街の真ん中の厚別公園でも、こんなに気持ちいいんです。 今日の試合の前日、席取り行ったときの一枚です。 後ほど観戦記などを
2007年07月05日
新聞によれば、大宮のFWの吉原宏太が、札幌の練習に顔を見せたそうです。 http://hokkaido.nikkansports.com/soccer/jleague/consadole/p-hc-tp0-20070705-222437.html 後半に向けて、補強がささやかれる中で、突然の来札は波紋を呼びました。 ネットでは、2部落ちした札幌を見捨てて出て行った人、というネガティブな声も聞かれますが、僕は宏太はやっぱり心の中で札幌のことを思ってくれていたんだ、と嬉しくなりました。 吉原宏太は、1996年のコンサドーレ札幌誕生とともに入団した高卒ルーキー。なんでも初芝橋本高校のエースとして、高校選手権でチームをベスト4に導き、本人も得点王になったもののの、Jクラブからはどこからも声がかからず、プロ絵の道をあきらめかけていたところに、コンサドーレから声がかかったといいます。 当時はあんあり意識していませんでしたが、高卒ですぐにスタメンのFWって、なかなかないことですよね。この年はレギュラーとして27試合に出場し、7得点をあげています。当時のJFLのレベルは今のJ2よりは低かったとは言え、高卒ルーキーとしては結構な成績です。そして98年には、札幌の選手としては、はじめてフル代表に選ばれました。 甘いマスクもあって、コンサドーレ札幌という北海道の歴史上はじめて誕生したプロチームのシンボルとして、全道的なアイドルとなりました。それだけに、札幌がj2に落ちて2年目にチームを去ると、こうした移籍が初めてで、誰もが慣れていないために、かわいさ余って憎さ百倍で、ずいぶんと非難を受けたものです。 でも、降格したクラブの生え抜きエースは、1シーズンは、移籍せずに下部リーグの生活に耐えるという、その後の暗黙のルールを作ったように思います(ちなみにそのルールをはじめて破ったのが、札幌の山瀬!)。近年、このルールが破られ、降格と同時に移籍する選手が増えるのを見ると、札幌を見捨てて出て行ったんだというよりも、1年は残ってくれたんだ、と思いたい。 札幌を出てから何年も経ちますけど、成績を見てもやはり札幌時代が最も輝いていた時代。プロにすくい上げてもらって、1年目からレギュラーにさせてもらい、代表まで上げさせてもらったのが札幌なんだから、当然、強い思いをもっていると思いますよ。 そろそろ、温かく迎えてやってもいいんじゃないかな、と思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー このことは強く訴えたくって、二重投稿になってしましましたが、 「コンサドーレ札幌インフォメーション」にも投稿しています。 http://www.phoenix-c.or.jp/%7Ehiro/bin/yybbs/yybbs.cgi
2007年07月02日
1993年のJリーグ開幕は、「突然、天から降ってきた」というコトバがぴったりでした。 資料には、開幕の前年、92年9月から11月にかけて行われたナビスコカップ(ナビスコはJリーグよりも古い!)が大盛況で、これがJリーグの成功につながった、とあります。 実際9月6日の開幕戦では、ヴェルディですら1万3000人の観客だったものが、11月26日の過川崎対清水の決勝では、国立競技場に5万6000人の観客を集めています。 けれど、そのわずか3ヶ月前に閉幕したバルセロナ五輪でのサッカーの扱いは、前回、書いたとおりです。東京から遠く離れた北海道では、サッカーが盛り上がっているという実感はほとんどありませんでした。 当時の私は今の2CH用語でいう「海外厨」だったんだと思います。当時、実際に私が情熱を傾けていたのが洋楽で、それなりの数のレコードやCDを持っていましたが、その中に日本のアーティストのものが1枚もないのが密やかな自慢だったほどです。 マラドーナにきっかけに、サッカーを意識するようになったといっても、日本の国内リーグなんかまったく眼中になかったのです。カンプ・ノウのことは知っていても、読売と日産が、チャンピンを目指して激しく争っていたなんてまっく知りませんでした。そんなもんだといえば、そんなもんだったんです。 それでも1993年を迎えると、日に日に世の中がJリーグにむかって高まりを見せ、日本中の多くの人と一緒に、気が付けば私も5月15日の「ベルディ川崎対横浜マリノス」の試合中継にチャンネルを合わせていました。 その日から数年、まさにダムが決壊したような勢いで、日本中にサッカーがあふれたのです。 ps これを書くために、本棚にあった「Jリーグ・オフィシャルガイド1993年、サントリーシリーズ」という本を見ていて、とても面白かった。 選手名鑑もついているんですけど、ヴェルディ川崎のサテライトに、富樫剛一、関浩二、石塚啓次、村田達也という人たちと並んで、西澤淳二という名前を見つけました。19歳の西澤
2007年07月01日
サテライト戦を見に、白い恋人サッカー場に行きました。 鹿島アントラーズ相手に 4対1 の圧勝。 石井のハットトリックと良いことずくめですが、 メンバー表を見ると、鹿島はサテライトというよりも、 アンダー20にオーバーエイジが数人(柳沢もいました)という構成でしたので、 レギュラーに近いメンバーで固めた札幌は勝って当たり前かな。 それにしてもすばらしく良い天気でした。 お客さんもたくさん入っていましたね。
2007年07月01日
ワールドカップイタリア大会が終わると、私ははっきりとサッカーを意識するようになっていました。 そんな私でしたから、1992年のバルセロナ・オリンピックはすごく期待したんです。 スペインのバルセロナは言わずと知れたFCバルセロナの本拠地で、90年のバルセロナ・オリンピックの当時のFCバルセロナは、名将クライフのもとロマーリオ、ストイチコフが活躍し、リーグ4連覇、チャンピオンズリーグ初制覇を果たした黄金時代だったんです。 そしてオリンピックでも、FCバルセロナで主力を固めたスペイン代表は快進撃を続け、決勝まで勝ち進みました。 日本が出てないとはいえ、さすがに開催国が出場する決勝ぐらいは放映するだろうと私は期待して放映を待ちました。雑誌の写真でしか見ることのできなかったカンプ・ノウの全容が見れる。バルセロナのファンの熱狂が見れると、期待したんです。 ところがテレビはカンプ・ノウを無視しました。 バルセロナのオリピックで、FCバルセロナのメンバーを中心としたスペイン代表がカンプ・ノウで決勝を行うというのに中継しなかった。オリンピック史上初めての金メダルに輝き、10万人が空前の興奮に包まれたというカンプ・ノウの決勝を、日本のテレビはまったっく無視したんですからね(私が見逃していたならばご免なさい)。 その代わり日本のテレビは何を放映していたかというと、柔道、柔道、柔道、水泳、レスリング、陸上、そして柔道、柔道・・・。 たぶん、1ヶ月にわたってバルセロナからオリンピックが放映されようとも、ほとんどの日本人は、スペインは闘牛とフラメンコの国という偏ったイメージを変えることはなかっただろうし、バルセロナには、オリンピックスタジアムよりも大きく立派なスタジアムがあり、そこを拠点とするチームは世界的な人気を誇っていることなど、知るよしもなかったろうと思います。 放映のないことに愕然とし、また、マスコミはこうして日本国民の目からサッカーというスポーツを隠しているんだ、とつくづく思いました。 よく中山峠を超えてニセコ方面に行くんですが、厚い雲に覆われた曇天の日などには、羊蹄山の巨大な山容がすっぽりと雲で隠されるじゃないですか。あんなでかい山が見事に隠れるもんだと感心して見ているんですけど、サッカーもそんな感じで数十年も隠され続けてきた。 しかし世界にとってサッカーは巨大な存在です。日本のマスコミがいくら頑張ろうとも、いつまでも隠しきれるものではない。情報通信は発達し、世界は狭くなっていく。 バルセロナ・オリピックの翌年に始まったJリーグの突然の熱狂の理由は、こうしたことだと思います。
2007年06月28日
点数的には2対2の引き分け、結果だけ見ると双方勝ち点1づつのなんでもない試合でしたけど、札幌的には重要な意味合いを持った引き分け、というよりも2失点だったと思いますよ。 1点目はキーパーのポジショニングミスで、2点目も札幌のDFのミスと見てしまえば簡単なんですが、実はこの2点は連携しています。 今期の札幌は、ドン引きのカウンターサッカーと言われたり、イヤ、そうじゃないと言われたりしています。どっちなの、と言いたくもなりますが、サイドがまったく上がらないセンターバックを4枚も並べたドン引きのスタイルといわれればそうなんですが、実はフラット4のバックラインだけは非常に高い、という特徴があります。このために、ドン引きに見えて、ドン引きじゃない、サッカーなんですね。 逆に言えば、ゴールキーパーとバックラインの間に広大なスペースがある。草津の1点目は、これをついてきた。広大なバックラインを埋めようと、どうしてもキーパーは前に出てくる。そこをミドルからロビングで見事にねらった。後ずさりしながらも、手が届かずに決められてしまう。 実は、これが2点目の布石にもなるんですね。バックラインとキーパーの間にスペースがあるならば、そこにボールを入れて、FWを走り込ませればよい。しかし、簡単にボールを入れると、高い位置にいるキーパーに止められてしまう。だから草津としては、キーパーはできるだけ下げたい。 草津の1点目は得点を狙ったというよりも、キーパーを下げさせるためのボールが運良く(というか悪く)ゴールインしてしまったものだと思う。 実際、1点目の高い位置にいるキーパーをねらったミドルが決まったため、背後を気にして、高木は積極的に前に出られなくなった。そうなると、ディフェンスラインも上げられなくなってくる。単なるドン引きになる。こうして札幌の組織サッカーが混乱してくる。 後半に、勝ち越した札幌が追加点をねらって前掛かりになったところで、草津は再びキーパーの背後をねらったあわやのミドルを入れた。1点目を思い出した高木は、また前に行けなくなってしまう。そして、そのタイミングを狙って、札幌の背の高いデフェンスラインをフワッと飛び越すボールがキーパーとの間に入る。と同時に草津の選手が走り込んで2点目。 結果的には、2-2の引き分けですが、その実、ここには札幌の4-4-2崩しの高度な戦略があり、みごとにそれが機能した、という試合でした。単に中2日で疲れて足が止まったと言うこと以上のもののがあった。 第2クールも大詰め、折り返しにもなると、各チーム研究や対策も進んできます。 このままじゃやばいですね。これをどう乗り越えるか。 もっとも、三浦監督は三浦監督で考えているようです。それは・・・・素人の私でも分かることなので、プロの監督やスカウティングには、分かり切ったことなんでしょうけど、一応、言わないことにしておきます。
2007年06月27日
平日のナイターで、1万3000人。 長いトンネルを抜けて、お客さんが戻ってきました。 盛り上がっていた時代の熱気を思い出しました。 今日は、コアナサポ以外に、一見さんも多かったですね。 「サッカーって、スピードがあるね」なんて会話を耳にしました。 勝てなかったのは残念ですが、試合を止めないレフリングもよかったと思います。 また来てくれるんじゃないかな。試合の感想はまた後で
2007年06月26日
コンサドーレについてあれこれと考察してみるコーナーを作りました。第1回目は監督のコメントです。 コンサドーレ札幌の歴代の監督の中で、三浦監督のコメントは格段に味気ない。聞いていてまったく面白くない。他の監督のコメントと比べても、とても当事者とは思えない他人事のようなコメントです。 これは思うに、性格的にぶっきらぼうというのではなく、コメントから相手に何らかの手がかりや、ヒントを与えないようにしている。すなわち、三浦俊也という人の行動は、すべてが「結果」を出すために捧げられていて、監督コメントすらも、「結果」のために、プラスか、マイナスか、という計算づくで出している、そのことの現れなんだと思います。 例えば、審判にゲームを壊された21節のアウェイ愛媛戦で、この時の監督は 「今日は特にありません。質問もなしでお願いします」 ※その後、質疑応答などは行われず、三浦俊也監督は会見場を退席しました。 と珍しく感情的になったとあります。これは審判に対して激しい怒りを見せることで、連勝が途切れたショックから選手たちの心を少しでも離そうという計算の上のジェスチャーだったと思うんです。 逆に今節は、今シーズンを占う大一番で、監督の作戦どうりの、おそらく会心の試合だったと思うんですが、それはおくびにも出さずに、コメントは、 「ヴェルディの方は現実的なサッカーはやっているなと思いましたし、やはり付け入る隙はないという印象は持ちました」というもの。 「つけいる隙はありません」と言いながらも、絶対に「付けいる隙はセットプレイだ」と考えて、そのための作戦を練ってきたんだと思うな。しかし、そんなことは一言も言わない。 ところで、Jの監督の中で三浦監督ぐらい選手として実績のない人はいないんです。大学時代は駒澤大学のサッカー部でしたが、終生控え選手だったようで、大学卒業後は養護学校の教諭になっています。そんな人だから、監督として、プロサッカーの世界の中で生き続けるためには、「結果」を出し続けるより無い、というところがあると思うんです。(このことについては、これからいろいろと考察してみたいと思います) 逆に、選手として実績のあった人は、たとえばジーコのように、純然たる「結果」を超えてロマンみたいなモノを選手やチームに求めたりする。で、そういう人が監督になると、実にコメントに感情があふれていて、面白いんですよね。 たとえば、例えば第4節のラモス監督のコメントはこんなもの。 「遅れてすみません。これは僕が悪いんじゃなく、名波がうるさくて(笑)。勝ったから3日間休ませてくれって言ってきた。しょうがないからベテランは3日間休みにしました」(笑)。
2007年06月25日
今日は、鼻から大塚を入れた逃げ切り布陣でした。東京の攻撃力を三浦監督はよっぽど警戒したということでしょう。まずは負けない。引き分けでも良し。そんな入り方だと思います。 3ボランチとなった前半は、前が薄くチャンスらしいチャンス(芳賀の惜しいミドルはありましたが)もなく、我慢の展開が続きました。しかし、今年になって思うのは、相手をロースコアーに引きずり込むのが格段にうまい、ということ。攻められ、劣勢に立たされているように見えても、全体的には札幌が描いている絵の通りに事が運んでいったのでしょう。 その証拠に、後半開始と同時に畳みかけるように攻めて、フリーキックを奪取。これを曽田がヘッドで決めて1-0。あっという間に先取点を奪い取りました。ゴールにすら近づけなかった前半が嘘のようです。 後半開始早々の得点。ここで守りに入るとかえって反撃を招いて、逆転を食う恐れがあると、去年のチームならば追加点を狙いに行ったでしょう。しかし、今年のチームは、この1点を守れるんですね。「ゼロイチの接戦をモノにする」というのと「ゼロイチの接戦を創れる」というのは実は大きな違いがあるのかも知れませんね。 第1クールで仙台相手に同点を食らってから、修正を重ねてきた強敵相手のアウェイの戦い方は、ほとんど完成の域に達してきたと思います。先制してからの、同点、逆転を狙う相手の勢いを見事にいなして、ロースコアに持ち込む手腕は、スペインの闘牛を見ているようでした。実際には、相手の撃ち急ぎや幸運に助けられたというのが本当ですが。 首位を独走しているとは言え、他からいつかは崩れる、と言われ続けてきました。実際、一時期札幌の上にいた山形は大きく崩れて、今7位です。 そして私もそう思っていたし、そして崩れるとしたら、愛媛に負け、ホームで徳島に引き分けた後のアウェイ、ベルディ戦。つまり今節だと思っていました。ここでもし負ければ、今の山形のような転落も十分あったと思います。大塚先発というのは、そうした危険を見越した上での三浦采配でもあったんでしょう。 さらに付け加えれば、最後まで集中力が途切れずに完封で終えれたというのも、味スタをジャックしたサポーターの力は、大きかったんじゃないでしょうか。スカパー!を見ただけですけど、アウェイなのに、応援の人数で東京を圧倒していましたね。ホームであるはずの函館や室蘭だって、あそこまでの動員力はないですよ。 さて次の課題は、下位チームを相手した戦い方です。実はこれがまだできていないんです。
2007年06月23日
こうしてマラドーナと、そしてサッカーと出会った私ですが、それから熱心なサッカーファンになったわけではありません。当時の私の回りは野球ばっかりで、家が山深い坂地にあったことから、サッカーよりもスキーが私の興味の対象でした。 マラドーナと同世代のアルペンスキーヤーに、インゲマル・ステンマルクというスウェーデンの選手がいて、この人もまさに100年に一度の天才でした。圧倒的に早く、何よりも滑っている姿が美しかった。ステンマルクに憧れて、まだ珍しかったエランの板を探して買い求めたりもしました。 そんなことだから86年のメキシコ大会以降、マラドーナのことは正直、忘れていたんです。しかし、4年後のイタリヤワールドカップが近づくと、再び、ワールドカップを意識するようになりました。 本屋にはワードカップの別冊特別号が1冊あって、立ち読みしながら、それなりの知識を仕入れました。そしてこの時にマラドーナという選手がどこの、どういう選手なのかを知ったと思います。それでも、その本を、身銭を払って購入することはしていませんから、つまり、その程度の関心でした。 相変わらず深夜のカルト番組でしたが、イタリヤ大会で印象的だったのは、スタジアムの圧倒的な雰囲気。ハーフタイムの間には、ワールドカップトピックとして、各地の映像が流れたりしていましたが、サポーターの熱狂、特にイングランドのサポーターが、暴れて悪さをしないように孤島に閉じこめられている様子も強く残りました。 世界には、私たちにはまったく知らされてない巨大な何かがある、という実感を深めました。 それでも翌日になって、学校に行くと、ワールドカップのワの字もないんですよね。テレビを見ても、新聞や雑誌を見ても、ほとんど話題になっていない。 この時まで、新聞やテレビ、雑誌といったマスコミは世間を忠実に写す鏡だと純粋に信じていましたけれど、90年のイタリヤ大会を見てからは、マスコミが作る世界と実際の世界との間には大きな隔たりがあることを意識するようになりました。 さて、マラドーナですが、試合の度に厳しいマークにあい、倒され、両手を広げて悲痛な表情でアピールする姿だけが何度も映し出されました。 それでも、決勝トーナメントの1回戦、ブラジルとの試合。圧倒的に攻めるブラジルの攻撃をかわして、カウンター一発。カニーヒャに決定的なスルーパスを通したのはマラドーナでした。アナウンサーは、「やはり決定的な仕事をしますね」とコメントしました。
カレンダー
プロフィール
コンサドーレの試合をはじめて見たのは、招待券で見た1996年伝説の厚別初戦。ペレイラのフリーキックと、オテーロのVゴールを目撃しました。娯楽の少ない北海道で、それは衝撃的な体験でした。そして実際に自分がファンからサポーターになったのは98年に、オフィシャルサポータークラブに入ってから。以来、今日までホーム全試合観戦を目標に、シーズン券を買って、応援を続け、たとえJ2の最下位になろうとも、年間に5回しか勝てなくとも、(実際になりましたが)、チームがある限り、サポであり続けることを誓って、今日まで生きてきました。
最新のエントリー
月別アーカイブ
コメント
検索