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2005年12月16日

自明の与件

コンサドーレ札幌にさほど関心のない人が今季を振り返ったならば、目につくのはとにかく6位という結果であって「J1昇格は来年に持ち越しになった」「監督が目標にしていた5位以内も実現できなかった」「でも去年は最下位だったことを考えればよくやった」ぐらいのところが無難な総括だろう。ただ、これはあくまでもトップチームの成績の話であって、もっと大きなクラブという単位でみたならば、最大のトピックはHFCの役員逮捕(とそこからの復活)だ(<復活はまだかな?)。

J2で最下位になってもクラブが消滅することはないが、あの事件は、クラブを消滅させる可能性があった。いや、別に、何か特別な情報を握っているとかではなく、推測で言っているに過ぎないのだが、ただでさえ逆風にあったあの状況(金を集めるだけ集めておきながら実質的には破綻状態、おまけにチームはJ2最下位)を考えれば、スポンサーやファンが一気に引いてしまうことは十分にあり得た。

そんなこと起きるわけがないだろうと思うようなことが現実に起きるのは、1998年の横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併なる事象で経験済みだ。あのとき、みんなが慌てふためいたのは、あれが「想定外」の出来事だったからだ。つねに、最悪の事態は、頭の片隅に置いておいたほうがいい(そうすることで救いようのない状況に陥ることだけは避けられる)。

内田樹さんの新刊『知に働けば蔵が建つ』(文藝春秋、ISBN4-16-367700-3)を読んでいたら、こんなことが書いてあった。ちょっと長くなるが、以下、引用する(指示代名詞が何をさしているのか気になるかもしれないが、とりあえずそこは無視してください)。

(引用ここから)
彼らはやはり日本が国民国家として安定期にはいった時代にお育ちになったので、「かなり効果的に法治されている」ことや「通貨が安定していること」や「言論の自由が保障されていること」などを「自明の与件」とされていて、それを「ありがたい」(文字通りに「存在する可能性が低い」)と思う習慣がない。/だから、そのような与件を維持するためには「水面下の、無償のサービス」(村上春樹さんのいうところの「雪かき仕事」)がなくてはすまされない、ということについてあまりご配慮いただけない。/だから、この世代の特徴は、社会問題を論じるときに「悪いのは誰だ?」という他責的構文で語ることには抵抗がないのだが、「この社会問題に関して、私が引き受けるべき責任は何であろう?」というふうに自省されることが少ないという傾向がある。
(~以上、同書p.265より引用、太字強調は大熊による)

世代論はさておき、なんでもかんでもコンサドーレに置き換えて考えてしまう習慣のある僕としては、コンサドーレが存在していることがあまりにも「自明の与件」になっていないか?と、これを読みながら考えた。そこで思い出したのが、例の事件なのだ。

あんなこともう思い出したくもない、という人もいるだろう。しかし、あのときにわざわざ厚別へ出かけた人たちがいたからこそ、今がある。HFCの方々も、関係者も、みな、それぞれの立場で頑張ったから、今がある。「ほれ見ろ、コンサドーレなんてそんなもんだ」と、自分が何をすべきかを考えずにただ(建設的ではない)批判だけする人ばかりだったら、今、6位という最終成績の是非を振り返っていることはなかっただろうし、来季の戦力予想(妄想?)を楽しむこともできなかっただろう。

シーズン中は勝ち負けに一喜一憂してときには怒ってもかまわないと思うが、シーズンオフは、ときどき、もしこのクラブがなかったら(なくなったら)ということを(ごくごくたまに)頭に思い浮かべながら、自分は何をすべきなのか、HFCはどうあるべきなのか(余計なお世話ですが)という観点で、冷静に、コンサドーレをめぐる動きを眺めていきたい。


posted by issey11 |07:29 | 日々雑感 |

2005年12月15日

コンサ移住の話 その3

12月8日の続き。

北海道に縁もゆかりもなかった僕をコンサドーレのサポーターにした決定的な要因は、1997年3月、小雨の三ツ沢競技場で行われたヤマザキナビスコカップだった。相手は注目のルーキー・背番号25番の中村俊輔を擁する横浜マリノス。当時のコンサドーレはJFL所属だったが、Jリーグの準会員という立場で大会に参加していた(懐かしいですね、準会員という響き)。

この頃はまだ、僕の中では、Jリーグよりはラグビーだった。この試合の翌日だったか翌々日だったか、香港までラグビー(7人制ワールドカップ)を見に行っているぐらいで、ちょうど同じ時期にやっていたフランスワールドカップの一次予選がテレビ中継されていることに対して「なんでサッカーは一次予選ごときで生なのに、ラグビーは本番ですら中継がないのだ!」と憤っていたりしたのだ。

ともあれ、その三ツ沢の試合で、「昔の名前で出ています」みたいなメンバーばかりのコンサドーレは、日本代表選手が抜けたとはいえそうそうたる顔ぶれが並んでいたマリノスに、3-1で勝った。後藤義一をはじめとする、Jリーグから捨てられた男たちの奮闘に興奮し、寒さを忘れた。

それ以上に僕を熱くしてくれたのは、アウェー側のゴール裏で旗を振っていたサポーターの姿だった。平日の夜だったこともあってか、せいぜい、10人ぐらいしかいなかったのではなかったか(間違ってたらごめんなさい>当時のことを知ってる方)。その数少ない、スタジアム全体でみれば明らかに浮いている人たちの歌-行くぜ、行くぜ、Jリーグ-が、静まり返った会場に響き渡る。あれがなければ、ここまでコンサドーレにはまることはなかった。

まだまだ続く(いつになったら移住するのだ?)。


posted by issey11 |09:08 | コンサ移住 |

2005年12月14日

オフィシャルチームソング

20051214-00.jpg僕には、かつて、スポーツ中継とNHKのニュースとワールドビジネスサテライト以外にはほとんどテレビを見なかった時期があるのだが、最近、その時期がかなり長期にわたっていることがわかってきた。たとえば、僕にとっては、ドリカムという人たちはいつのまにかみんなが知っていた人たちであり、宇多田ヒカルという人の存在を知ったのは売れ始めてから2年後ぐらいだったらしい。日本経済の失われた10年は、僕にとっては、「芸能・音楽の10」ですら答えられない時期である。

だから、ヴォイスという人たちのことも、まったく知らないのだ。コンサドーレ札幌オフィシャルチームソングをヴォイスという人たちが歌ってるんだけどこの人たちって有名なの?と、ある人に聞いたら「24時間の神話とか売れましたよね」と、普通に言われて、ああそうなのかと(ヴォイスが有名だというより自分の無知さ加減に)妙に感心した記憶がある(感心というのもへんな表現だが)。

とにかく、この「AMBITIOUS~炎になれ~」は、コンサドーレ札幌オフィシャルチームソングとして、1998年5月に発売された。ジャケットの裏に「参加ミュージシャン」が掲載されていて、これを見たときに、僕が知ってるのは堀江淳だけだと思ったことをいま思い出した(水割りをくださ~い)。

サビの部分の歌詞に「ファミリー」が登場するのは、当時のフェルナンデス監督を意識してのことなのか。それ以外は、とくにコンサっぽい感じはないけれど、これ、なかなかかっちょいい曲だと思う。ただ、みんなで盛り上がれる曲ではないわな。だから定着しなかったのかな?

ジャケットの裏には「インターネット・コンサドーレ札幌ホームページアドレス」なる文字もあって、その下にURLが書いてある。7年前は「インターネット」と断らないと「ホームページアドレス」の意味がまだまだ通じなかったんだなあ(それにしても「ホームページ」って表現はイヤだなあ…ま、僕も、仕事上やむを得ない場合は使いますけどね)。

というわけで、昨日に続いて、コンサ関連CDのご紹介でありました。



posted by issey11 |22:39 | CD |

2005年12月13日

好きですサッポロ C.S.サポーターズ

ジェッター3のブログができた。

音楽ビジネスの世界のことはまったくわからないのだが、ジェッター3の曲とジョカトーレの曲とコンサドールズが使ってる曲と選手入場のときの曲となんだかんだを組み合わせてCD作ることはできないものか。それじゃミュージシャンとしてのジェッター3に失礼なのかな?それより権利関係が難しいんだろうか?

こういうのはHFCさんの本業からはかなり遠いところにあると思われるので、HFCさんにやってくださいといってもなかなか実現しないでしょうから(やる気の問題ではなくマンパワーの問題とリスク=主としてコストの問題で)、どなたか音楽業界に詳しい方、企画しませんか?応援します。なんだったら、ジャケットデザインのデザイナーぐらいは提供紹介します。

コンサドーレ札幌に勢いがあった頃にはこんなCDもありました、ということで、本日は、もはや懐かしの感がある「好きですサッポロ」をご紹介。民放テレビ各局のアナウンサーが局の垣根を越えて集ったことが話題になった企画で、ジャケット写真の中央にいるのは今や全国的人気となったがBSのレギュラーから降板した途端に結婚していたことを明らかにしてファンを泣かせた石山愛子アナ(当時HBC)。その他2名の女性アナウンサーもすでに姿を見なくなっているのに対し、男性陣はいまだ(スカパー中心とはいえ)バリバリ夕張現役でコンサドーレの試合を実況している宮永真幸アナと永井ハム彦公彦アナ。

このCDが発売されたのは、J2で優勝した2000年シーズンの開幕の頃。やっぱり、ゲンかつぎで、CD出しましょうよ。たくさん曲入れると面倒なら、この「好きですサッポロ」みたいなのでもいいから(とはいえ、いまさら8センチのシングルCDはないんでしょうけど)。

20051213-00.jpg


posted by issey11 |07:19 | CD |

2005年12月12日

『柏レイソル10年史』

20051212-00.jpg

本日のサッカー本紹介は『DECADE 柏レイソル10年史』。2001年シーズン途中での西野朗監督の解任という、いわば負の歴史が当事者によって語られているところがとても興味深い。

柏は1999年のヤマザキナビスコカップで優勝、翌2000年はステージ優勝こそ逃したものの年間勝ち点では1位になった(同じ頃、ヴァンフォーレ甲府はJ2で2年連続の最下位だった)。確実にJの強豪へとステップアップしているかと思われたのだが、01年のファーストステージで6位に終わると(このとき、コンサドーレ札幌はなんとJ1で8位だった!)、98年以来指揮をとってきた西野監督を解任。01年のセカンドステージこそ7位でフィニッシュするも、02年は最終節までJ1残留争いに参加、03年は年間総合順位12位、04年は年間16位(最下位)でJ1・J2入れ替え戦に参加、そして05年はついに入れ替え戦に敗れてJ2降格が決定-と、まさしく坂を転げ落ちるように凋落してきた。

短期的にみれば、昨年のファーストステージ・アルビレックス新潟戦のロスタイムが…となるのだろうが、やっぱり、ポイントになるのは、西野監督の解任だろう。

同書の40ページ、01年ファーストステージ最終節について触れたページにはこうある。

「成績不振に憤ったゴール裏のレイソル・サポーターは応援を拒んで、ことりとも音をたてようとしなかった。その分、ごくわずかしかいない福岡サポーターの応援歌がよく響く。西野監督やフロントを中傷する横断幕が下げられた」

そして、その横断幕-「西野さん お疲れ様でした」「西野さん 夢をありがとう」-の写真が添えられている。

西野氏本人は、インタビューで、こう語っている(同書94~95ページより引用)。

「解任されたのは7月22日。娘の誕生日だから、よく覚えている。コーチ陣と第2ステージに向けてのミーティングをしていたら、フロントに呼ばれた。ミーティングが終わってからにしてほしいと答えたら、その前にと言うので、行ってみたら『お前も疲れただろう』と。全く予期していなかったことなので驚いた」

「開幕前に『ゲット・ザ・トップ』をキャッチフレーズにして優勝を狙っていたのだから、確かに6位では問題がある。でも、前年のオフに永久監督のつもりでやってもらいたいと言われ、僕も長期的な展望をもってステップアップしていきたいと考えていたのに、一体どうなっているのかという思いもあった。フロントはアレックス・ファーガソンやオットー・レーハーゲルの名を出して、日本にも長期政権があってもいいと言っていたのに、そのビジョンはどこへ行ってしまったのか」

その西野氏を解任した当時の強化部長・久米一正氏の発言は、インタビュー時にはすでに柏を離れていた(清水エスパルス取締役強化育成本部長の職にあった)気楽さからなのか、判断ミスであったことをはっきりと認めている。以下、同書97ページより引用。

「でも、いま振り返ってみると、あの解任は失敗だったと思う。あの年は西野監督-ペリマン・コーチの体制で通すべきだった。シーズン途中の監督交代はうまくいかない」

難しいな、と、思う。久米氏(あるいは当時のフロント)が成績低迷または西野監督解任という失策の責任をとって柏レイソルを去ったとしても、サポーターは柏レイソルから離れることができない。代替する製品やサービスがあればそちらに乗り換えればいいのだが、サポーターはそういうわけにはいかない。

『柏レイソル10年史』を最初に読んだときは、ずいぶんと思いきったことを載せるものだなあと感心していたのだが、柏の降格が決まった今、あらためて読んでみると、サポーター的には「そんなに簡単に振り返らないでくれよ」と言いたくなるんじゃないかと思えてくる(別に僕は柏サポーターでもなんでもないんですけどね)。

(本のデータ)
DECADE 柏レイソル10年史
 2004年2月20日 第1刷発行
 ISBN4-434-04119-3
 発行 株式会社文化工房
 発売 星雲社
 定価(本体2000円+税)


posted by issey11 |06:45 | フットボール本 |

2005年12月11日

VFK圧勝 on 千葉テレビ

12月10日に東京にいなければならない理由は11月23日のロスタイムに消えてしまったが、前後の予定は早くから入れてしまっていたので、2ヶ月も前に(一か八かで?)組んだ予定通り、この週末は東京で過ごした(札幌に帰ってきたら風景がいきなり冬になっていてびっくり!)。

そんなわけで、昨日のJ1・J2入れ替え戦の第2戦は、千葉テレビの中継を見た。

ヴァンフォーレ甲府はたいしたことなかった、などというつもりはないのだが、どちらかといえば、柏レイソルのちぐはぐぶりばかりが目についた試合だったように思う。2003年8月、新潟スタジアムでのアルビレックス新潟-コンサドーレ札幌戦~敵将の反町康治いわく「ギャンブルサッカー」、結果的にジョアン・カルロス監督の最後の試合となった~を思い出してしまうほどだった。

柏は、前半30分までに2点のリードを奪われた。第1戦との合計では3点のビハインドだ。柏の11番の選手がタッチライン際に立ったとき、僕は、ディフェンスを減らすのだと思った。ところが、交代は18番のFW矢野貴章。まずこれが最初の「?」。

次はハーフタイム。FW宇野沢祐次が入るのはいいとして、交代するのは前半に警告を受けていた平山智規か永田充のどちらかだろうと思ったら、アウトは大谷秀和だった。おいおい、こんな簡単に交代枠を2つ使っちゃって大丈夫なのか?…その疑問が頭から消え去らないうちに、永田が2度目の警告で退場。だから言わんこっちゃないだろ(と、なぜか柏応援モード)。

永田が退場になるや、やはり前半に警告を受けていた平山が交代でベンチに下がる。このあまりにも場当たり的な交代で、まだ後半の5分過ぎなのに、交代枠はなくなってしまった(あの日のジョアン・カルロスも、頭に血が上っているかのようなつぎはぎ交代をしたんだよね)。

それでもそのすぐ後に柏は1点を返した。これで2試合のトータルでは2点差。さあこれから、というときに、その直後のキックオフから(ラグビーのノーホイッスルトライ的に)甲府に追加点を許してしまう(千葉テレビでは柏の得点シーンのVTRを流しており、気がついたときにはバレーが縦に抜けていた)。これで意気消沈するなというほうが無理だ。

柏には足をつる選手が出てきて、クレーベルだったかは担架でピッチの外に運び出された。しかし、なにしろ、もう選手交代はできないのだ。勝っているのならまだしも、最低でもあと3点を取らねばならない状況で、実質的に9人では戦えるはずがない。

千葉テレビの実況(石井力アナウンサー)が「これだけのお客さんが来ているのだから、云々」とやっていたことに影響されたのかもしれないが、僕は、ああ、甲府がJ1なんだあ…と思う一方で、柏の不甲斐なさにイライラしていた(別に柏のファンでもなんでもないのに)。唯一、土屋征夫だけが最後まで闘志むき出しで高いポジションへと出て行ったものの、テレビ画面を通してとはいえ、柏の選手からは覇気がまったく感じられない(これまた、あの新潟の惨劇を思い出してしまうのだ)。

甲府は、3点取られなければいいのだから、常識的に考えれば、まず大丈夫だ。でも、彼らは札幌ドームでロスタイムに3点を取っている。あの経験があるから、逆に、3点のリードは絶対に安全だといえないと考えているんじゃないか。だから、大量リードでも、最後まで集中が切れることはないんじゃないか。そんなふうに勝手な想像をめぐらしながら、だからバレーがあと1点ぐらい取っちゃうかもしれないなと思ってはいたのだが、まさか6点とは。

途中までは、柏のサポーターが暴れなければいいけど、とか、それとも降格が決まったときの浦和レッズサポーターのように温かい声援を送るのだろうか、とか、いろいろ考えていたのだが、最後は、ああ、これじゃ怒る気にもならないだろうなと、柏のサポーターが気の毒になってしまった。そして、こんな試合でも最後まで見届ける柏サポーターに感心してしまった。

西野朗がガンバ大阪でリーグ制覇した同じ年に、柏の降格が決定。結局、あの西野監督の解任がターニングポイントだったということか。チームづくりは難しい。


posted by issey11 |19:44 | 日々雑感 |

2005年12月09日

ファンとクラブの関係(未完)

昨日のエントリに対し、No Life, No Football.さんからトラックバックをいただいた。

「部分的に反対」「いまいち納得できない」と言われると弱い。ましてや「信頼関係」あるいは「リスペクト」という言葉には、僕はとっても弱い。

昨日触れた情報開示云々について、ここで真正面から論じることはしない。リアルな世界でもお互いによく知っているのならともかく、今この状況で文字だけの議論をするのは危険だ(そのうち機会があればお話しましょう)。

それでも、こうやって、ある問題について真剣に考えることは大事だ。最初から結論ありきでなく、相手を尊重しつつ、しかし自分の考え方も明確にする。これもまた、信頼関係があるから、あるいは、信頼関係が築かれつつあるからできるものだと思う。初めに不信感、警戒があったのでは、議論になどならないし、議論がなければ(=全員が一定の方向しか見ていなければ)進歩もない。お互いの立場、意見が異なることを認め合ったうえで、(バーチャルとはいえ)話ができるのはありがたいことだと思っている(このブログサービスを企画した段階では、こんな効果が生まれるとは思っていなかったんですが)。

僕も、ファンとクラブの関係が、従来の消費者と生産者の関係であっていいとは思っていない。それどころか、スポーツに限らず、これからはあらゆる企業と顧客とは信頼で結ばれるようになっていくのではないか、そうならないと生き残れないのではないかと思っているほどだ。

信頼は、馴れ合いとは違う。そうかといって、無責任な批判でもない。努力している部分は認める、不足しているところはどうすれば補えるか考える。お互いの立場を認め合いながら、前向きな意見を戦わせる。それが、信頼関係だと思う(具体的に何かをさして言っているわけではなく、一般論として)。

いまいち歯切れが悪くてすいません。考えれば考えるほど難しい問題で、自分でもすっきりはしていません。


posted by issey11 |20:31 | 日々雑感 |

2005年12月08日

コンサ移住の話 続き

12月5日の続き。

北海道には何の縁もなかった僕が、それまでの生活を捨てて長距離転居を考えたのは、児玉芳明社長のプロフィールの言葉を借りれば「北の大地に憧れて」だった。

大学を卒業するときも、就職してからも、思いは燻り続けてはいたのだが、東京から北海道へ移るとなれば、そう簡単なことではない。旅先として訪れている分にはいいけれど、日常生活圏となったらどうなるのか。

僕は、一時期、土曜日の昼間はラグビーやって、秋冬の日曜日は秩父宮ラグビー場のバックスタンドかゴール裏に座ることを週末の最大の楽しみとしていた。北海道へ引っ越したら、前者はともかく、後者の観戦する楽しみは失われてしまう。

そこへ登場したのがコンサドーレだったわけだ。

1995年のラグビーワールドカップ・南アフリカ大会で日本ラグビー協会に愛想をつかしかけていたところに登場したコンサドーレは、僕にとっては、とてもタイミングがよかった。Jリーグの開幕直前に埼玉県民から東京都民になっていた僕には、Jリーグの中にホームチームと呼べるものがなかった。だから、心理的には自分の故郷のような場所になっていた北海道の新しいチームを応援することに、抵抗はなかった。

なかなか移住にたどり着かないな。。。この項、まだ続く。


posted by issey11 |13:55 | コンサ移住 |

2005年12月08日

契約満了、契約更改

十数年前にベストセラーになった柴門ふみの『恋愛論』に(そんなものを読んだことがあると告白するのはかなり恥ずかしいのだが(笑))、芸能人の恋愛や結婚は一般人の参考にはならない、芸能人は特殊な世界の人々なのだからその恋愛や結婚に関するエピソードは一般人には当てはまらないとの「教え」があった。

プロサッカー選手の世界についても、同じだと思う。いや、恋愛とかなんとかじゃなくて、特殊な世界である、という意味で。

今朝の北海道新聞に、野田達郎は大学進学を希望との記事があったが、なるほどなと思う。契約期間満了で更新せずというのは、かならずしも、クラブが一方的に更新しなかったとは限らない。斉川雄介のごとく、本人が「このままプロでやるのは無理だ」と判断して、事前に話し合いをした結果の「契約更新せず」となった-可能性もある(それじゃHFCは野田に対して1年間無駄な投資をしたのか、と、ケチをつければキリがないのだが)。

そういうことも含めてクラブが情報開示をすべきだ、というのは、一見、もっともなようにも思えるが、僕は賛成しない。

単純に、契約満了選手だけを発表すれば、野田に関する推測のようなことがあったとしても、単純に「若手を切り捨てた」との事実しか出てこなくなる。では契約を更新しない理由を説明すればいいだろう、は、さらに短絡的な考え方で、「A選手は怪我が多くて使えないと判断しました」「B選手は練習態度が悪く成長が感じられません」などといちいちやったら、彼らの次の職探しに悪影響を与えてしまう。

ファン(サポーター)を大事にすべきだとは思うが、チームあるいは選手あってのファン(サポーター)であり、いちばん大事にしなければいけないのは、結局、選手だ(選手がいなくなればファンも存在できないのだから)。契約=自分の生活に直結する微妙な話題なのだから、選手自らが「発表してください」と言わない限りは、あえて契約を更新しない選手を発表する必要はないのではないか。

契約更改のサインするしないも同じこと。選手は自分の能力を売って生活している個人事業主であり、暗黙の終身雇用が保証されている社員とは違う。クラブからの契約条件の提示は、来年1年間の給与の「通知」ではない。自分自身の生活に関わることであり、交渉の余地のある話なのだから、最初の提示を持ち帰ることはなんら不思議なことではない。

サッカー選手としての資質を考えたならば、言われた条件をそのまま「はいわかりました」と飲んでしまうのは、むしろ、まずい。自分の頭の中で咀嚼して、消化したうえで納得する、あるいは(相手を納得させられるだけの材料を揃えて)反論するぐらいでなければ、ゲームの中でも自分の判断で動くことなどできないだろう。


posted by issey11 |09:35 | 日々雑感 |

2005年12月08日

読書感想文『オシムの言葉』

『オシムの言葉-フィールドの向こうに人生が見える』
木村元彦・著、集英社インターナショナル、ISBN4-7976-7108-4
2005年12月10日第1刷発行

『誇り-ドラガン・ストイコビッチの軌跡』『悪者見参-ユーゴスラビアサッカー戦記』と続いた木村元彦氏の著作は、サッカーを題材にしながらも旧ユーゴをめぐる政治・社会の話が前面に出すぎていた感があったが、本書では、オシムのサッカーとオシムの生い立ち、そしてオシムという人間を作りあげてきたものが何であるかが、バランスよく描かれている。オシムへのロングインタビューだけであれば、ここまで奥の深い作品にはならなかっただろう。

監督としてのオシムの言葉には、現在のコンサドーレ札幌、柳下正明監督の姿をオーバーラップさせたくなるところも少なくない。たとえば-

ただ、それより重要なのは、ミスをして叱っても使い続けるということだ。選手というのは試合に出続けていかないと成長しない。どんなに悪いプレーをした時でも、叱った上でそれでも使う。ミスをした選手を、それだけで使わなくなったら、どうなる?その選手はもうミスを恐れてリスクを冒さなくなってしまうだろう。いつまでも殻を破ることができない」(p.126)

私が思考するのは、観客やサポーターはいったい何を望んでいるのか、そして何が目的なのかということだ。(中略)私としては、いる選手がやれる最大限のことをして、魅力的なサッカーを展開したいと考えている。そういうサッカーを目指すには、リスクが付きものだ。(中略)すべての監督が大きなプレッシャーを感じている。ほとんどの人たちが、試合の内容よりも結果に注目しているわけだからね。やはりチームが負けないようなサッカーを監督は選択していくだろう。ただそういうことを続けていたら、残念ながらいい内容の試合は展開されないだろうね」(p.195)

要するに、この『リスクを冒す哲学』を、私個人だけではなく、千葉の選手たちと共有し、ともにやっていけるのかということだ」(p.196)

何がなんでも勝たなきゃいけない、とにかく目の前の勝ちを拾わなきゃいけない、というチームなら、こんなことは許されないだろう。守備を固めて、エメルソンとジュニーニョを連れてくればいいのか。いや、それでも、勝てばいいのかな。

オシムの本だというのに、最後は結局、なぜ柳下監督なのか、柳下監督のチームとどう付き合うべきなのか、なんてことを考えて、2003年や1999年の記憶を反芻して、付箋をつけたページへと戻って、オシムの言葉をふたたび読んだ。

木村元彦氏の「いい仕事」に感謝。


posted by issey11 |07:05 | フットボール本 |

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