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2005年12月08日

コンサ移住の話 続き

12月5日の続き。

北海道には何の縁もなかった僕が、それまでの生活を捨てて長距離転居を考えたのは、児玉芳明社長のプロフィールの言葉を借りれば「北の大地に憧れて」だった。

大学を卒業するときも、就職してからも、思いは燻り続けてはいたのだが、東京から北海道へ移るとなれば、そう簡単なことではない。旅先として訪れている分にはいいけれど、日常生活圏となったらどうなるのか。

僕は、一時期、土曜日の昼間はラグビーやって、秋冬の日曜日は秩父宮ラグビー場のバックスタンドかゴール裏に座ることを週末の最大の楽しみとしていた。北海道へ引っ越したら、前者はともかく、後者の観戦する楽しみは失われてしまう。

そこへ登場したのがコンサドーレだったわけだ。

1995年のラグビーワールドカップ・南アフリカ大会で日本ラグビー協会に愛想をつかしかけていたところに登場したコンサドーレは、僕にとっては、とてもタイミングがよかった。Jリーグの開幕直前に埼玉県民から東京都民になっていた僕には、Jリーグの中にホームチームと呼べるものがなかった。だから、心理的には自分の故郷のような場所になっていた北海道の新しいチームを応援することに、抵抗はなかった。

なかなか移住にたどり着かないな。。。この項、まだ続く。


posted by issey11 |13:55 | コンサ移住 |

2005年12月08日

契約満了、契約更改

十数年前にベストセラーになった柴門ふみの『恋愛論』に(そんなものを読んだことがあると告白するのはかなり恥ずかしいのだが(笑))、芸能人の恋愛や結婚は一般人の参考にはならない、芸能人は特殊な世界の人々なのだからその恋愛や結婚に関するエピソードは一般人には当てはまらないとの「教え」があった。

プロサッカー選手の世界についても、同じだと思う。いや、恋愛とかなんとかじゃなくて、特殊な世界である、という意味で。

今朝の北海道新聞に、野田達郎は大学進学を希望との記事があったが、なるほどなと思う。契約期間満了で更新せずというのは、かならずしも、クラブが一方的に更新しなかったとは限らない。斉川雄介のごとく、本人が「このままプロでやるのは無理だ」と判断して、事前に話し合いをした結果の「契約更新せず」となった-可能性もある(それじゃHFCは野田に対して1年間無駄な投資をしたのか、と、ケチをつければキリがないのだが)。

そういうことも含めてクラブが情報開示をすべきだ、というのは、一見、もっともなようにも思えるが、僕は賛成しない。

単純に、契約満了選手だけを発表すれば、野田に関する推測のようなことがあったとしても、単純に「若手を切り捨てた」との事実しか出てこなくなる。では契約を更新しない理由を説明すればいいだろう、は、さらに短絡的な考え方で、「A選手は怪我が多くて使えないと判断しました」「B選手は練習態度が悪く成長が感じられません」などといちいちやったら、彼らの次の職探しに悪影響を与えてしまう。

ファン(サポーター)を大事にすべきだとは思うが、チームあるいは選手あってのファン(サポーター)であり、いちばん大事にしなければいけないのは、結局、選手だ(選手がいなくなればファンも存在できないのだから)。契約=自分の生活に直結する微妙な話題なのだから、選手自らが「発表してください」と言わない限りは、あえて契約を更新しない選手を発表する必要はないのではないか。

契約更改のサインするしないも同じこと。選手は自分の能力を売って生活している個人事業主であり、暗黙の終身雇用が保証されている社員とは違う。クラブからの契約条件の提示は、来年1年間の給与の「通知」ではない。自分自身の生活に関わることであり、交渉の余地のある話なのだから、最初の提示を持ち帰ることはなんら不思議なことではない。

サッカー選手としての資質を考えたならば、言われた条件をそのまま「はいわかりました」と飲んでしまうのは、むしろ、まずい。自分の頭の中で咀嚼して、消化したうえで納得する、あるいは(相手を納得させられるだけの材料を揃えて)反論するぐらいでなければ、ゲームの中でも自分の判断で動くことなどできないだろう。


posted by issey11 |09:35 | 日々雑感 |

2005年12月08日

読書感想文『オシムの言葉』

『オシムの言葉-フィールドの向こうに人生が見える』
木村元彦・著、集英社インターナショナル、ISBN4-7976-7108-4
2005年12月10日第1刷発行

『誇り-ドラガン・ストイコビッチの軌跡』『悪者見参-ユーゴスラビアサッカー戦記』と続いた木村元彦氏の著作は、サッカーを題材にしながらも旧ユーゴをめぐる政治・社会の話が前面に出すぎていた感があったが、本書では、オシムのサッカーとオシムの生い立ち、そしてオシムという人間を作りあげてきたものが何であるかが、バランスよく描かれている。オシムへのロングインタビューだけであれば、ここまで奥の深い作品にはならなかっただろう。

監督としてのオシムの言葉には、現在のコンサドーレ札幌、柳下正明監督の姿をオーバーラップさせたくなるところも少なくない。たとえば-

ただ、それより重要なのは、ミスをして叱っても使い続けるということだ。選手というのは試合に出続けていかないと成長しない。どんなに悪いプレーをした時でも、叱った上でそれでも使う。ミスをした選手を、それだけで使わなくなったら、どうなる?その選手はもうミスを恐れてリスクを冒さなくなってしまうだろう。いつまでも殻を破ることができない」(p.126)

私が思考するのは、観客やサポーターはいったい何を望んでいるのか、そして何が目的なのかということだ。(中略)私としては、いる選手がやれる最大限のことをして、魅力的なサッカーを展開したいと考えている。そういうサッカーを目指すには、リスクが付きものだ。(中略)すべての監督が大きなプレッシャーを感じている。ほとんどの人たちが、試合の内容よりも結果に注目しているわけだからね。やはりチームが負けないようなサッカーを監督は選択していくだろう。ただそういうことを続けていたら、残念ながらいい内容の試合は展開されないだろうね」(p.195)

要するに、この『リスクを冒す哲学』を、私個人だけではなく、千葉の選手たちと共有し、ともにやっていけるのかということだ」(p.196)

何がなんでも勝たなきゃいけない、とにかく目の前の勝ちを拾わなきゃいけない、というチームなら、こんなことは許されないだろう。守備を固めて、エメルソンとジュニーニョを連れてくればいいのか。いや、それでも、勝てばいいのかな。

オシムの本だというのに、最後は結局、なぜ柳下監督なのか、柳下監督のチームとどう付き合うべきなのか、なんてことを考えて、2003年や1999年の記憶を反芻して、付箋をつけたページへと戻って、オシムの言葉をふたたび読んだ。

木村元彦氏の「いい仕事」に感謝。


posted by issey11 |07:05 | フットボール本 |