プロフィール
【 Mr.CH 】 北海道札幌市出身。1985年(16歳)からサッカー部に入り、それから上手い下手は別として今までずっとプレーヤーとして楽しんでいる。ずっと転勤族でそこそこの市の社会人リーグで1部から5部を経験。47歳の今は、フットサルを個人的に楽しむ程度でチームには所属していない。 コンサドーレは2001年からファンクラブに加入。ホームの試合は、なるべく観に行きたいと思っているが、なかなかいけない。 2017年5月現在、帯広在中。自宅は札幌市、単身赴任中。
最新のエントリー
コメント
検索
2007年01月14日
【今までにない経験】 イラン戦に惨敗した日本でしたが、続く北朝鮮と韓国を打ち破り、なんと首位におどり出たのでありました。乗り切れていない高木をはずし、スーパーサブだった中山を先発にしたことがチームを活性化させたのでした。その2戦はカズが大活躍し、左サイドバックの問題は常にDFの控えとしていた勝矢が無難にこなしたため、日本はいい方向に行っているように見えました。 最終予選では福田が体調不良のため絶不調。長谷川健太はMFということでしたが、変則3トップともいえる布陣になりました。攻撃力は増したのですが、それまでのオフト監督のサッカーとは違うように思えました。その布陣を変えたことよりも、コンパクトにFWからDFの最終ラインを保つやりかたを捨てたようにも思えたのです。どちらかというとラモスの考えるサッカーにオフトが譲歩した??のでしょうか? 私は最終予選の始まる前、まさか日本が首位になり、ワールドカップに初出場できる一番有利な条件をもらうことができるとは考えもしていませんでした。そんなにワールドカップは甘いものではない!と、心に言い聞かせていたのです。 マスコミは楽観的な報道が多くて、解説者も行けるという希望をこめたようなことをいう人をテレビに出していたように思いました。友達と最終予選前にいけるかどうかという話をしたのですが、私はきっぱりと「行けない」と言いました。でもイラン戦前になって、冷静には考えられなくなりつつあったのでした。 不安要素はありました。最終戦を前に不動のボランチ森保を累積警告で欠くこととなったのでした。北澤、吉田などでその穴を埋めることが出来るあろうと楽観視していました。 最終予選のイラク戦は静内に住んでいる友達と電話しながらTV観てました。と、いうのも友達のうちにはBSもなく、その当時はテレビ東京系が日高地方では視聴不可能だったため、サッカーの中継をしているような形で観戦することとなったのでした。
2007年01月14日
私は日本人のゲームメーカーである「10番」に期待していました。マリノスの木村和司、エスパルスの沢登、ガンバの磯貝、そしてヴェルディのラモスですね。サンフレッチェの風間も背番号は10をつけてませんでしたが、ゲームメーカーでしたね。 オフト監督は特定のゲームメーカーに依存しないチームにしたい考えでした。しかし、結果を出すには期間が短く代表のクオリティのある選手も少なかったため、レギュラー選手の固定化をして戦いました。ラモスが出られないときは沢登がバックアップできるようにはアジア1次予選で、ある程度やれていました。特定の選手に期待しなくても日本代表のサッカーは充分にやれていたのです。 それでも他に替えることのできない選手はたくさんいたけれど、いろいろな選手を試している時間などなかったのです。ここがその当時の日本代表の最大の弱点でした。かくして恐れていたことが現実になりました。重要なキーマンであった選手が離脱することになったのです。Jリーグの試合で都並が重症を負ってしまったのでした。 最終予選の前にスペインで合宿していましたが、都並のケガにより不在になる左サイドバックをジェフの江尻で試そうとしていました。彼には彼の特徴があり、結果として都並の代わりとしては不合格になってしまったのです。ここでオフトは試したことのない選手で都並の代わりをやらせるギャンブルに出てしまうのです。本来、左サイドバックを本職としていないが読売でもやっていたことから三浦(泰)にまかせる選択をしました。 結果、日本の守備はバランスを失い、サウジとはなんとか引き分けることが出来ましたが、イランに完敗してしまったのです。ここまでは、中山のあきらめない気持ちが産んだゴールだけが光明でしたね。 ( つづく )
2007年01月13日
【日本代表】
Jリーグが開幕して、私の注目する選手はオフトに選ばれた日本代表選手とその候補といえるような実力者たちでした。そのころの新聞や雑誌はこぞってそんな選手たちを持ち上げたため、私も大きく影響を受けたのでした。
もともと木村・水沼が好きでしたがマリノスに肩入れせずに、試合そのものを楽しみたいと考えました。しかし、マスコミが当然のように一番注目したのはヴェルディ。そういう風に持ち上げられすぎると、私の反骨心が沸々とわいてきてしまい、必然的にアンチ・ヴェルディに。
しかし、日本代表だけは別でした。ヴェルディの選手がメインともいえるチームでも全然構わず、応援したいのは代表チームだけ!と決めていました。その中でもカズとラモスは別格です。日本の攻撃の中心なのですから。攻撃的な選手としては福田にも大いに期待していました。
その当時、現役選手だったジーコが福田とカズについて語っていたことなのですが今はカズが実力上位だが近い将来、福田が追い抜くであろうと。今のカズよりすごくなる福田は、まったく予想ができなかったのですが代表チームではトップ下のMFというポジションだったので、期待はさらに高まりました。
MFでバイタルエリア付近に背番号10を背負って「将軍」のようなゲームメーカーとしてプレーしてほしいと思えるは、日本人各チームにもいましたね。
2007年01月10日
【11番KAZU①】
激闘を極めたワールドカップ(以下WC)・アジア最終予選の半年ほど前、Jリーグが開幕するのにちょうど合わせたかのごとく、アジア1次予選が行われました。そこで日本は7勝1分で予選を通過したのでした。
このとき、日本で4試合、UAEで4試合が行われましたがこのようにアジア予選で中で必勝ムードの戦いを観たのは初めてのことでした。その中でも、ストライカーとして開眼したカズこと三浦知良の活躍については、かなりびっくりさせられました。私はJリーグが始まる前のJSLでブラジルから帰ったすぐのころのカズを観ても、彼がそんなに得点を取るようになるとは思えなかったのです。前年のアジアカップにしてもカズのゴールはイラン戦のゴールしか印象にありません。
どちらかといえばアジアカップはスーパーサブの中山雅史のほうが大事なところで得点をし、大いに会場も盛り上がって印象に残りました。
そのカズがJリーグを前にして、すっかりスーパースターになっていったのは運命だったのでしょう。彼のそれまでの地道な努力が実を結んだ、ただの道化師では終われないという意地だったのかもしれません。
その当時、私もFWでしたので間違えなく影響は受けましたが意地でも真似したようなプレーはしたくありませんでした。マイナーな時代からサッカーを自分の中の一番だと思ってきた私はミーハーなやつだと思われるのが悔しかったので、Jリーグで好きな選手は?と誰かに聞かれたときは「マリノスの木村」と答えてました。
( つづく )
2007年01月08日
【1990年のロベルト・バッジョ】 イタリア・ワールドカップ(以下WC)グループリーグのチェコスロバキア戦の単独ドリブルによる華麗なゴールはマラドーナの5人抜きを髣髴とさせた。この印象が強烈過ぎるため、私は正直言って第1印象としては、「マラドーナみたいなイタリア人?」でした。 その後、川平慈英が司会のダイヤモンドサッカーを観ていて(札幌でようやくテレビ東京系がみれた!)WCもしくはユーロの予選での映像を見るまでバッジョのプレーを知ることはありませんでした。単独ドリブルのイメージしかなかった私にとっては衝撃でした。 FWでゲームメーカー?しかもプレーのスピードと独特のタメをもっている。そんな印象でした。セリエAでの彼のプレーを観てみたい!そんな思いが徐々に高まるのでした。 【日本代表の飛躍①】 そんなころ、1991年のキリンカップから日本代表の飛躍が始まりました。今までは観光気分で来日するクラブチームにすら完敗していた代表チームが、86年WC得点王リネカーを擁するトットナム、後にJリーグでも活躍するビスマルクもいたバスコダガマとの戦いを勝ち抜き優勝したのです! さらに1992年にハンス・オフトが監督に就任するとダイナスティカップ優勝!アジアカップ優勝!と今まででは考えられないような好成績をあげました。さらに1994年のアメリカWC予選のアジア一次予選を突破したのです。 そして、ついにJリーグが開幕! サッカーが観たい!その思いが高まり 私はついにBSを手に入れることを決断したのです!
プロフィール
【 Mr.CH 】 北海道札幌市出身。1985年(16歳)からサッカー部に入り、それから上手い下手は別として今までずっとプレーヤーとして楽しんでいる。ずっと転勤族でそこそこの市の社会人リーグで1部から5部を経験。47歳の今は、フットサルを個人的に楽しむ程度でチームには所属していない。 コンサドーレは2001年からファンクラブに加入。ホームの試合は、なるべく観に行きたいと思っているが、なかなかいけない。 2017年5月現在、帯広在中。自宅は札幌市、単身赴任中。
最新のエントリー
コメント
検索