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2006年01月27日

2.圧倒的な強さの裏には:97年

高校選手権得点王の新人・吉原宏太の鮮烈デビュー直後の試合、期待のエース・アルシンドの『バカ15連発』でいきなりズッコケさせられた96年。この頃からネタチームとしての資質は持ち合わせていたのかと思うとorz そのアルちゃん(こないだテレビに出てフットサルやってたような気がするが、、、)結局5試合出場、うち2試合で退場、4試合出場停止、1ゴール(点とってたんだ!)という 輝かしい 成績を残し退団、シーズン終わりには「あぁ?そんな選手いたっけかねぇ?(-。-)y-゜゜゜」なんて声まで聞かれる始末。結局この年、チームはJFL5位と目標の2位には届かずに終わったわけです。

96年シーズン、クラブは昇格できる自信が結構あったのでしょうか?これではイカンとばかりに年末の大量解雇(知ってましたか?引退など様々な理由を含みますが1996年1年間しか在籍しなかった選手が、なんと31人もいたということを!;最近のイヤーブックの後ろのほうを見てね)と、「今年こそは!」の今思えば無謀と言っても差し支えないような高額補強(『今思えば』ですよ。そのときは何とも思わなかった)によって生まれ変わった’97コンサドーレ。今となっては「誰それは高い」だの何だのとネット上を賑わす選手補強ですが、あの頃は私も(あなたも?)会社(HFC)の財布の中身を気にしてなんかいませんから、名のある選手・実績のある選手がわんさか来ることを手放しで喜んでいたものです。雪だるま式に借金が膨らんでいるとも知らずに。くわばらくわばら・・・。

正直ね、私もJに上がれば何とかなると思ってました。Jリーグバブルってうちにもあるもんだと思ってたのね。「J行ってお金集めればもっと強くなれるんじゃないか」って。ホントはただ表面だけキラキラと輝いているだけの泡なのに。ちょっとつついただけで壊れてしまうのに・・・。

結局コンサドーレは、97年シーズンを圧倒的な強さをもって制しJリーグ昇格を果たすわけです。

ドーレくん(たぶん1号)写真は97年11月3日に行われたJFL優勝パレード(札幌市役所→すすきの→大通西8丁目)と、大通公園西8丁目ステージで行われた優勝報告会の様子です。すごい人出ですねぇ。で、当日はこのあとアクセスサッポロでファン感イベントがあったんですね。
 

石井さんがカメラ目線
 
 すごかったですよ。もうお腹いっぱーいって感じの一日でした。ちなみに、優勝報告会の直後、目一杯急いでアクセス行ったんですが、アクセスの正面駐車場は並ぶの大好きなコンササポさんたちで既に膨れ上がっていたと記憶しています。


 
石井さんが笑顔でこっちを見ている



『優勝だ、昇格だ、Jリーグだ』と、すっかり浮かれ気分で年の瀬を迎えようかと言う時に事は起き、と言うか発覚するわけです。HFC会長でもある今井春雄氏の丸井今井社長解任と多額の累積赤字の存在。今井氏の道内経済界での影響力の大きさは言わずもがな。彼に負うところも大きかったHFCの資金繰りは、一瞬にして暗礁に乗り上げることになってしまいました。

「こりゃ、えらいこっちゃ」クラブも、選手も、サポ(私のことだが)も真っ青ですよ。「どうしようどうしよう」ってオロオロしていたらカンバッジ販売と応援の署名集めをするって言うじゃないですか。行きましたよ、かみさんと共に。「とりあえず行ってみよう」って。

12月20日、私たちは当時丸井さんの隣にあったコンサドーレショップに向かいました。そこに来ていたムラとつよしくん、名前も知らないサポ仲間らと共にショップ前に立って、街ゆく皆さんにカンバッジ買ってもらって、応援の署名をしてもらいました。そのときの募金・署名活動内容はconsa de consaさんのページに詳しく書かれています。
とてもたくさんの方に協力してもらいました。「がんばってね」と声をかけてくれる人もいました。私の会社の同僚(当時)たちにも、行きつけの喫茶店のマスターやそこに来るお客さんにも協力してもらいました。
発足してたった2年の、2年しか経ってないのにこんなことになっちゃってるチームを、すごくたくさんの人たちが応援してくれました。

忘れられないですよ、あのときのことは。たぶん、一生。
 

私は、97年から01年頃までの2003年頃まで、コンサに関する新聞の切り抜きをそれこそファイル20冊近く集めていました。でもね、昇格の切り抜きとかは全部捨てました。97年のも、00年のも。残っているのは財政危機・チーム存続が危ぶまれるという記事、そして98年J2降格の記事がほとんどです。
あの時のことは忘れちゃいけない、っていうか忘れられないのですけどね。『這い上がる』ってJ2からJ1に上がるなんて、大した事じゃないと思ってます。債務超過を解消して、赤字を解消して、やっとアリ地獄から這い上がったような気持ちになれるのかな?まだまだ、やることはいっぱいありそうです。
昇格の記事なんて取っておかなくてもいいかな?って、これから来るその瞬間をこの目で見ればいいかなって思ったんです。そして、そのときの新聞こそ二度とないコンサ昇格の記事として取っておきたい、と。


posted by arroz |00:47 | 10年 | コメント(0) |

2006年01月22日

1.三菱ダイヤモンドサッカーとピエール・リトバルスキー:~96年

決意表明からはやひと月半、決して忘れていたわけではありませんよ。なにせ、いつどこで何があった的なことが苦手(そろそろ清野のハットトリックがいつの何戦だったか忘れてしまいそうw でも、“清野がハットトリックした”ということだけは何とか覚えているという感じ)な人間ですので、記憶に残っている事象がいつ起きたのかくらいは資料でチェックしているつもりですが、多少間違ってても許してくだされ(指摘歓迎)。
それから、ここではコンサの10年について、あの年はこんな1年だった、と年表のように綴る 脳ミソは持ち合わせておりません つもりはありません。ということは、コンサの傍らにいた“私”のことが主体になるのかな?何はともあれ書いてみないと分かりませんけど。
さて、それでは始めましょうか。


 
「サッカーを愛する皆さん、ご機嫌いかがでしょうか。」
はい、三菱ダイヤモンドサッカーの時間がやってまいりました。毎週耳にした、金子勝彦アナウンサーの番組冒頭の一言ですね。解説は岡野俊一郎元日本協会会長でした。東京12チャンネル(テレビ東京)で1968年から20年にわたって放送されたこの番組、土曜日(だと思います)の午後6時、晩ごはんの食卓を囲みながら見ていることが多かったです。

---  懐かしいですね。あの頃はまだ、土曜日は会社や学校に行ってましたね。休みは日曜日だけだったですよ。私が小学生~高校生の頃の土曜日は確か半ドン、大学を出て就職した頃には会社は半ドン~4週6休~週休2日への移行期でしたね。しかし、週休2日と言っても残業の多かったその会社ではフツーに休日出勤してたような気もしますが・・・。

話がそれてしまいました。
その三菱ダイヤモンドサッカーでは、当時ほかでは滅多にお目にかかれなかった海外のサッカーを放映していました。その中でも、私の記憶にはブンデスリーガの試合が断片的に残っています。正直、どんな試合だったか、どんなプレーがあったかはほとんど覚えていません。でも、金子アナの口から「オクデラ」と言う名前を数多く聞いた覚えがあります。その選手はサイドにいて上下の運動量の多い選手だったと記憶しています(あくまで記憶ですからw)。そう、古河電工、1.FCケルン(独)、ベルダー・ブレーメン(独)などで活躍した奥寺康彦氏(現横浜FC・GM)のことですね。で、奥寺も所属した1.FCケルンには、後に来日しJEF市原などで活躍することになる、ピエール・リトバルスキーもいたわけです。

---  サッカーは見ることはあってもプレーすることはほとんど無かった子供の頃、空地では草野球を見かけても、ボール蹴ってる子供はほとんどいませんでした。入った中学にサッカー部はあった。確かにありました。しかしですよ、前髪がひさしのようになっているI君とかね、ええ、まあ、その、ちょっと怖かったわけですよ>サッカー部の人たち(当時)。サッカーじゃなければほんとは バレエ バレー部に入りたかったんですが、私の通っていた中学にはありませんでした。で、友人に誘われるがままに、小学生のときにやっていた剣道部に入ってしまったのです。

また話がそれましたね、リティの話をしなければいけません。でも、彼に到達するにはコンサの話をする必要があります。
コンサドーレ発足時ですが、誘致賛成の署名はしたような気がします。あ、いま「気がしますって、あんたねぇ?」とのツッコミが聞こえてきましたが、なにせ、覚えてないモンは覚えてないんだからしようがありません。ただ、私の家には当時(株)イエローページから発行されていたコンサドーレマガジンが、なぜかvol.8を除いて創刊時から揃っているので、サポと呼べるほどではないにしろコンサファンであったことは間違いなさそうです。
さて、96年のコンサドーレ札幌はJFLの舞台で戦っています。当時ブランメル仙台にはドイツから93年に奥寺氏に連れて来られ、JEF市原で2シーズンプレーしたリティがいました。

---  私は古河の鉱山があった町の古河系の病院で生まれたせいでしょうか、子供の頃からJSLとアイスホッケーは共に古河電工を応援していました。1960年頃は、この2チーム結構強かったんですよね。だから今もJEF千葉はどちらかといえば好きだし(コンサとは比べようもないがw)、アイスホッケーはバックスファン (コンサとは存続の危機つながり) です。

リティが厚別に来る。三菱ダイヤモンドサッカーで見たことのある彼を目の前で見ることができる。それは私にとってとても魅力的でした。96年の七夕の日、 天の川 津軽海峡を挟んだ 織姫と彦星 仙台と札幌が厚別で対戦しました。試合は札幌3-0仙台で、数字上は札幌の完勝です。試合の詳細は例のごとく記憶にありませんが、そのとき私が感じたのは『なかなかやるじゃないの、コンサ』と、『リティ、やっぱすげーよ!』でした。私が見たリティは、この試合で彼が魅せた足技は、紛れもなくブンデスリーガで活躍していた、三菱ダイヤモンドサッカーで見たことのあるそれでした。

 
おまけ:コンサドーレマガジンを見ると、当時の仙台は試合の序盤リティをCBに入れて守りをかため、勝負をかけるタイミングでは本来の中盤に上がりゲームを支配する、というシステムをとっていたようです。また、リティは94年の市原で現役生活を一度終え、96年に復帰しています。そういえば、ごっさんも一度やめて復帰したんだよね。。。


posted by arroz |18:58 | 10年 | コメント(0) |

2006年01月21日

幻日

幻なのに『げんじつ』


 
ただいま。出張から帰ってまいりました。
写真は道東のある町で、19日の朝、仕事場へと向かう途中で撮ったものです。
なんの根拠もないのだが、何か良い事ありそう(J1昇格とかw)に思えた朝でした。


posted by arroz |03:07 | 雑記 | コメント(0) |

2006年01月17日

初松葉杖の記憶

ワナさん(;^_^A
 かく言う私もしょっちゅう転んでますけど、札幌に住んで7~8年ほど経った冬に、団地の入り口の真っ平らな所で滑りまして、右膝がビチッ!という乾いた音を立てました。音が聞こえたほどですから、ワナさんのように“何もなかったように”という訳にもいきませんで、はい。内側側副靭帯の部分断裂です。
 たった3週間ギプスしてただけで太もも2~3cmも細くなりましたよ。その後も仕事柄、山を歩いたりすることも多かったもので多少無理したんでしょうか、1年以上経っても違和感ありましたね。いまは大丈夫ですけど。
 みなさんもお気をつけあそばせ。


posted by arroz |22:05 | 雑記 | コメント(0) |

2006年01月16日

キックオフ2006(写真を貼ってみるテスト)

えらそうな小1

なんか、わくわくするね。
中身は昨年と大して変わらないんだけど、みんなが開幕に、昇格に向かって頑張ろうっていう感じがして。
頑張りましょう。私も体重減らさないと腰痛治さないと、跳べないよ。


posted by arroz |01:10 | コンサドーレ | コメント(0) |

2006年01月15日

発表のタイミング(フッキの場合)

 待ち望んでいたフッキの期限付き移籍が発表された。12.netのメール受信が本日11時12分。
 でも、ここまで時間が掛かったのなら、この際キックオフイベントの選手紹介時まで隠しておいて『背番号10?フッキ!』とやったほうが盛り上がったのではないでしょうか?
 情報ひとつリリースするのも商売のうちですよ。


posted by arroz |11:25 | コンサドーレ | コメント(2) |

2006年01月14日

シーズンパスと夢プラン

 今年もシーパスを買いました。道内各地への出張が多く、週末も仕事のことが多いのですが、全部行けないことは分かっていてもとりあえず、シーパスです。
 かみさんは、下の子が小さいので全試合観戦は目標としていません。去年、今年はチケットです。下の子はもちろんタダです。
 上の子は小学生です。今年はシーパスを買いました。去年は夢プランを活用させてもらいました。2005夢プランスポンサー各社様、ありがとうございました。また利用させていただきたいと思います。

 さて、問題です。
 会社(HFC)としては子供たちに、シーズンパスと夢プランのどちらで来てもらったほうが喜ばしいのでしょうか?もちろん、夢プランの申込みが予定人数を超え、シーパスが売り切れるというのが理想ではありますが、そうではない現状ではどちらが良いのでしょうか。
 シーズンパスは会社に直接お金が入ります。が、しかし、夢プランは使わないとスポンサーさんが離れ、最悪のケースだとせっかくの企画自体が消滅する恐れがあります。

・・・!そうだ、シーパスを買って夢プランに申し込めばいいんだ!
なんちて。


posted by arroz |11:24 | コンサドーレ | コメント(0) |

2006年01月13日

メディカルチェック不合格の家

あ、いや、我が家の話です。
久しぶりだなぁ>エントリ

去年は結構忙しく働いていたせいか、ちょうどクリスマスあたりからノドの風邪ひきまして、たった1件しか予定のなかった忘年会も欠席。暮れも押し迫った頃には気管支炎を併発しました。ノドと胸の痛みに加え、咳のしすぎで腹筋は痛いわ体はダルいわで、正月はずーっっと粗大ゴミと化していました。抗生物質が効いたのか、ノドと気管支の痛みが取れて完治・・・、しない。。。喘息の発作も起きていたみたいです。完治まで約2週間ですた。
はい。二人の子供にもうつしたようです。軽かったですけど。
私、具合が悪くても滅多な事では食欲はなくならない性質でして、動かずにただ、食っては横になるという生活を満喫していた強いられていたわけであります。カッパユニなんてもってのほかです。
そうそう、数日間腹筋が痛くなるほどの咳をし続けると、そのうち腹筋が硬くなってきて下腹部に痛みが移りました。鍛えられたんだろうか?

さて、私が回復するのに反してかみさんがダウン。この時期、お腹にくる風邪をひく事がある彼女は、またいつものかと思っていたようですが、じつは盲腸でした。しかも既に破裂させており入院、本日手術無事終了。早期フッキ復帰祈る。
いや、ついでだ。早期フッキ(契約)も祈っておこう。

あ、今年もよろしくm(_ _)mです。


posted by arroz |20:34 | 雑記 | コメント(0) |