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2006年02月18日

4.失われた翼:98年

我が家の玄関には、サッカーボールの入ったバッグがぶら下げてある。
ふと、そのバッグに付いているリボンが目に入った。

 
   札幌が初めてのJ1を18チーム中14位で終えた1998年、
   厚別でのリーグ最終戦。
   全ての来場者に配られた水色のリボン。
 
青い翼運動   スタジアムへ集まった人たちはその意味を理解し、
   自らの意思によりこれを付けた。
   僕を含めた赤と黒のレプリカの、決して少なくはない
   腕に巻かれたフリューゲルスのバンダナ。

   試合のことなんてよく覚えていない。
   正直、そんなことはどうでもよかった。

   ほとんどの人たちにとっては、どうしようもないところで、
   フリューゲルスが、その翼を奪われようとしている。
   そんなフリューゲルスを愛する人たちに対して、
   やはり何もしてあげられない僕たちの無力さ。

   前年末、コンサドーレ札幌の資金難による経営危機が報じられた。
   僕たちは選手たちと一緒に、街頭でチームの支援を求める署名活動をした。
   街ゆく人や知人など、多くの人にカンバッジを買ってもらった。

   いつもとは雰囲気の違う厚別のスタンドで僕は、
   そのときの事を思い出していた。

   両チームの関係者が揃って場内を1周する。
   僕たちはフリューゲルスのために、声をからした。
   いや、自分たちの未来のために精一杯の声援を送っていたのかもしれない。
 

いま、生まれ変わろうとしているチーム。
躓きながら、不器用にだけれど、少しづつ前へ進もうとしている。

繰り返してはいけない。
どんなことがあっても、あきらめてはいけない。
あんな気持ちにさせられるのは、もうごめんだ。
あらためてそう思った。

今年も愛するチームを応援できることに、幸せを感じるから。
 


 
私にとって98年といえば真っ先に思い出すのがこのことで、次にJ2降格、最後に長男誕生という(笑)順番となっています。98年を語るにはまずはここから、ということです。
 
 
あれから4年以上たった2003年の春、首都圏に住む私の友人はこう言いました。

   『私にとってはフリューゲルスは永遠です。
   今でも好きなチーム、サポートチームはフリューゲルスで、
   決して元サポーターではなく現在もサポーターといってます。』

そして彼女は、こう付け加えています。

   『横浜FCも最初の頃は応援していたけれど、まったく違うものをフリエの代わり
   として応援することは不可能でした。
   代わりにはならないから、代わりではなくまったく新しいものとして(横浜)FCを
   見たときに、自分の求めていたものとは違うむなしさを感じて自然と離れました。
   嫌いとか好きとかではなく、一つのチームとして、見て応援しているつもりです。』
 
 
いつの日か“フリューゲルス”が自らその翼を再生し、横浜Fマリノスのもとから大空にはばたく日が来ることを願わずにはいられません。


posted by arroz |07:26 | 10年 | コメント(3) |

2006年02月07日

3.川崎戦と昇格を決めた日:97年のおまけ

カウンターが付いて「たくさんの方が見てくださっているんだな」と嬉しく思う反面、ガラス張りの檻に入れられて地下街の小鳥の横にでも並べられたようなこっぱずかしさを感じる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
おまけにしちゃ長いけど、ま、いいでしょう。
 
 
97年5月25日、厚別競技場。6連勝で迎えた川崎フロンターレ戦。
2点のビハインドで折り返した後半、ウーゴのゴールで1点差に詰め寄り更に攻めてるんだけどあとひとつがなかなか出ずに、残り2分のところでカウンターから追加点を許してしまいます。これで札幌1-3川崎、さすがに厳しいかな、と、当時のA自由席バックスタンドアウェイ側で思いました。でもね、そこからが凄かった。
当時の月刊コンサドーレ(vol.11)にはね、“バルデスの浮いた玉でのループシュートは相手ゴールキーパーの頭上を越えて、ゆっくりとゴールを割り、「3対2」。このゴールが決まった瞬間、ベッチーニョの3点目のゴールを悔やんだものだ。”とあります。でもね、スタンドにいる私はその時まだ負けているにもかかわらず、「いける!」って思ってました。「やばいかな?」って思ったのはベッチーニョのゴールが決まったときのほんの一瞬。もうね、過ぎたことはくよくよしないの(笑)「とにかく行けーっ!絶対追いつけるぞ!」って感じ。私の周りに座っている人たちも、たぶんそんな雰囲気だったと思いますよ。
結果は皆さんご存知のとおり(^^)です。

あの頃のスタンドってね、負けていても、なかなかゴールが決まらなくても、応援のテンションは下がらなかったような気がします。そりゃそうですよね、あんな試合見せられちゃ。どんな状況だって「何とかなる」って思っちゃいますよね。

そんな試合を目の前で見せられて、目の前で見てないんだけれど9月のアウェイでの川崎戦でこれと同じような試合をやってしまえば、そりゃもうあなた、『だって、こんなに強いじゃん!』みたいな根拠のはっきりしない自信で私の胸の中は満ち溢れていき、昇格を確信(盲信?)していくわけですね。
勢いがあるチームってそのまま行っちゃうんですよね。ちょっと負けてみてもまわりが追いついてこないの。それに引きかえ昇格できないチームってぇのは、まわりが負けてんのに自分も勝ちきれなくて順位を上げられない(特別出演:’05札幌)。
 
 
ちなみに優勝(昇格)を決めた試合は聖地厚別。
10月22日、水曜日ですよ。平日の夜。その日は会社(当時)から終業後に厚別へ直行する予定で、レプリカやら応援グッズ一式をカバンに詰めて会社に行ったんです。当然仕事に集中できるはずもなく、朝からそわそわ。
――― そんなダメダメな私を、神様は黙って見逃してはくれなかったのですよ。
お昼頃、会社にお通夜を知らせるファックスが届きます。開始時間は試合開始と同時刻です。当時私がいちばん世話になっていた取引先の方の御身内ということで逃げることは不可能でした。(T_T)えーん。
午後8時過ぎ、お通夜のあと急いで厚別に駆けつければ歓喜の瞬間には間に合ったと思われるのに、すっかりしょぼくれた私は、なぜかそのまま自宅へと戻り、スタジアムで観戦した妻の帰りを待ったのでした。黒いネクタイさえはずしておけばいいのに、なぜ厚別へ向かわなかったのか、いまだに自分でも分かりません。。。
ちなみにこの日、優勝(昇格)を決める瞬間をはじめ、コンサに関する映像が全く(ニュースすら)頭の中に残っていません。試合の生中継ってあったのでしょうか?それすら思い出すことができないのですorz


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posted by arroz |22:27 | 10年 | コメント(0) |

2006年01月27日

2.圧倒的な強さの裏には:97年

高校選手権得点王の新人・吉原宏太の鮮烈デビュー直後の試合、期待のエース・アルシンドの『バカ15連発』でいきなりズッコケさせられた96年。この頃からネタチームとしての資質は持ち合わせていたのかと思うとorz そのアルちゃん(こないだテレビに出てフットサルやってたような気がするが、、、)結局5試合出場、うち2試合で退場、4試合出場停止、1ゴール(点とってたんだ!)という 輝かしい 成績を残し退団、シーズン終わりには「あぁ?そんな選手いたっけかねぇ?(-。-)y-゜゜゜」なんて声まで聞かれる始末。結局この年、チームはJFL5位と目標の2位には届かずに終わったわけです。

96年シーズン、クラブは昇格できる自信が結構あったのでしょうか?これではイカンとばかりに年末の大量解雇(知ってましたか?引退など様々な理由を含みますが1996年1年間しか在籍しなかった選手が、なんと31人もいたということを!;最近のイヤーブックの後ろのほうを見てね)と、「今年こそは!」の今思えば無謀と言っても差し支えないような高額補強(『今思えば』ですよ。そのときは何とも思わなかった)によって生まれ変わった’97コンサドーレ。今となっては「誰それは高い」だの何だのとネット上を賑わす選手補強ですが、あの頃は私も(あなたも?)会社(HFC)の財布の中身を気にしてなんかいませんから、名のある選手・実績のある選手がわんさか来ることを手放しで喜んでいたものです。雪だるま式に借金が膨らんでいるとも知らずに。くわばらくわばら・・・。

正直ね、私もJに上がれば何とかなると思ってました。Jリーグバブルってうちにもあるもんだと思ってたのね。「J行ってお金集めればもっと強くなれるんじゃないか」って。ホントはただ表面だけキラキラと輝いているだけの泡なのに。ちょっとつついただけで壊れてしまうのに・・・。

結局コンサドーレは、97年シーズンを圧倒的な強さをもって制しJリーグ昇格を果たすわけです。

ドーレくん(たぶん1号)写真は97年11月3日に行われたJFL優勝パレード(札幌市役所→すすきの→大通西8丁目)と、大通公園西8丁目ステージで行われた優勝報告会の様子です。すごい人出ですねぇ。で、当日はこのあとアクセスサッポロでファン感イベントがあったんですね。
 

石井さんがカメラ目線
 
 すごかったですよ。もうお腹いっぱーいって感じの一日でした。ちなみに、優勝報告会の直後、目一杯急いでアクセス行ったんですが、アクセスの正面駐車場は並ぶの大好きなコンササポさんたちで既に膨れ上がっていたと記憶しています。


 
石井さんが笑顔でこっちを見ている



『優勝だ、昇格だ、Jリーグだ』と、すっかり浮かれ気分で年の瀬を迎えようかと言う時に事は起き、と言うか発覚するわけです。HFC会長でもある今井春雄氏の丸井今井社長解任と多額の累積赤字の存在。今井氏の道内経済界での影響力の大きさは言わずもがな。彼に負うところも大きかったHFCの資金繰りは、一瞬にして暗礁に乗り上げることになってしまいました。

「こりゃ、えらいこっちゃ」クラブも、選手も、サポ(私のことだが)も真っ青ですよ。「どうしようどうしよう」ってオロオロしていたらカンバッジ販売と応援の署名集めをするって言うじゃないですか。行きましたよ、かみさんと共に。「とりあえず行ってみよう」って。

12月20日、私たちは当時丸井さんの隣にあったコンサドーレショップに向かいました。そこに来ていたムラとつよしくん、名前も知らないサポ仲間らと共にショップ前に立って、街ゆく皆さんにカンバッジ買ってもらって、応援の署名をしてもらいました。そのときの募金・署名活動内容はconsa de consaさんのページに詳しく書かれています。
とてもたくさんの方に協力してもらいました。「がんばってね」と声をかけてくれる人もいました。私の会社の同僚(当時)たちにも、行きつけの喫茶店のマスターやそこに来るお客さんにも協力してもらいました。
発足してたった2年の、2年しか経ってないのにこんなことになっちゃってるチームを、すごくたくさんの人たちが応援してくれました。

忘れられないですよ、あのときのことは。たぶん、一生。
 

私は、97年から01年頃までの2003年頃まで、コンサに関する新聞の切り抜きをそれこそファイル20冊近く集めていました。でもね、昇格の切り抜きとかは全部捨てました。97年のも、00年のも。残っているのは財政危機・チーム存続が危ぶまれるという記事、そして98年J2降格の記事がほとんどです。
あの時のことは忘れちゃいけない、っていうか忘れられないのですけどね。『這い上がる』ってJ2からJ1に上がるなんて、大した事じゃないと思ってます。債務超過を解消して、赤字を解消して、やっとアリ地獄から這い上がったような気持ちになれるのかな?まだまだ、やることはいっぱいありそうです。
昇格の記事なんて取っておかなくてもいいかな?って、これから来るその瞬間をこの目で見ればいいかなって思ったんです。そして、そのときの新聞こそ二度とないコンサ昇格の記事として取っておきたい、と。


posted by arroz |00:47 | 10年 | コメント(0) |

2006年01月22日

1.三菱ダイヤモンドサッカーとピエール・リトバルスキー:~96年

決意表明からはやひと月半、決して忘れていたわけではありませんよ。なにせ、いつどこで何があった的なことが苦手(そろそろ清野のハットトリックがいつの何戦だったか忘れてしまいそうw でも、“清野がハットトリックした”ということだけは何とか覚えているという感じ)な人間ですので、記憶に残っている事象がいつ起きたのかくらいは資料でチェックしているつもりですが、多少間違ってても許してくだされ(指摘歓迎)。
それから、ここではコンサの10年について、あの年はこんな1年だった、と年表のように綴る 脳ミソは持ち合わせておりません つもりはありません。ということは、コンサの傍らにいた“私”のことが主体になるのかな?何はともあれ書いてみないと分かりませんけど。
さて、それでは始めましょうか。


 
「サッカーを愛する皆さん、ご機嫌いかがでしょうか。」
はい、三菱ダイヤモンドサッカーの時間がやってまいりました。毎週耳にした、金子勝彦アナウンサーの番組冒頭の一言ですね。解説は岡野俊一郎元日本協会会長でした。東京12チャンネル(テレビ東京)で1968年から20年にわたって放送されたこの番組、土曜日(だと思います)の午後6時、晩ごはんの食卓を囲みながら見ていることが多かったです。

---  懐かしいですね。あの頃はまだ、土曜日は会社や学校に行ってましたね。休みは日曜日だけだったですよ。私が小学生~高校生の頃の土曜日は確か半ドン、大学を出て就職した頃には会社は半ドン~4週6休~週休2日への移行期でしたね。しかし、週休2日と言っても残業の多かったその会社ではフツーに休日出勤してたような気もしますが・・・。

話がそれてしまいました。
その三菱ダイヤモンドサッカーでは、当時ほかでは滅多にお目にかかれなかった海外のサッカーを放映していました。その中でも、私の記憶にはブンデスリーガの試合が断片的に残っています。正直、どんな試合だったか、どんなプレーがあったかはほとんど覚えていません。でも、金子アナの口から「オクデラ」と言う名前を数多く聞いた覚えがあります。その選手はサイドにいて上下の運動量の多い選手だったと記憶しています(あくまで記憶ですからw)。そう、古河電工、1.FCケルン(独)、ベルダー・ブレーメン(独)などで活躍した奥寺康彦氏(現横浜FC・GM)のことですね。で、奥寺も所属した1.FCケルンには、後に来日しJEF市原などで活躍することになる、ピエール・リトバルスキーもいたわけです。

---  サッカーは見ることはあってもプレーすることはほとんど無かった子供の頃、空地では草野球を見かけても、ボール蹴ってる子供はほとんどいませんでした。入った中学にサッカー部はあった。確かにありました。しかしですよ、前髪がひさしのようになっているI君とかね、ええ、まあ、その、ちょっと怖かったわけですよ>サッカー部の人たち(当時)。サッカーじゃなければほんとは バレエ バレー部に入りたかったんですが、私の通っていた中学にはありませんでした。で、友人に誘われるがままに、小学生のときにやっていた剣道部に入ってしまったのです。

また話がそれましたね、リティの話をしなければいけません。でも、彼に到達するにはコンサの話をする必要があります。
コンサドーレ発足時ですが、誘致賛成の署名はしたような気がします。あ、いま「気がしますって、あんたねぇ?」とのツッコミが聞こえてきましたが、なにせ、覚えてないモンは覚えてないんだからしようがありません。ただ、私の家には当時(株)イエローページから発行されていたコンサドーレマガジンが、なぜかvol.8を除いて創刊時から揃っているので、サポと呼べるほどではないにしろコンサファンであったことは間違いなさそうです。
さて、96年のコンサドーレ札幌はJFLの舞台で戦っています。当時ブランメル仙台にはドイツから93年に奥寺氏に連れて来られ、JEF市原で2シーズンプレーしたリティがいました。

---  私は古河の鉱山があった町の古河系の病院で生まれたせいでしょうか、子供の頃からJSLとアイスホッケーは共に古河電工を応援していました。1960年頃は、この2チーム結構強かったんですよね。だから今もJEF千葉はどちらかといえば好きだし(コンサとは比べようもないがw)、アイスホッケーはバックスファン (コンサとは存続の危機つながり) です。

リティが厚別に来る。三菱ダイヤモンドサッカーで見たことのある彼を目の前で見ることができる。それは私にとってとても魅力的でした。96年の七夕の日、 天の川 津軽海峡を挟んだ 織姫と彦星 仙台と札幌が厚別で対戦しました。試合は札幌3-0仙台で、数字上は札幌の完勝です。試合の詳細は例のごとく記憶にありませんが、そのとき私が感じたのは『なかなかやるじゃないの、コンサ』と、『リティ、やっぱすげーよ!』でした。私が見たリティは、この試合で彼が魅せた足技は、紛れもなくブンデスリーガで活躍していた、三菱ダイヤモンドサッカーで見たことのあるそれでした。

 
おまけ:コンサドーレマガジンを見ると、当時の仙台は試合の序盤リティをCBに入れて守りをかため、勝負をかけるタイミングでは本来の中盤に上がりゲームを支配する、というシステムをとっていたようです。また、リティは94年の市原で現役生活を一度終え、96年に復帰しています。そういえば、ごっさんも一度やめて復帰したんだよね。。。


posted by arroz |18:58 | 10年 | コメント(0) |