2008年11月12日

点を取って勝つとはどういうことか

ひさびさ


さて書きます。今年は良くも悪くもダヴィ様頼り。

点を取ること。それはゴールにボールが入ること。物理的にそうでも、状況というのがあれこれある。

其の中でも試合に勝つためのゴールというものがある。これは単純に勝ち越しゴールとかそういうことではない。

ではどういうことか。それは、自分達でもぎ取ったという実感の気持ちが湧き上がって来るゴールである。

其のゴールは単に上手い外人に預けれ居れば生まれるものではない。人に任せるゴールと、自分で取りにいって奪ったゴールとは全く別物なのである。

今年の最たる失敗として、日本人によるゲーム造りが出来なかったということだ。

今年の中頃、クライトンを挙げて「麻薬」的要素があると説明したはず。頼りすぎて自らのサッカーを失っている。元のサッカーに戻るには途方も無い時間がかかる。何よりも「自信」を失ってしまった。サッカーに限らず仕事も勉強も、恋愛も自信を失ったらそこでアウトだ。何よりも意欲や諦めない気持ちを忘れてしまう。

クライトンは素晴らしい選手だが、チームのレベルに合っているレベルの選手ではない。頼ってまでJ1で戦うのならば、契約しない、あるいはJ1になんて上がらなければ良かったんだ。


本題から逸れたが、今まで長くJリーグを見てきたが、今ほど1ゴールの重みが軽い時代はないと感じる。

それだけ以前のゴールには「意味」があったし、試合における両チームの意識に深く食い込むものはなかった。

正直自分でも上手く表現できていると思えないので、もうちょっと書く。
ゴールっていうものは、偶然入ったにしろそのプロセスが重要だということ。

こうはっきり書いてしまえば、それ以上読む必要が無いように思うだろうが、サッカーのゴールの重みっていうものが違うと感じる根拠に、昔のサッカーは試合中のチーム間のやり取りや対立心、敵対心、そういったものがより強かったと思う。今ブログをみても、浦和に賛辞を送るとか、相手のほうが上手だったとか相手を認める発言や、妙に馴れ馴れしく相手を褒め称えているものが結構見受けられる。 相手なんて関係なかったはずだ。

先制点の重みはウィルらがいたJ1の時と、今の三浦のと違う。
ウィルのは、チーム全体で戦う意識があり、誰も怖がらず恐れず最後まで戦った(笑)何よりも田淵・大森のようにそのポジションに大きな責任感と自分の縄張り的オーラを感じたし、それ以上に各ポジションとの連携技や、今でいう流動的動きや、守備のケアも全員で1つではなく、個々がまずしっかりとした力量と他人には譲れない自信があったはずなのだ。

特に田渕は前のJ1の頃よりやってきていたベテランであったし、腰の落ち着いた選手だった。

若い今の選手に必要なのは経験なのである。例え失敗してもいいから結果が出なくたって、自分の力で何かをやるということなのである。それは私、自分自身にも通じるし、よく「人に任せると、上手くいってもいかなくても後悔する」という事が言われるが、まさにそうで、自分自身がやらない限り

責任感も力量もつかず、残るのはやらなかった自己欺瞞や不安ばかりだ。
これ以上書く義務がないと思うので後は何かしらの方法で選手がそれを感じ取り、やるしかない。

人間、社会に出てから、やるか、やらないか、これだけで大きく2つの人生に分かれてしまう。きっと自分が死ぬときに思うんだろうな。

監督三浦は結果が出ないから、解説平川もプロは結果が全てと言うが、
それはモノを簡単に見たときの言い分であって、中身、ゴールの成分としてのプロセスの中身がどれだけ重要なのかという、そうした取り組みや考え方の必要性すら殆んど語られていない現状なのである。

これを真の気持ちを持って最重要視した時、本当に負けない試合が作れる。本物のチームになるのである。

要は、自分たちで責任もってプレーしてんなら、そんなに簡単に失点するはずないし、意地があるってことだ。 これだけのことが言いたい為に長々と書いたが、長々と書くことに意味があるのだ。


田渕の居た時代、確かにウィルやエメルソンを凄いとは思ったが、それを前にしても自分のプレーに自信と誇りを持ってプレーしていたはずだ。

posted by hokkaibi |20:46 | トラックバック(0)

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