2008年04月14日
2話
オレが本格的にサッカーを始めたのは中学校に入ってからだった。 小学校の頃は地域のクラブチームでサッカーをしていたが、練習というよりも遊びメインのチームで試合も数えるほどしかしなかった。 進学後にサッカー部に入ったのは、そのころから仲の良かったケンが入部するという話を聞いたからなんとなくだった。 入部してみると、やっぱりキツイ。 基礎がほとんど無いオレは、地域の少年団等でサッカーをしていたヤツらから見ると初心者も同然の状態で、リフティングもロクにできない状態。 1年の最初の練習は球拾いとかばっかりだったから、そいつらとの差を縮めるにはプラスアルファの練習をしなければならなかった。 犬のように走らされまくって吐いたし、同級生がシュート練習している時に、オレは一人壁に向かってパス練をしていた。 だから、遊びの中でさえオフェンシブなポジションをやらせてもらうことなんか一度も無い1年間。
自然とオレのポジションはディフェンスへ。 何度もやめようと思った1年目だったが、何とか持ちこたえたのは1コ上であるシミズ先輩のおかげかもしれない。 シミさんは、「技術で勝てないなら他の所で頑張るしかないだろ。もっとプレー中にも頭を使え。もっと声も出せ。」と、アドバイスしてくれた。 丘中は3バックを採用していて、最終ラインに3人のセンターバックが並ぶ。 左右のセンターバックは「ストッパー」と呼ばれ、主に相手チームのツートップをマークする。真ん中のセンターバックは「スイーパー」と呼ばれ、その名の通りsweep、ストッパーをサポートして一掃するのが仕事だ。 シミさんはウチのエースストライカーで、オレが2年生の時にはキャプテンになっていた。 オレはというと、練習試合でも補欠の状況。 練習中にシミさんをマークしていると、オレに背中を向けながら「それじゃあ(距離が)遠い。」とか、「予測しろ。ポジションを考えろ。」と、みっちりオレに「知識」を教えてくれた。 シミさんは、高さや速さは特別ではないがゴール前に入ってくるタイミングが絶妙だった。 監督が腰掛け顧問だっただけに、サッカーを「知っている」先輩は本当にありがたかった。 オレも、追い抜かれたフォワードに追いつくような俊足もないし、相手フォワードをぶちかませるような高さや強さも無かったから、せめて人一倍サッカーを知ろう、考えようと思った。 一歩分追いつけないのなら、最初から追いつける範囲を予測して、そこにいればいい。 高く飛べないなら、相手を飛ばさなければいい。 どうにもならなければ、自分より能力のある味方に指示すればいい。 そう、気づけばオレはサッカーに夢中になっていた。 寝る前には状況をシミュレーションして寝たし、味方のプレーや特徴を全て頭に叩き込んだ。 先輩や後輩、同級生達とたくさんサッカーの話しもした。もちろん練習もそれまでよりももっとやった。 飛べないからといってヘディングができないのでは話にならない。 スタミナが切れて考えられなくなっては意味が無い。 「ディフェンダー」というポジションがオレにサッカーを続ける道をくれている気がしていた。 シミさんの代が卒業して、3年になると寡黙だが後輩からの信頼も厚いコウタがキャプテンになった。 そして、オレはついにポジションを獲った。 瞬発力に優れたケンが左、強さとチーム1の高さを備えたコウタが右。 その二人の良さを上手く生かし、突破された時の最後の壁になる、3バックの中央。それがオレに与えられた初めてのレギュラーポジションだった。 上手いキープやパスはいらない。二人をサポートし、簡単に安全にボールをクリアする。 それぞれ一芸に秀でたオレ達はすぐに息のあったコンビネーションを見せ始めた。 サッカー強豪校に入学したシミさんが練習試合を見に来た時も「ここ数年で一番いいんじゃねえか?」と言ってくれた。 お世話になった先輩の言葉がうれしくて、思わず涙が出た。 そしてオレたちは中学校最後の大会に向けて、最後の追い込み練習をした。 特に3バックとその前のボランチで入念に守備練習を積んだ。 どこで相手ボールを取るのか、ケースによって誰がボールに責任を持つのか、マークの受け渡しのタイミング、セットプレーの時の動き・・・。 大会が始まり、1回戦を完封して自信を持ち始めたところで次が岸中。 練習試合でずっと負けてはいたが、3年生になって最初の練習試合では1-2という競ったスコアだった。 やられた2点はPKと個人技。どうにか届くと思って臨んだ試合だったが、あの10番だってオレ達と同じ最後の大会だ。 練習試合から見るとさらにキレた動きを見せていた。
posted by sweeper |14:05 | ブログ小説 | コメント(0) | トラックバック(0)
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