2007年06月11日

希望の話をしよう――鈴木謙介「ウェブ社会の思想」

久しぶりに書評(っぽいもの)をしてみる。

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鈴木謙介「ウェブ社会の思想―〈遍在する私〉をどう生きるか」

ここでもさんざん語っているんだけど、著者の鈴木謙介氏というのは新進気鋭の社会学者で「文化系トークラジオ Life」というラジオのパーソナリティーを務めている人で、氏を知ったのもこのラジオから。社会学者なんだということを知って、著書「カーニヴァル化する社会」を読んだのがこの本を読むにいたった経緯、というところか。ちなみに仲俣暁生津田大介佐々木敦などのようにこのラジオではじめて知ったり、名前だけ知っていたけれどのちに深く知るようになった評論家や編集者、その書籍というのも多い。

さて、本の中身に戻ろう。
「ウェブ社会の思想」とタイトル(そしてイラストはASIAN KUNG-FU GENERATIONのCDジャケットなどを手がける中村祐介、という素晴らしいセンス!)が付けられているように、ウェブ社会(=情報化社会)によって人間の思想や生活はどう変わっていくのか?というようなテーマだと思ってまずは読んだ。
そしたら不覚にも、読んだあと泣きそうになってしまった。
社会学の本を読んで泣きそうになるなんて、はじめてのことだ。

この本は「ウェブ社会が何をもたらすのか」というテーマの本じゃない。
いまの社会の向こう側にある「希望」をひたすらに求め続ける本だ。僕らの未来にある「希望」を見出すための本。これはそういう本だ。そのために本書は現代の情報化社会の現状と未来、それらがもたらす人間への影響を深く論考している。ユビキタス、バーチャル、それらが招くネットワークの変化の波を抜けた向こうに見えるであろう「希望」が、この本のテーマだ。


そして社会学的にいうのならば、本書におけるメインテーマは「情報社会における『宿命』の前景化」ということだ。情報化社会によって蓄積された情報が、たとえばAmazonのレコメンドやiTunes Storeのように個人が動くと「情報そのもの」が勝手に先回りして現れるようになるということ、つまり「人が自分の人生に関する未来を選択すること、それが宿命のように、前もって決められていた事柄として受け取られる」(p17)ことで、人間は「自分が選んできた人生は、こういう結末しか有りようのなかったものなんだ。けれども、それでいいんだ」(p17)と自分を納得させることで「宿命」を受け入れながら生きていくということだ。しかし、どうしてその「宿命」は出現してしまったのか、閉じられた「宿命」の外に出る術はないのか。宿命を打ち破る「希望」はどこにあるのか、そうしたテーマについて社会学的問題を挙げながら述べていく、という本である。

著者はこの情報化社会での一つの大きな流れとして、まず「ユビキタス社会」を挙げる。現代および現代から向かう未来は個人に関するあらゆる情報が蓄積され、管理され、運用される社会であり、それは究極的には「いつでも、どこでも、何でも、誰でも」コミュニケーションができる」という「ユビキタス社会」であると定義づけている。
しかし、この流れの中で人は本来その人本人が持っていた情報を「あちら側」に持っていかれたため、個人は「自己責任」と「判断性」が奪われてしまう。
そこで、そのふたつを補完するものが「宿命」という仕組みだ。上記のような社会というのは、つまりは「ある選択肢がシステムによってはじめからなかったことにされる=ある選択肢が開かれると同時に、別の可能性が選び得ないものになる」という現象が起きる社会である。当然ながら人間は一つだけしか示されていない選択肢を前にして「このまま進んでいいのだろうか」と悩むことになるだろう。それに対して「この選択肢でよかったんだ」後押しするのが「宿命」という考え方だ。「これは宿命だよ」と根拠がなくても後押しすれば、人はその選択肢の中に取り込まれる=「宿命」を受け入れる、「宿命の中で生きることを受け入れる」ことができる。
「宿命」はそこで最適に情報化されたデータを持って人の前に現れる。そして目の前にいる人に対してこう諭す。いまキミがいること、選ぼうとしていること、すべてが「宿命」であり、キミはその「宿命」を受け入れて生きていくほかないんだよ、と。そうやって人は「宿命」を受け入れる。そこは繭の中のように閉鎖的で、だけど安心できるような場所。何もしなくていい、これからは「宿命」が僕を運んでくれる――そんな幻想を「宿命」は僕らの前に見せてくる。

でも、その「宿命」をどうしても受け入れがたい場合、僕らはどうすべきなのだろう?どこへ向かって、何を探せばよいのだろう?「宿命を受け入れる」ということは、是なのか非なのか?
そういったことを非常にシンボリックに書いているマンガを著者は挙げていて、それが古谷実の「ヒミズ」と「シガテラ」だ。「ヒミズ」は「自分は特別だと思っていたのに、特別ではないという『宿命』に悩まされ、自死という方法で宿命から逃れようとする」話だが、「シガテラ」は「自分にかかわる人間はみんな不幸になるという『宿命』の外へ飛び出そうとし、その結果として『オマケ』の人生を穏やかに暮らすことになる」といった対極にある話だ。また、西尾維新の小説「戯言シリーズ」(特にその最終盤)では、その小説の中で「『宿命』を受け入れることを断念することを『断念する』」ということによって、「宿命」の外へと生きていくことを決断する。
つまり、「宿命」から外に行くことはできるのだ。「断念を断念する」という手法を使って。だけど、「宿命」の外に何があるかは語られない。それは個人によって異なるからだ。「セカイ」を断ち切って「宿命」の外へ出るには、まず「宿命化されている」と自分の感じているような関係そのものをとらえ直し、自分が変わらなければ何も変わることがないからだ。その方法もまた、皮肉にも社会が盛んに言い立てる「自己責任」で見つけるよりほかないのだ。

では、宿命化する社会をとりあえず僕らはどのように生きていけばいいのか?僕らは「宿命」という決められた選択肢の中で生きているにもかかわらず、社会はそこから「オンリーワンになれ」「成長し続けろ」と、矛盾した言葉を絶えず言い続ける。耳をふさいで、そんなのできない、と叫べば社会は甘い言葉で「キミはもともと特別なオンリーワン」なのだと囁くだろう。そうやって僕らは「宿命」に押し込められていく。この状況を解決するにはただ一つ。「宿命的に自分は特別なのだ」と無理に思いこむこと、根拠なき断定を力強く行うこと。そんな無茶な方法で生産したモチベーション(著者の定義する「カーニヴァル」という現象)だけを頼りにその日を生きていくこと、それしかない。そうやってこの「宿命」から逃れるために考えて、いつか飛び越えた先にワーキングプアとか下流とかそんなものは別次元にある「希望」が見えてくるのだ。

現実を破らなければ希望も未来も見えてこない。僕らを取り巻く社会は、ユビキタスとバーチャルで得たデータベースを武器にして、まるで牧羊犬が羊の群れを追い込むように「宿命」の中に僕らを囲い込もうとしている。そうして囲っておいて「キミはもともと特別なオンリーワン」だと教え込んでいこうとしている。でもちょっと待って欲しい。選択肢は一つじゃない。ひょっとしたらそれは「宿命」でないかもしれない。そう思った人は、自分が思う「希望」への道が見えているはずだ。この小さな「セカイ」と飛び抜けた向こうにある、と。
だから、これが運命だとか、決まったことだとか、言わないで欲しい。昔見ていた「希望」は、すすけていても汚れを取り戻せばまた輝いて見える。いまの状況を観察してみよう。そうして、この時代にある「希望」を探してみよう。宿命の外に出たからと、孤独をおそれず、孤立をおそれず、ただ自分が見定めて信じる「希望」に向かえ。それが窮屈な情報社会の破り方だ。

※参考文献とか

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「文化系トークラジオ Life」


イラスト・中村祐介氏のHP「檸檬通り」

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鈴木謙介「カーニヴァル化する社会」

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    古谷実「ヒミズ」

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    古谷実「シガテラ」

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    西尾維新「ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い」



posted by ishimori |23:39 | books | コメント(1) | トラックバック(2)

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