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札幌市在住のダイです。無類のフリーキックマニアです。サッカー以外にも野球やモータースポーツ(特にF-1)も大好きです。水曜どうでしょうとSaku Sakuが大好きです。

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携帯電話の功罪について考える

2006年06月30日

今や誰もが持っている携帯電話。僕も98年10月から使い続けています。本当に便利になったなぁと感じる今日この頃・・・


いつでもどこでも電話を掛けられる、今ではインターネット機能がついているわけだからメールのやり取りだって自由自在だ。

携帯電話に限った話ではなくパソコンの普及に伴ってインターネットを通じて様々な情報を得る事ができる。例えば新聞なら明日にならないとわからない情報もインターネットならその場で知る事ができるわけだ。

僕たちはそのデジタル化の恩恵に浴している。もう生活にはなくてはならないものと化してしまった。

しかし、どうだろう?デジタル化された生活の中で僕たちの思考回路もデジタル化されてはいないだろうか?

先月の話、床屋で髪を切ってもらっていた時、店内から流れるラジオの内容が携帯電話に関するものだった。リスナーの投書に対してパーソナリティーは個人的な意見だと思うがこのように述べていた。

「確かに携帯電話の普及によって私たちの生活は便利になりました。でも、例えば自分の勝手で『ああ、今日は無理ですゴメンなさい』って電話を切り、そして電源を落とすことで他との連絡手段を閉じてしまう。これほど身勝手で無神経な事があっていいのだろうか?メールでもそう、『ごめんなさい』とメールを送信して、相手から返信メールが来ないように設定すればその人との関係が切れると考えている人もいる。これもおかしな話で、人間としての感情が伴っていないんじゃないかと疑ってしまう。」

確かにその通りだと思う。そんな形でしかコミュニケーションを培うことができないなら、考え方がデジタル化、もっと言えば機械化されたものなんだろう。それは果たして人間がするものなんだろうか?

人間は喜怒哀楽を持っていると思う。喜ばしい事、哀しい事、怒る事、楽しい事・・・そんな感情があるから人間でありうると思う。でも今のデジタル化によってその感情が無くなっているのかも知れない。例えば道端に咲く1輪の花を見て、「ああ、綺麗だねぇ」とか何ともいえないような夕日を見て「ああ・・・すごいなぁ」って感嘆な言葉を述べることもできなくなっているのかも知れない。

ここ最近起きている少年少女の犯罪、15歳未満の子供たちが人を簡単に殺してしまう世の中、その原因の背景にもこうしたデジタル化の影響はあるんじゃないかとさえ思ってしまう。インターネットを通じて人が殺された場面の映像を見る事だってできるだろうし、人の殺し方なんてものを知ることだってできるだろう。テレビゲームの進歩によって、血しぶきや悲鳴など人を殺すアクションがリアルになってしまったため「現実と空想」の見分けがつかなくなっているのかも知れない。これは果たして好ましい状態と言えるだろうか?

話を携帯電話に戻そう。

携帯電話の普及に伴って流行したEメール、ここ最近では「手書きの手紙」がかなり見直されているらしい。確かに手書きの文章には書き手の感情が伝わってくる。例えば「ありがとう」の一文を書いた時ワープロで打った文字と手書きで書いた文字を見ると書き手の感情の伝わり具合は一目瞭然である。

こういった事を今見直してもいいんじゃないだろうか?

文字で情報や内容を伝える事はできる。でも手書きの最大のメリットは「感情を伝えることができる」というものだ。こればかりはワープロやEメールではできないことだと思う。

人との繋がりを持つ点では確かに便利な世の中にはなってきた。こんな便利な世の中だからこそ、人としての感情が伝わる「アナログな接し方」というものを見直してもいいんじゃないかと最近感じました。