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2020年03月06日

事実と現実の儚さ

今までコンサドーレ関連以外でのエントリーはありませんでしたが
今回は「サッカーまるで関係ない」話を書きます


87歳の男性が16歳の女子高生を車で轢いてしまった
その判決が

「無罪」

男性は既往歴があり薬による意識障害を運転中に起こしてしまい
今回の事故を引き起こしてしまった

この判決に不快感を抱いた人は少なくないと思う

裁判長の言葉で
「同じ悲劇を繰り返さない為の無罪判決」
という言葉があった

確かにこの判決によって高齢者ドライバーが増えるとも思わない
ひょっとしたら高齢ドライバーの存在によって
歩行者の安全性を高める努力を国がするかもしれない

でも裁判ってそういうものなのかな?

起こった事象に対して司法という基準に照らし合わせ
罪と罰を拮抗させる
これが「法治国家としての在り方」なのではないだろうか?

この事故・事件によって何かを学ぶのは大切
こんな悲しい事件を「知る」努力を国民一人一人がしなければならない

しかしそれは「司法の範疇」なのだろうか?

こういう時
「自分の身内なら」
「自分の大切な人なら」
「自分だったら」
という論調が出てくるのは当然

当然だけど「司法」にはそういうものを持ち込むのは絶対に間違っている
関連のない第三者による公平性・司法の最高機関である裁判所
そして裁判官が自覚・矜持を持って決して情に流される事なく裁くべきだと思う

個人的な感情を書くのならば
「判決に恐怖を感じる」
という感じ

日本は法治国家で
自分含め国民全員がその恩恵を受けている
そこの決定に不満不服はあれど受け入れなければいけない
人間としての感情はグッと堪え
「日本の法にはこういう考え方・解釈の仕方というものが存在する」
と飲み込んでいくしかない

事実と真実

似てるようでまるで違う2つの言葉の意味
時には人を傷つけ
時には人を守る
需要供給曲線のように交わる事はないのだろうね

だって事実には「背景がない」から



飯塚幸三氏の裁判はどうなるのだろう?

posted by love2003 |12:59 | コメント(0) | トラックバック(0)