2006年03月01日
【スター列伝】播戸竜二
現在Jリーグの各クラブでレギュラークラスとして活躍しているプロ選手というのは、そのほとんどが過去何人もJリーガーを輩出しているような名門校の出身か、あるいはJリーグのクラブユースの出身の、いわゆるサッカーエリートたちです(超人でいえばロビンマスク)。トレセン制度やスカウト網が発達した昨今では、プロで通用するような選手が無名のまま埋もれているということはほとんどなくなったと言っていいかもしれません。しかしそんな中でも高校時代まで全国的に全く無名でありながら、プロになって活躍したという選手はごくわずかながらいます(超人でいえばジェロニモ)。代表例としては、今の札幌サポーターにとっては文句なしに上里一将なのでしょうが、筆頭格とも言えば今回取り上げる播戸竜二ではないでしょうか。
1979年8月2日、兵庫県姫路市の生まれ。香寺町立香寺中学校から姫路市立琴丘高校に進みましたが、高校時代は国体選抜の経験がある程度で全国的には無名の存在でした。1998年にガンバ大阪へ入団しましたが、入団とは言っても給料はほとんど出ない練習生契約で、実家のある姫路から毎日2時間半かけて練習に通っていたそうです。プロ契約の条件は「2試合に出場すること」。当時のガンバにはエムボマや松波正信、小島宏美らがおり、FWの選手層は決して薄いものではありませんでしたが、数少ないチャンスをつかんでこの条件をクリアしプロ契約を勝ち取った播戸は、持ち前のスピードと溢れんばかりの闘争心を生かしてこの年13試合に出場し2得点。翌1999年にはユース代表にも選出され、ナイジェリアでのワールドユース準優勝に貢献。所属チームでも途中出場が多かったものの25試合に出場して1得点を挙げ、この年のオフにガンバ大阪に移籍した吉原宏太との「交換レンタル」という形で2000年にコンサドーレ札幌に移籍してきました。
ワールドユース準優勝メンバーとはいえ、高原直泰、永井雄一郎、小野伸二、稲本潤一、小笠原満男、本山雅志ら錚々たるメンバーが並ぶ中、スーパーサブとしての出場が多く本大会で無得点に終わっていた播戸の知名度は決して高いものではなく、むしろ「そんな人いたっけ?」的な扱いで、同じ年に加入したエメルソン同様、必ずしも大きな期待を持って迎え入れられたわけではありませんでした。その上、やってきた経緯に加えて、吉原とは似たような背格好でプレイの特徴も似ており、さらにガンバでつけていた番号も同じ18番だったため、どうしても吉原と比較されてしまうのは仕方がない話で、前のシーズンにJ2で15得点を挙げた得点源と同時に人気No.1選手だった吉原の穴を埋められるかどうかという見方が強かったように思います。
しかし、札幌にやってきた播戸竜二はその予想をいいほうに裏切ります。サガン鳥栖との開幕戦で先制点を叩き込み、サポーターに向けて最高のアピールを見せました。ところが、この名刺代わりの一発も束の間、この試合で相手DFのタックルを受けて腰椎横突起骨折という重傷を負ってしまい早々に離脱を余儀なくされます。奥ゆかしく名刺だけ置いていった播戸が戦列に復帰したのは5月のサガン鳥栖戦。まるまる1クールを棒に振る格好となってしまいました。しかし復帰3戦目のアルビレックス新潟戦で決勝ゴールを叩き込むと、その後も持ち前のスピードとどんなボールにも食らいついていく執着心を武器にコンスタントにゴールを挙げ続け、エメルソンとの「すばしっこいちびっ子2トップ」は他のJ2チームの脅威となりました。この年の播戸の成績はシーズン合計で32試合出場16ゴール。エメルソンの34試合31ゴールという異常な成績に隠れてしまったのは不幸でしたが、前年の吉原と比べても全く遜色ない数字を残しました。また、人気面においても端正な顔立ちの吉原とは系統が違うながらも、やんちゃ坊主がそのまま大きくなったような、人当たりがいいわけではないけどどこか憎めないキャラクターで、地元出身の期待株だったルーキー山瀬功治(現横浜F・マリノス)を凌いでチーム一の人気を集めるようになっていきました。
というわけで期待以上の働きを見せた播戸ですが、ネックだったのは他の主力選手同様彼もまたレンタル選手だったこと。レンタル依存体質からの脱却は急務であり、幸か不幸かエメルソンの完全移籍に失敗したチームには、まだそのための資金が3億円近く残されていました。サポーターからも播戸の完全移籍を望む声が圧倒的でしたし、ガンバへレンタル移籍中だった吉原宏太が4000万円で完全移籍となることが決定的とされておりましたので、当然その吉原と交換でレンタルされていた播戸の完全移籍は確実だろうと思われていました。ところが結末は、吉原が完全移籍し播戸はレンタル延長。本人が完全移籍を拒否したのかそれともチームの事情なのかはわかりませんが、いずれにしても播戸は2001年もレンタルのままプレイすることになりました。
J1での播戸は相方がエメルソンからウィルに替わったものの、開幕戦から息の合ったコンビネーションを見せ、開幕戦の決勝ゴールやホーム開幕戦でのヴェルディ戦でのゴール、古巣ガンバ大阪戦での決勝ゴールなど重要なゴールを次々と挙げ、大量失点を喰らった清水戦ではチーム全体の気持ちがキレてしまっていた中、1人だけ気を吐いて意地のゴールを決めるなど、勝負強さに加えて負けん気の強さも発揮。また、「無名の苦労人のサクセスストーリー」という少年マンガさながらのサッカー人生が実際マンガになったり(「播戸竜二物語・少年サンデースーパー2001年12月号掲載)、コンサドーレの選手として初めて自身の公式サイトを開設して情報発信したりと、徐々に北海道以外にもその存在感をアッピールしていきました。
ところがシーズンも終盤になると、そのパフォーマンスは目に見えて落ちていきます。J1残留という目標がほぼ見えてきた頃はチーム全体に倦怠感が漂っており、特別に播戸だけが悪かったというわけではないのですけど、持ち味である裏への飛び出しはすっかり影を潜め、足元でボールを欲しがって何度もボールを奪われるシーンが多く見られるようになりました。今にして思えば、彼は彼なりに「ただ速いだけのストライカー」からの脱却を目指し、プレイの幅を広げようと必死だったのかもしれません。しかし、(少なくともこの時期は)スピードを忘れた播戸なんてベアークローのないウォーズマンみたいなモンです。1stステージでは6得点を挙げながらも、10月17日のサンフレッチェ広島戦の2ゴールを最後にゴールはぱったりとなくなり、2ndステージではわずかに3得点。もっとも、チーム全体でもそれ以降は6試合で2点しか取れなかったのですけど。結局この年はシーズン通算で29試合9得点という成績でした。
そしてこの年のオフ、当然のようにレンタル選手であった播戸の去就が注目されますが、結局サポーターの慰留も虚しく生まれ故郷である兵庫県のヴィッセル神戸にレンタル移籍。今にして思えば沈む船から逃げるネズミみたいなものだったのかも知れません。彼がもし残っていれば、翌年は…やっぱり降格していただろうな。
その後2003年に神戸に完全移籍を果たし、2004年には名古屋のマルケスと並んでJ1得点ランキング3位となる17ゴールを挙げ、シーズン通算では32試合で20ゴールという大活躍を見せました。ちなみにこの年の得点王はエメルソン(浦和・27ゴール)、2位に大黒将志(ガンバ・20ゴール)。得点ランキングトップ3を元札幌選手が占めるという、逃した魚は大きいシーズンでした。しかし昨年は怪我もあってあまり試合に出られず、2得点に終わりチームもJ2降格。今年からガンバ大阪に完全移籍し、7シーズンぶりに古巣でプレイすることになっています。
公称171cm65kgと決して恵まれているとは言えない身体で、サッカー選手としては裏街道を通りながらも日本有数のストライカーに上り詰めたのも、「火の玉小僧」と呼ばれた負けん気の強さがあってこそでしょう。ルーキー時代に、紅白戦で危険なファウルをしてきたダンブリーに右ストレートを食らわしたという逸話も残っていますが、そんな播戸も気がつけば今年で27歳。実はソダンと1歳しか違わないという事実が意外に感じられる辺り、播戸竜二という選手はやっぱりこの先も「永遠の小僧」で有り続けるのかも知れません。
posted by choo |23:57 |
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2006年02月15日
【スター列伝】関浩二
サッカー選手にも「ファッション」があります。といってもダンディズムな某キングとか有名ブランドの長マフラーとか黒ポンチョで成コレとかの私生活上のファッションではなく、あくまでピッチ上のサッカー選手でのファッションの話です。ただし、当然のことながら基本的にサッカー選手というのは決められたユニフォーム以外着用できません。まぁ世の中にはホルヘ・カンポス(元メキシコ代表)やホセ・ルイス・チラベルト(元パラグアイ代表)のような傾奇者なゴールキーパーもいますけど、少なくともJリーグではそれもダメっぽいですし、フィールドプレイヤーは言わずもがな。なので選手たちは、ルールに抵触しない範囲の限られたポイントで「こだわり」を見せなければいけません。ですから、たとえば髪を染めたりユニフォームの襟を立てたりと、数少ないポイントで精一杯のこだわているわけですが、その中で半袖への異様なこだわりを見せる「半袖プレイヤー」というのが存在します。半袖プレイヤーとは、年がら年中半袖ユニフォームだけでプレイする選手のことです。それをファッションと呼ぶのかどうかは意見の分かれるところでしょうが、暑かろうがが寒かろうが常に半袖というのは、ある意味漢らしさを前面に押し出したファッションということができると思います。
さて、半袖プレイヤーとしては、昨季限りで現役を引退してフロント入りした柏レイソルの薩川了洋氏が有名で、その他にもヴァンフォーレ甲府の杉山新(この選手も元柏)、マイナーなところでは日テレベレーザの中地舞といった選手もいますが、コンサドーレサポーターとしては、こちらも昨季限りで現役を退いた「板長」こと俺達のモリ…いや森下仁志氏と、そして何より今回取り上げる関浩二が思い出されます。というか、「コンサドーレの半袖」といえば真っ先に関を思い出す人のほうが多いのではないでしょうか。何しろ12月の室蘭での試合ですら半袖でプレイしていたという剛の者。男らしさを通り越して命まで顧みない、まさしく富樫源次の油風呂です。
というわけで関浩二は1972年6月26日東京都青梅市の生まれ。読売日本SCユース(現東京ヴェルディユース)から1991年に読売クラブ(現東京ヴェルディ1969)へ進み、1994年に東京ガス(現FC東京)に移籍。1996年から1997年までベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)に移籍したあと1998年に再び東京ガスにレンタル移籍(所属元は平塚)し、同年途中からコンサドーレ札幌にレンタル移籍してきました。
途中とはいっても、関が移籍してきたのが移籍登録期限ギリギリの10月21日。当時のコンサドーレはもともとシーズンはじめの登録人数が26人と少なかったこともありますが、同じ日に移籍してきた埜下荘司(横浜フリューゲルス)、その少し前に加入した棚田伸(柏レイソル)ともども、もはや出場が濃厚となっていたJ1参入決定戦回避、あるいは最悪参入戦「勝ち抜け」に向けての戦力補強であることは明確でした。しかし、移籍してきた半袖の関は、参入決定戦4半袖を含む8半袖に出場しましたがゴールを挙げることは出来ず、チームもあえなくJ2降格。結果だけを見れば、残留するためにやってきた選手としてはサポーターの期待には添うものであったとは言い難い出来でした。とはいえ、この年半袖の関は移籍前から古傷の膝を痛めており半袖以外は決して万全の状態ではなかった上、半袖の関が移籍してくる直前にウーゴ・フェルナンデス監督がフロントとの確執から解任され、事実上崩壊していたと言っていいチームにあって、移籍してきたばかりの半袖の関がどうこう出来る状況ではありませんでした。逆に、チーム全体に漂うあきらめムードの中、それでも何とかしようという熱いプレイはサポーターの半袖をつかんで離さなかったのです。参入決定戦の最終戦のアビスパ福岡戦でも12月の室蘭で半袖姿で登場。試合に敗れJ2降格が決定した時、人目もはばからず号泣していた半袖の関の姿に半袖を打たれた人も多かったと聞きます。
その半袖が認められたのか、翌1999年にはコンサドーレに完全移籍し、この年も関は当然のように半袖でプレイし続けました。しかし、シーズン通算で28半袖(リーグ・カップ・天皇杯合計)に出場したものの、途中出場や途中交代が多くフル出場はわずかに6半袖のみ。得点もシーズン合計で7得点に留まりました。チーム自体の出来がアレだったというのもありますが、オフには構想外となってしまいました。
ところでオレのフットサル仲間に、青梅で小学生時代の関と対戦してきた人がいます。その人が言うには「関は本当にうまかった。うちのチームでは『他のヤツにはやられてもいいから関だけにはやられるな』が合い言葉だったけど、それでも止められなかった」そうです。ちなみにその人もオレから見ればめっちゃくちゃうまい人なのですが、その人に言わせれば「レベルが違った」ということらしいです。まぁそうでなければテクニカルな選手が揃う読売ユースに入れるわけもないはずですけど、サポーターが評する関という男は、「半袖」という以外では「うまくはなかったが、熱い男」というもので、なんだかイメージが全く違います。まぁ、プロ選手というのはそういう人たちの集まりですから、関はその中では「普通」レベルということなのでしょうか。ただ、札幌にいた当時は既に彼の膝はとうに限界を超えていたようで、その辺りの影響もあったのかも知れませんね。ちなみに、小学生当時から半袖だったかどうかは聞いてません。
札幌を退団したあとの関は、半袖のまま地元青梅に戻り、JFL入りを目ざしていた関東リーグの青梅FCに元FC東京の奥原崇と共に加入しました。青梅FCでは2002年まで在籍していたようですが、結局JFL入りすることは出来ませんでした。その後、2003年にコンサドーレのジュニアサッカースクールのコーチとして札幌に再び戻り、小学生の指導をする傍ら北海道リーグのトヨタ自動車北海道で現役を続けていたらしいですが、結局この年を最後に現役を引退し、2004年のU-12チームの誕生に伴いU-12のコーチに就任しました。今年はU-15チームのコーチとなり順調に指導者としてのキャリアを半袖で積み重ねています。いや半袖はウソ。
posted by choo |00:44 |
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2006年02月04日
【スター列伝】ロブソン
昨季までの過去10シーズンにおいて、これまで札幌に在籍したことのあるコーチングスタッフ以外の外国籍選手は全部で31人。様々な国籍の選手たちが札幌でプレイしてきました。この31人の中には吉成大や徐暁飛らの立場上は助っ人ではない選手も含んでいますので、単純に「外国人選手=助っ人」と考えるわけにもいかないのですが、「外国人は宝くじみたいなもの」という岡田武史元監督の言葉通り、いわゆる「助っ人」として入団して期待通りに活躍した選手もいる一方で、全く役に立たなかった選手も決して少なくありませんでした。その「期待はずれ」の代表格といえば、古くからのサポーターは1999年のリカルジーニョ、ジネイ、クレーベルの3人が思い浮かぶでしょう。しかし、何しろ彼らの試合出場は最も多いリカルジーニョでさえ5試合で、クレーベルに至ってはたったの1試合しか出ていないというスーパーブラジル人です。6月を迎える前に退団したリカルジーニョの代わりにやってきたジネイも、加入直後の3試合でそのへっぽこっぷりを遺憾なく発揮したっきり二度と姿を見せなくなったため、1999年の後半からスタジアムに通い始めたオレは彼らを生で見たことがありません。そんなオレにとってもっとも印象深い「期待はずれ選手」が、今回取り上げるロブソンです。
本名ロブソン・ルイス・ペレイラ・ダ・シウバ。1974年9月21日生まれで、1992年マツバラで選手生活をスタート。コリンチャンス、ゴイアス、ウニオン・レイリア(ポルトガル)など複数のクラブを渡り歩いたあと、1997年にロシアリーグ1部の強豪スパルタク・モスクワに移籍しました。そして2001年までの4シーズン半の間にリーグ戦102試合で32ゴールという成績を残し、2002年にコンサドーレ札幌にやってきました。経歴が間違っていなければ、マツバラでミールさんと一緒にプレイしているはずですね。
ウィルという強力なストライカーの活躍でJ1残留を果たしながらも、そのエースの引き留めに失敗した札幌にとって、ウィルに替わる助っ人ストライカーの獲得は至上命題でした。その期待を負うべくやってきたのがこのロブソン。前年のロシアリーグで15ゴールを挙げ得点王に輝き、またクラブチーム最高峰の大会であるUEFAチャンピオンズリーグにも出場して2得点と実績充分。Jリーグに各国リーグの得点王がやってくるのは特に珍しい話ではないですけど、「チャンピオンズリーグ出場経験者」というのはそれほど多くありません。さらには当時ロシア代表の監督も兼ねていたスパルタク・モスクワのロマンツェフ監督が、ロシア代表のためにロブソンの帰化を要請していたという報道もあり、いわば「ロシア代表監督お墨付き」と言えるだけに、ロブソンはサポーターのみならずマスコミからも「大物」という扱いを受け、道内メディアはもちろん全国誌である「サッカーダイジェスト」でも、まだ開幕前だというのにインタビュー記事が組まれるほどの騒ぎでした。
そんな感じですから、サポーターの期待はが高まるのも無理もない話でした。開幕前の練習試合で不発が続いても、ウィルがそうだったように太りすぎでコンディションが悪いためであり、コンディションさえ上がれば活躍するだろうと楽観視され、開幕前の宮崎キャンプでの阪南大学戦での初ゴールと、次の韓国チャンピオンの城南一和戦での計2得点だけで眠れる獅子が目覚めたと思ったものです。大きな希望はいつしか未だ見ぬロブソンを「ものすごい選手だ」と脳内補完してしまっていました。
そのロブソンが、いよいよサンフレッチェ広島との開幕戦でヴェールを脱ぎました。183cm79kgという堂々たる体躯から繰り出される競り勝てない空中戦、2歩目の時点で相手DFに先回りされる一瞬のスピードを持ち、その黄金の右足から放たれるシュートは出し惜しみする奥ゆかしさ、磁石のN極とN極のような正確なトラップ…。ロブソンのあらゆるプレイに目を奪われたサポーターは、「なぁ、なんかあいつスゴくね? 別の意味で」「全ての能力が秀でてるぞ、マイナス方向に」「なんていうか、ゾック?」「いや、あれはザクタンクだ」などと大絶賛でした。
開幕戦で広島の大勝の立役者となったロブソンは、次のベガルタ仙台戦でも90分間試合から消え続けるという、まさに1人だけ別次元のプレイを見せて仙台の勝利に貢献すると、第3節のジュビロ磐田戦でも異議と故意のハンドによる合わせ技一本で退場し、ここから一気に3点を奪って試合を決めた磐田へのナイスアシストを見せました。出場停止となった第4節の名古屋戦はロブソン不在の穴が大きく札幌が勝ってしまいましたが、出場停止明けの柏戦ではさすがのパフォーマンスで柏の快勝をお膳立てし、続く京都パープルサンガ戦でも京都のVゴール勝利を導きました。
この間、ロブソンの能力に疑問を持ち始めていたあるサポーターが、海外のサイトでロブソンの経歴を調べてみると、「ロシアリーグ得点王」というふれこみは真っ赤なウソと判明。札幌にやってくる前年に挙げたゴールも15ゴールではなく11ゴールで、チーム得点王ではあるもののリーグ得点王を獲得した記録はありませんでした。オレも独自で調べてみたところ、練習しないロブソンにロマンツェフ監督がブチギレしたとか、相手選手にヒジ打ちをお見舞いして5試合出場停止を喰らったとか、相手選手と乱闘をおっぱじめたとか、その黒歴史が出てくる出てくる。素行に問題があるのはまぁいいとしても、それはきっちり結果を残してこその話。結局、京都戦のあとの柱谷哲二監督の「ロブソンには責任を取ってもらう」というあまりにも有名なセリフを最後に試合に出ることはなくなり、結局Jリーグでは1点も上げることができないまま、同年入団したDFマクサンドロと共に5月末にひっそりと退団しました。ロブソンに責任を取ってもらった柱谷監督も、後を追うように6月始めに解任されています。過去の経歴や肩書きがいかに無意味なものであるか、我々サポーターに教えてくれた選手でした。
札幌を退団したあとのロブソンは、スパルタク・モスクワからのレンタル移籍だったにも関わらず、なぜかロシアには戻らずにフランス2部リーグのロリアンというチームに移籍しました。後日談として、札幌で活躍できなかったのはケガをして万全の状態じゃないまま試合に出ざるを得なかったからという話もありますが、そのロリアンでの成績は、3シーズン合計で72試合16ゴール(カップ戦含む)。助っ人としては少々物足りない成績と言わざるを得ず、あのまま札幌に残っていたとしても我々が期待していたような「エメやウィルと同じくらいの活躍」は望めなかったでしょう。Jリーグ1部とフランス2部リーグ、そしてロシア1部リーグの間にどのくらいのレベル差があるかはわかりませんが、スパルタクで活躍できたのは、イゴール・ティトフという優れたゲームメーカーがいたからかもしれませんね。ちなみに腹黒な元主将はロブソンについて、シーズン開幕前の時点で既に「ハズレ」と断言していたそうです。
ところでロブソンは、どうやら昨シーズン限りでロリアンを退団しているようです。その後の行方は不明ですが、もし今季もプレイしていればグルノーブルに移籍した大黒将志との対戦があったかもしれないだけに残念ですね。
posted by choo |00:25 |
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2006年01月26日
【スター列伝】吉原宏太
不定期更新のスーパースター列伝、第9回目の今回は「元祖アイドル」吉原宏太を書きます。
1978年2月2日大阪府藤井寺市生まれ。小学校2年生の時に藤井寺サッカー少年団でサッカーを始め、道明寺中学校から和歌山県の初芝橋本高校に進学。3年生の時(1995年)の高校選手権で7得点を挙げて得点王を獲得して同校をベスト4に導き、この活躍が認められて翌年から旧JFLを戦うできたてホヤホヤのコンサドーレ札幌に入団しました。
通常、プロになれるような実力を持つ選手というのは、そのほとんどが選手権の時点で卒業後の行き先が決まっているパターンが多く、高校選手権で「プロへ就職活動」となるパターンはそれほど多くありません。また、この「選手権ルート」でプロ入りした選手は岐阜工の片桐淳至(→名古屋グランパスエイト)や国見高校の松橋章太(→大分トリニータ)などあまり活躍した印象ないのですが、吉原の場合はルーキーイヤーの1996年に開幕スタメン(1996年4月21日・福島FC戦)に名を連ねただけでなく、先制ゴールを含む2得点を挙げてチームの開幕戦勝利に貢献。その後も公称170cmと小柄ながらも裏へのスピードと思い切りの良さを生かして試合出場を重ねていきました。当時のJFLがプロアマ混成リーグで、対戦相手のレベルにばらつきがあったとはいえ、それでもリーグ戦・天皇杯で27試合7得点は申し分のない活躍と言えるでしょう。さらにプレイヤーとしての活躍のみならず、その甘いマスクは女性ファンのハートをがっちりキープ。コンサドーレのメインスポンサーである石屋製菓の主力商品「白い恋人」のテレビCMにも抜擢されるなど、その人気は鰻登りでした。
翌1997年は試合出場こそ18試合に留まりながらも、自身初のハットトリック(5月18日・大塚製薬戦)を含む10得点(リーグ戦・天皇杯合計)を挙げJFL優勝・Jリーグ昇格に貢献。1998年に開幕スタメンとしてJリーグデビューを飾る(3月21日・清水エスパルス戦)と、4月25日のベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)戦でJリーグ初ゴールをマーク。この年リーグ戦、カップ戦、天皇杯計41試合に出場し13得点を挙げ、人気・実力共に「コンサドーレのエース」となりましたが、残念ながら入れ替え戦では不発に終わりチームはJ2降格となりました。
J2での再スタートとなった1999年は、チームとしては散々なシーズンでしたが、吉原個人にとっては大きな飛躍の年となりました。FC東京サポーターに「色白おかま」呼ばわりされながらも、5月2日のヴァンフォーレ甲府戦でJリーグ初のハットトリックを達成するなど順調に得点を重ねてきた吉原は、日本代表のフィリップ・トルシエ監督に認められてシドニーオリンピックを目指すアジア一次予選のメンバーに招集されました。そのアジア一次予選の香港ラウンドでのフィリピン戦で、交代出場ながらもハットトリックを達成すると、続くネパール戦でも2得点、3戦目のマレーシア戦で1得点、最終戦の香港戦でも1得点。相手は格下ばかりとはいえ、4試合で7得点を決める大活躍を見せました。トルシエ監督の期待に見事に応えた吉原は、今度はなんとフル代表に招集されます。日本代表がパラグアイで行われるコパ・アメリカに招待国として出場した際、アルゼンチンでの直前合宿中にFWの中山雅史(ジュビロ磐田)がケガをしてしまったため、急遽呼ばれたのです。当時の五輪代表には吉原ではなく高原直泰(ジュビロ磐田)や柳沢敦(鹿島アントラーズ)、平瀬智行(鹿島)といったFWが主力でしたし、久保竜彦(サンフレッチェ広島)などフル代表経験を持つストライカーも残っていた中で、誰もが驚いたフル代表招集。まぁ、トルシエ監督にとっては、「あぁもうこんな時にナカヤマ怪我しやがって代わりを呼ぼうにも地球の裏側まで選手を貸してくれるようなクラブなんてねぇだろうなああそうだだったらヨシハラを呼ぼうどうせ札幌はJ2だし昇格無理だろうし」といった感じだったのかもしれませんけどね。それでも吉原が代表に選出されたことは事実であり、パラグアイ戦で途中出場ながらも代表キャップを記録したことで「吉原宏太」の名は全国区となったわけです。
当然サポーターにとっても、コンサドーレから初の現役代表選手が出たことは誇らしいことでありました。しかしそのサポーターの喜びの裏側で、「トップレベル」を実際に肌で感じた吉原本人は、翌年に控えていたシドニー五輪のメンバーとして名を連ねるため、その先に待つワールドカップのために、より高いレベルの環境でプレイすることを望むようになっていったのでしょう。札幌がJ2残留となったこの年のオフ、36試合出場15得点(リーグ・カップ・天皇杯合計)という成績を残し、ガンバ大阪へレンタル移籍していきました。
今でこそ主力選手の移籍(引き抜き)は珍しい話ではないですけど、名実ともに札幌の顔だった選手が移籍していったのはこの吉原が初めてであり、当時のオレも含めたほとんどのサポーターはそれをどう受け止めていいかわかりませんでした。チームが彼を「戻ってくる可能性の残る」レンタル移籍としたのも、エースを失うショックが大きかったサポーターへの影響を考えれば仕方がなかったのかも知れません。今であれば、中途半端にレンタル移籍させるくらいなら完全移籍にして移籍金満額取れという声のほうが強いでしょうから、サポーターも随分免疫がついたものです。いやまぁ、出来ればこんな免疫なんていらないんですけどね。結局吉原は2000年オフにガンバへ完全移籍となり、移籍した当時にサポーターが抱いていた「1年後に戻ってきてほしい」という希望は叶うことはなかったのですが、どっこいその頃のサポーターは既にバンバンとエメに夢中でした。人間は忘れる生き物です。
ガンバに移籍した後の吉原は、しばらくはそれなりの活躍を見せていたものの、西野体制となってからは監督との折り合いもあまりよくなかったようで次第に出番も減っていき、より多くの出場機会を求めての移籍志願話がオフの恒例行事となっていました。昨季の終盤はベンチからも外れるようになり、ついに移籍を決断。今年から大宮アルディージャでプレイすることになっています。
表面上は「札幌を捨てた」という形での移籍となり、「かわいさ余って憎さ百倍」というサポーターもいる一方で、「初代生え抜きエース」としての吉原を特別な存在として感じているサポーターも決して少なくありません。プロ2年目以降から彼が好んで背負っていた「18番」の背番号は、札幌でも特別な番号として認識されていました。まぁ実際、吉原の他に18番を背負って、それに見合う活躍をしたのは山瀬功治くらいしかいませんけど。また、吉原自身もプロのキャリアをスタートし、最初の4年間を過ごした札幌は特別な場所で、移籍後もいろいろなところで札幌について触れることが多く、「第二の故郷」と考えているようです。それだけに、今でも毎オフになると吉原宏太札幌復帰話がまことしやかに囁かれたりもしますが、1996年のチーム創設時のメンバーで現在もJリーグで現役を続けているのはこの吉原ただ1人だけですから、キャリアの最後は札幌で過ごして欲しいなぁと少しだけ思ったりもしています。
posted by choo |01:58 |
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2006年01月18日
【スター列伝】名塚善寛
なんのかのといって子育てに忙しい日が続き、なかなか思うように更新できない今日この頃。実は今年初めての更新なのですが、今日は名塚善寛を取り上げてみようと思います。
名塚は1969年10月7日千葉県船橋市生まれのディフェンダーで、習志野高校から1988年にJSL1部のフジタ工業に入団。以後1998年までの11シーズンに渡ってプレイし、1999年にコンサドーレ札幌に移籍してきました。フジタ時代の1992年にはバルセロナ五輪代表にも選ばれ、1993年にチームがプロ化してベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)となってからも、Jリーグ昇格や天皇杯優勝、アジアカップウィナーズカップ制覇に貢献し、また個人としても1994年にJリーグベストイレブンに選出され、またファルカン監督の下で日本代表として11試合に出場、同年のキリンカップではほぼベストメンバーを揃えたフランスにチンチンにやられ、ワールドカップに出られなかった腹いせをされましたが、7月8日に瑞穂陸上競技場で行われた対ガーナ戦で決勝ゴールを挙げています。まぁ、この時のガーナ代表は平均年齢18.5歳と実質オリンピック代表だったのですが。名塚が代表に名を連ねていた頃は「ドーハの悲劇」以降の代表混乱期にあったせいか、代表での成績自体はあまり芳しいものではありませんが、それでもベルマーレの黄金期を支えた選手の1人であったことは確かです。
しかし、1998年オフにベルマーレ平塚はフジタ工業が経営から撤退し、高年俸の主力を軒並み放出せざるを得なくなってしまい、主力選手が各チームへちりぢりに移籍していきました。そんな中で名塚はなぜか1999年にコンサドーレ札幌に移籍してきました。まぁそうでもなければ日本代表キャップを持つJ1チームの主力だった選手が、J2落ちした北の僻地チームに移籍してくるなんて通常考えられないんですけどね。割とドサクサ紛れっぽく札幌は優秀なDFを手に入れたわけですが、小島伸幸がアビスパ福岡へ、田坂和昭が清水エスパルスへ、洪明甫が柏レイソルへ、呂比須ワグナーが名古屋グランパスエイトへと、代表キャップを持つ他の主力がみな他のJ1チームに移籍していく中、なぜか名塚はJ2。
ともあれ、札幌に移籍してきてからもその統率力と読みの鋭さで守備陣を統率。移籍してきた初年の1999年こそチームとしての戦い方が定まらなかった影響で昇格は逃しましたが、この年の4バックの相方センターバックがめまぐるしく変わりながらも年間失点数は35点(36試合)。これは1位の川崎フロンターレにわずか1点差の2位タイの少なさでした。そしてチームキャプテンに就任し、3バックの中央となった2000年は40試合で失点数わずか22失点、1試合平均で0.55点という鉄壁の守備陣を支え、J2優勝・J1昇格に貢献しました。また、どっちかといえば岡田武史監督(当時)好みのいぶし銀な地味目の選手でしたが、1999年から2000年の2シーズンで計6得点を挙げているように、特にセットプレイの時の得点能力もありました(得点能力という観点において1年で11点取った池内を出してはいけません)。もちろんJ1に昇格した2001年も、キャプテンマークこそ野々村芳和に譲ったもののDFリーダーとして守備陣を統率しコンサドーレの開幕ダッシュの原動力となり、名塚、森、大森の3バックは「精密機械」とまで言われました。
しかしこの頃には既に慢性的な両足首痛に悩まされており、フル稼働は難しい状態になっていました。それでも当時の札幌は「組織的守備」といえば聞こえはいいものの、レギュラーが1人でも欠けると途端に機能しなくなる、いわばギニュー特戦隊のスペシャルファイティングポーズみたいなものでした。実際名塚が欠場した清水エスパルス戦ではいきなり5失点も喰らう大惨敗を喫してしまい、急遽北海道から遠征先に呼び出されるということもあり、休むに休めない状況だったのです。チームに欠かせない選手なのはいいことですが、藤子アニメの肝付兼太じゃあるまいし、出ずっぱりにもほどがあるってモンです。この無理がたたったのかどうかはわかりませんが、結局この年を最後に現役を引退。Jリーグ通算238試合(J1:177試合、J2:61試合)出場という偉大な記録を残しながらも、最後まで「義寛」と書かれることが多かった悲劇の人でした。
現在はそのまま札幌に残り、コンサドーレ札幌ユースU-12のコーチとして将来のトップチームの卵たちを温め続けています。
posted by choo |17:05 |
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2005年12月30日
【スター列伝】平間智和
長いことほったらかしにしてしまいましたが、生意気にも明日からしばらく更新出来ないので、今年最後の更新をしようと思います。今年最後のスーパースター列伝は、平間智和です。
平間は1977年6月30日生まれ。宮城県柴田郡出身で、東北高校から1996年に横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に入団。横浜3シーズンを過ごしたあと1999年にモンテディオ山形へ、2000年にベガルタ仙台へレンタル移籍し、2001年に横浜F・マリノスへ戻り1シーズンプレイしたあと2002年にコンサドーレ札幌へレンタル移籍してきました。攻撃的なドリブラータイプのMFで、基本的には右利きですが左足も特に苦手としていないため、トップ下はもちろん左右両サイドもこなす、非常にテクニックの高い選手でした。決して層が薄くなかったマリノスでルーキーの頃から試合に出ていたことからも、そのスキルがいかに高かったかがわかるでしょう。つってもまぁ、マリノス時代の平間がもっとも脚光を浴びたのは、アトランタで一躍時の人となった川口能活の手を骨折させた時なんですけどね。チームメートなのに。ちなみにこれで逆上したヨシカツが別の味方選手のケツを思い切り蹴り上げたのですが、この蹴られた選手が大森健作だったのは有名な話。そんな感じでマリノスでそれなりの結果を出していた平間ですが、1998年の横浜フリューゲルスとの合併に伴って保有選手が大幅に増えた横浜F・マリノスからあぶれてしまいます。そして「若手はレンタルで他のチームに育てさせる」というF・マリノスお得意のカッコウ政策によって、1999年は山形に、2000年には仙台に期限付きで移籍しました。それぞれのチームでレギュラーとしてほぼフル出場を果たし、2001年に横浜に帰還。凱旋帰国となったこのシーズンもそれなりの実績を残し、2002年にコンサドーレ札幌へ期限付き移籍となります。うん、まぁ、期限付きでの獲得が発表された時点で、2000年に山形から仙台に移籍した時、2001年に仙台からF・マリノスに戻った時、いずれの場合においても移籍元のチームのサポーターからは惜しむ声があんまり多くなかったことが気になってはいたんですがねぇ。札幌に移籍してきて最初のシーズンのお披露目会で、自分の紹介になった時にいきなり「コマネチ」をやっていろんな意味でサポーターの度肝を抜き、開幕前から既に「ネタ要員」としての評価を確固たるものにしたものの、その後ネタ要員以上の評価を与えられることはありませんでした。
誤解のないように言っておきますけど、本当にうまかったんですよ。練習でも平間のプレイはひときわ目立ってましたし、この当時はまだ札幌はサテライトリーグには参加していませんでしたけど、たまに行われる練習試合では、相手も控えクラスとはいえ別格な感じでしたしね。こりゃ誰が監督でも使いたくなるわと思うほどの貫禄なのですが…それが本番になるとてんでダメになっちゃうんですよね。それで付いたあだ名が「宮の沢の帝王」。もっとも、彼の場合は「練習で出来ているのことが本番で出来ない」というアガリ症の人なのではなく、本番だといいところ見せようと思ってしまうのか、その場その場で一番やっちゃダメなプレイを一番最初に選択することが多かったわけなんですが。その他にも、試合前の練習でサブ組だった平間が延々とシュートをクロスバーに当て続けるという脅威のキック精度を見せたこともあり、なんというか有り余るスキルをすべて全力で間違った方向に使う選手でした。
しかしそんな平間も、その持てる力をフルに発揮した試合があります。それは2002年の9月29日の札幌ドームでのジュビロ磐田戦。この試合で久しぶりにスターティングメンバーに名を連ねた平間は、この年両ステージを制覇して完全優勝を果たすことになる磐田を1人で蹂躙し続けました。もし前半早々に放ったシュートがゴールポストに嫌われていなかったら、彼は生きながらにしてもっとも神に近い男となっていたでしょう。もっとも、この時同じピッチには、後に生きながらにして神になった男がいたのですけど。最強・磐田を以てしても止められない、まさに鬼神のようなプレイ。これこそが平間智和の真骨頂…と思いきや、前半で体力を使い果たした平間は後半抜け殻のようにしおしおになってしまい、この試合もVゴールで敗れてしまいました。2003年には札幌に完全移籍をして退路を断ったものの、結局これ以降この磐田戦のような輝きを平間が見せることはなく、刹活孔を突き一瞬のみの剛力を得て命を散らせたトキのごとくこの年を最後にコンサドーレを退団しました。
その後は2004年の後半からアルビレックス新潟に加入したもののほとんど出番はなく退団、現在はJFLの群馬FCホリコシで現役を続けています。
posted by choo |02:39 |
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2005年12月15日
【スター列伝】野々村芳和
今回は札幌サポーターなら誰もが知っているであろう"永遠のアニキ"、「ノノ」こと野々村芳和について書こうと思います。
野々村芳和は1972年5月8日静岡県清水市(現在の静岡県静岡市清水区)生まれ。清水東高校から慶應義塾大学に進学後、1995年にジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原千葉)に入団。5シーズンプレイした後、2000年にコンサドーレ札幌にやってきました。心臓病を克服したことから「ジェフの三杉淳」と呼ばれていましたが、ポジションはDFではなくMFで、札幌でのポジションはボランチでした。当時の札幌の監督は日本代表を史上初のワールドカップ出場に導いた岡田武史監督。1999年に札幌の監督として就任した岡田監督は、1年でのJ1復帰を目指したものの、予想外に凡庸な成績でJ2残留に終わりました。Jリーグの監督は初めてだった岡田監督自身の経験不足もありましたが、やはり最大の要因はチーム作りの失敗でした。この反省を生かした翌2000年、岡田監督は大補強を敢行。当時のレギュラークラスで前年から残った選手はGK佐藤洋平、DF名塚善寛、MFビジュ、MF田渕龍二くらいと文字通りに生まれ変わった札幌が、最大のライバルと言われた浦和レッズを抑えて圧倒的な成績で優勝したのはご存じの通りです。この岡田体制下でのコンサドーレの躍進を支えた最大の補強は言うまでもなくエメルソンですが、実はもっとも「成功」と呼べる補強はこの野々村芳和の獲得だったように思います。
前述の通りこの年のスターティングメンバー11人のうち7人が新加入選手でしたが、その中で唯一この野々村だけが完全移籍でした。市原を戦力外となった直後に岡田監督が直々に来てくれと言う電話をかけたという話が伝わっていますが、札幌に来てからは副主将としてチームをうまくまとめ上げ、ピッチ上の監督として口を動かし人を動かし、なおかつ自分はあまり動かない文字通り「司令塔」として君臨しました。天性とも言えるキャプテンシーを持つ彼がいなければ、文字通り寄せ集めだった札幌がここまでの成績は残していなかったかも知れません。そんなわけでチームにとっても重要なプレイヤーだったのはもちろん、サポーターの側からも人気の高い選手でした。端整な顔立ちで女性ファンが多かったばかりか、そっち方面の男性からの人気も出そうな「割れアゴ」というパーツも備えるルックス、の割には意外と審判の見てないところでえげつないファウルをする腹黒さも併せ持ち、そうかと思えばマスコミにもしっかり受け答え出来、それでいて公式の場で「スポーツマンヒップにもっこり」という微妙なネタをかます野々村は、老若男女問わず幅広い層から支持されました。いい年して「俺のノノ」というゲート旗を掲げていたオッサンもいたほどです。
自身も再びJ1に復帰した2001年は主将としてチームを引っ張りました。セレッソ大阪との開幕戦では札幌に来てから最高とも言えるパフォーマンスを発揮し、開幕勝利及びスタートダッシュに貢献。その後も獅子奮迅の活躍を見せましたが、1stステージ終了後に膝を壊してしまい長期離脱。相当重いケガだったようで、2ndステージの終盤にようやく復帰を果たすもののパフォーマンスは元には戻らず、オフには戦力外となってしまいました。年齢的にはまだまだやれましたし、実際に他チームからのオファーもあったようですが、「最後は札幌で終わりたかった」と潔く現役を引退しました。ちなみにこの年はノノだけでなく守備の要であった名塚も引退し、ウィルと播戸の2トップも丸ごと退団してしまいました。完全に屋台骨を失った札幌が暗黒時代に突入してしまうことは周知の通りで、チームをまとめることが出来る選手がいなったことで「野々村待望論」がサポーターの間で噴出していましたが、そのくらい大きな存在だったのです。
引退後はクラブのスカウトとしてフロントに入り、関東・東海方面のスカウティングを担当…しているはずですが、CS放送の「Jリーグナイト!」の司会者を始め、CS中継の解説、北海道ローカルのラジオ・テレビでのレギュラー出演、持ち前のトークと仕切りのうまさで、どっちかというと非常に優秀なテレビタレントとなっているようです。
ちなみに奥さんはとても美人です。
posted by choo |00:53 |
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2005年12月07日
【スター列伝】エメルソン
というわけでいよいよこの人を書こうと思います。第5回はエメルソンです。ご存じ札幌をJ1昇格に導いた稀代のストライカー。
本名はマルシオ・エメルソン・パッソス。1981年9月6日ブラジルのリオデジャネイロ州ノバイグアス市生まれで、サンパウロFCから2000年にコンサドーレ札幌に期限付き移籍することが発表されたのは、年の瀬も押し迫った1999年の末でした。当時弱冠18歳だった若きブラジル人選手は、この先日本をいろんな意味で震撼させる選手になるわけですが、その頃のサポーターの反応は「ブラジル人FWが来る」という以上のものはありませんでした。当時、札幌は前年の助っ人補強に失敗しており、1999年シーズン当初に獲得した助っ人はことごとくヤムチャでした。唯一MFロベルト・アシス(今をときめくロナウジーニョの実兄)だけはそれなりに活躍しましたが、年俸面等を考えればナッパくらいの評価で、結局残ったのはシーズン途中から加入したビジュのみ。監督1年目だった当時の岡田武史監督に「外国人は宝くじ」というトラウマを植え付ける結果となっていたため、助っ人に対して懐疑的な見方が強かったのです。ですから、前年から契約延長のビジュと既に東京で実績のあるミールさんはいいとしても、元ブラジルユース代表という経歴以外にはほとんど何の実績もないと言っていい無名のブラジル人ストライカーに寄せる期待は、さほど大きくなかったこと、加えて、この頃は吉原宏太のガンバ大阪への移籍が正式に発表されたばかりでそれどころじゃなかったため、サポーターの間ではそれほどの盛り上がりがなかったのも無理もないことでした。
ところが、シーズン開幕前のキャンプで当時の名塚主将が「今すぐ完全移籍させるべき」というコメントを出すなど新聞紙上でもその評価は鰻登りで、「ひょっとして大物なのか?」という空気が流れはじめます。そして、その風評が現実のものとなるのに、さほど時間はかかりませんでした。サガン鳥栖との開幕戦でハットトリックを達成する衝撃デビューを飾ると、続く甲府戦でも2得点。その後も相手DFをわずか数歩で置き去りにするスピードと、振りの早い強烈なシュート、そして何よりボールを持ったらまずシュートという徹底的な俺様っぷりで得点を重ね、出場34試合で31得点を挙げて得点王に輝き、昇格の原動力となりました。
しかし、エメルソンの魅力はこれだけではありませんでした。というかむしろ高い得点能力はむしろおまけで、エメのエメたるゆえんはその本人そのものにあります。まずはカード癖。この年はシーズンで11回の警告を受け、退場2回。一発退場こそないものの、カードの数だけなら今年の池内より上です(しかもこの年の試合数は今よりも4試合少ない40試合)。そういえば2001年にJ1得点王に輝いたウィルもカードゲッターとして名を馳せましたので、「チームのゴールゲッターはカードゲッターでもある法則」は今なお生き続けているのでしょうか。
また、ピッチの外でもいろいろとありました。「札幌にエメルソンあり」というのがJリーグにも響き渡り始めた頃、まだ18歳のエメに2歳の息子がいることが発覚。しかもてっきり母親は何度かフィアンセとして来札していた女性だと思っていたら、よくよく話を聞いてみれば実はそうではないらしく、「エメが速いのは脚だけじゃない」という評価も得ました。ちなみにこの子供の存在や「年の割に老けて見える」という理由から、後にエメルソン年齢詐称疑惑も囁かれました。
さらには放蕩癖も素晴らしく、J1昇格とJ2優勝を果たしチームの目標を達成すると、残り試合をすっぽかしてとっととブラジルに帰国。当初は天皇杯までに帰ってくる予定だったのが天皇杯が始まっても帰ってくるそぶりすら見せませんでした(帰ってきたのは2回戦が終わったあとで、結局天皇杯は最後まで出場せず)。
まぁそんな感じで問題児としても名を馳せたエメでしたが、サッカーのスキルは超一流ですから、当然札幌は完全移籍を望みます。しかしネックとなったのは100万ドルという移籍金でした。当然、予算の少ない札幌にはどだい無茶な金額で、資金繰り以前の問題に直面した札幌はこの移籍金をまかなうため、サポーターから1口5万円の増資を5000口募るという無謀な方法を採用。もちろん「エメルソン基金」などというお題は付いていませんでしたが、計画の趣旨から言えばエメの移籍金捻出のためであることは確か。エメ残留を願うサポーターから集められた金額は最終的に3億円近くにもなり、金銭面での障害はなくなったかに思われましたが、ところがどっこいエメときたら「年俸1億円欲しい」と言いだしはじめます。移籍金は用意できてもそれにプラス1億では資金はショートしますし、他の選手との年俸バランスも崩れてしまうため、交渉はいきなり決裂。「朝起きたら肩が反対になっていたからブラジルに帰って手術します」という有名はセリフを残して札幌を出て行き、そしてそのまま二度と戻ってきませんでした(その後、相手チームの一員として札幌に来ましたが)。
札幌を退団した後は、1年でJ2に降格した川崎フロンターレに完全移籍します。札幌と違って資金力のある川崎はエメの希望通りの条件を呑み、さらにはエメのサンパウロ時代の「恩師」であるピッタ氏をコーチに呼んでまでJ1復帰をこのストライカーに賭けたわけですが、もちろんエメ1人で勝ち続けられるわけもない上、中身は相変わらずエメのままのエメをしまいには持て余しすようになり、シーズン途中でピッタコーチともども浦和に売却されます。その後もやはりきっちり結果は残しますが中身はやはりエメのまま。少しは大人になったのかカード収集癖は影を潜めたものの、一度ブラジルに帰ったら必ず最後来日予定に間に合わず「エメっぷり」は相変わらずのまま。さらにはJリーグの中ではトップクラスの予算を誇る浦和ですら年俸は足りなかったようで、最後にブラジルに帰ったまま来日しないと思ったらいきなりカタールのクラブに移籍していたという瞬間移動を見せた上、しかも何が気にくわなかったのか肩が反対になったのか首が真後ろに回ったのかはわかりませんが、そのカタールのクラブも正味3ヶ月も経たないうちに電撃退団(※)。その後はJリーグのクラブに売り込みをかけていたそうですが、いくら実力があっても年俸も高い上に、さすがにここまで来れば少なくともJリーグに彼を雇うクラブはなく、現在消息は不明。
まぁエメであれば欧州に行っても十分通用するとは思いますが、「欲するままに生きてたらこうなる」という、ある意味非常に人間力の高い選手でした。
posted by choo |23:20 |
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2005年11月30日
【スター列伝】森下仁志
本当は別の人を書くつもりでいたのですが、現役を引退されるということで書いてみることにします。というわけで第4回は森下仁志です。
1972年和歌山県生まれ。帝京高校から順天堂大学を経て1995年にガンバ大阪に入団。2001年のシーズン途中からコンサドーレ札幌にレンタル移籍してきました。当時の札幌は右サイドの出来る選手が田渕龍二の他には2年目の中尾くらいしかおらず非常に手薄だった反面、ボランチはビジュ、今野泰幸、野々村芳和、瀬戸春樹と人数はそれなりに揃っていたため、ボランチをひとり交換要因として放出し、右サイドの出来る選手を獲得しようという、まるで野球のようなトレードで札幌にやってきました。その風貌は当時の岡田監督に「板前さんみたいだね」といわれ、サポーターからは「板長」と呼ばれます。ちなみに召還する生け贄として人身御供となったのは瀬戸でした。瀬戸は当時大分からのレンタルだったため、いったん札幌が瀬戸の大分からのレンタルを解除し、大分は再びガンバ大阪へ瀬戸をレンタル、そして札幌は板長をガンバからレンタルするという感じで、右サイドの選手をひとり引っ張ってくるのに人転がしのような複雑な経緯でまで獲ってきたわけですが、来た途端に野々村が膝にケガを負って長期離脱してしまい、「GK以外ならどこでもやった」という板長は結局ボランチをやることに。右サイドはそのままいつもの通り田渕が担当し、結果として状況としては何も変わりませんでした。
しかしそれでも板長は、アウェイ鹿島戦でいきなり退場するものの、その後は縦横無尽にピッチを駆けめぐり、なおかつ一試合を通してなお衰えないスタミナを武器に活躍し、札幌の(今のところただ1回だけの)J1残留に貢献。板長自身もこの年の暮れに父親が亡くなられた際、サポーターから花束を贈られたことにいたく感動し、2002年シーズン前には相思相愛の形で札幌に完全移籍を果たすことになります。
しかし、今から考えればこの時が一番お互いにとって幸せな時期だったのかも知れません。完全移籍を果たした翌年は、引退した野々村の跡を継いでキャプテンに就任。ところが、間の悪いことにこれは岡田監督退任を受けてコンサドーレが暗黒時代に突入してしまった時期とざっくりかぶってしまいます。もともと豊富な運動量とスタミナを除いては特に秀でた武器はなかったため試合でもパスミスを連発、「気合が空回り」という言葉がそのまま当てはまるような状態となります。すべてが悪い方向に突き進んでいたチームをまとめ上げることにも失敗し、次第にチームの不協和音が外部にも漏れ伝わるようになってしまいました。特に副主将でもあった守護神・佐藤洋平との不和はサポーターの間でもまことしやかに囁かれており、結局この年チームはJ1最下位でJ2降格となります。翌2003年も引き続きキャプテンとして今度はチームの立て直しを期待されましたが、状況としてはあまり変わったこともなく、親しみを込めて使われていた「板長」という呼称も、いつしかガンバ時代の「モリゲ」というものにグレードダウンしていき、その存在もすっかり単にネタ選手の1人として扱われるようになっていってしまいます。札幌にはもうひとりU-15監督のである森下仁之氏という同姓同名のスタッフがいますが、高円宮杯で2年連続準優勝という実績を作った森下監督が「いいほうの森下」と呼ばれていたことからも、その立場は随分微妙になっていたことが伺えます。
2002年のナビスコカップ磐田戦で試合前にサポーターから渡された、サポーターの思いの丈が書き込まれたキャプテンマークをその後も大事に巻いてプレイしていたように、サポーターをとても大切にする選手でしたが、2004年には若返りの余波を受けて失意のままジュビロ磐田に移籍。磐田には既にシーズン途中に移籍していた佐藤洋平がいたのはどう考えても何かの縁だと思うのですが、伝統的にGKに恵まれなかった磐田に請われ、その通りに活躍した洋平と違い、何を目的にオファーしたのかはついぞ磐田のサポーターにも不明なまま。2004年にはリーグ・カップ計9試合に出場したものの、世代交代を推し進めた2005年はここまで1試合の出場もなく、今季いっぱいを以て現役を引退。今後は指導者としての道を進むとのことです。
板長にとって札幌でプレイしていた2年半について、本人がどのようにとらえているのかは知る由もありませんが、思えば今現在和波が苦しんでいる「キャプテンになると途端におかしくなるの法則」は、この人から始まったような気がします。
posted by choo |00:54 |
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2005年11月23日
【スター列伝】アウミール
好評なのか不評なのかあんまりよくわからないスーパースター列伝、第3回の今回はアウミールです。田渕、先生と大塚製薬出身の選手を書いたら、すっかり大塚づいてしまいましたので今回もやっぱり大塚製薬です。「じゃあ次回は磯山和司だな!」と思われるかも知れませんが、書きません。だって半年もいなかったしな。
というわけでアウミールです。本名はアウミール・モライス・アンドラーデ。1973年ブラジルのミナスジェライス州ラブラス市生まれで、1990年にマツバラでプロ選手としてのキャリアをスタート。1994年にアトレチコ・パラナエンセに移籍し、1995年に来日して1996年までの2シーズン大塚製薬でプレイしたあといったんブラジルに帰国。その後パルメイラス、ゴイアス、アメリカ・カリを渡り歩き、1999年に再来日してFC東京のJ1昇格に貢献した後、2000年にコンサドーレ札幌に東京からのレンタルで移籍してきました。通称は「ミールさん」で、東京時代はボランチのポジションを務めることが多かったのですが、札幌時代は10番を背負い、主にトップ下か左サイドでプレイしていました。札幌のこれまでの9シーズンで「10番」をつけていた選手はミールさんの他にはオテーロ、ウーゴ・マラドーナ、アシス、山瀬功治、ホベルッチ、ウリダ、中尾康二、三原廣樹と8人の選手がいますが、このミールさんはそんじょそこらの10番とはわけが違う。何しろ、単純にテクニックだけを取るならばおそらく歴代の10番の中でも一番ヘタな10番。長い足で相手からファウルせずにひょいとボールを奪う様はとっても見事だったのですが、そのボールをドリブルしようとすると今度はその長い足を持て余し、FC東京時代はサポーターからドリブルをすると何処に行くかわからないことから「糸の切れたタコ」と呼ばれていたほどです。かといってパサーというわけでもなければプレイスキックが得意なわけでもなく、魅力的な武器といえばそのつぶらな瞳くらいという感じでした。
しかしミールさん、1年半という10番期間の長さと出場試合数の多さはウーゴ・マラドーナ(1997〜1998)に次いで2番目です。2000年のJ1昇格時には、チームでただ1人ケガもなければ累積警告もなく全40試合に出場しました。加えて、敬虔なクリスチャンのミールさんはブラジル人選手としてはかなりマジメな選手で、日本での経験も長く多少の日本語も理解できたため、他のブラジル人選手の間に入ってそのとりまとめ役となっていました。とりわけミールさんがいた頃の札幌はやんちゃ盛りだったエメルソンや、日本語はもちろんポルトガル語ですら通じるかどうか怪しいビジュ、俺の俺による俺のためのウィルという問題児ばかりを抱えており、そのお守り役としてのミールさんの貢献度は高かったと思います。まぁ、どっちかというと俺王様にとっては手下みたいなものだったかも知れませんけど。
そんな感じで徹底的に地味な10番だったミールさんですが、彼は同時に悲劇の人でもありました。複数のポジションをこなせるユーティリティプレイヤーではあったものの、やはり「助っ人としてはJ1ではちと足りない」という部分もあったため、2000年のオフにエメルソンの引き留めに失敗した当時の岡田武史監督が「お守り役は必要ない」という判断で構想外となってしまいます。ところが、エメルソンだけでなくビジュまでも移籍をほのめかしたため、「助っ人総取っ替え」の危険に晒されたクラブは一転ミールさんに残留を要請。端から見れば身勝手とも受け取れるこの仕打ちにもミールさんはあっさりと再契約を結びました(この決定を受けてかどうかは不明ながらも、ビジュも結局残留)。ちなみに、この後に行われた第80回天皇杯の第4回戦・対横浜F・マリノス戦で、1-1で迎えた延長戦でゴール前どフリーのシュートをミールさんがあり得ない外しっぷりを見せました。岡田監督は「勝つとブラジルに帰るのが遅れるからワザと外した」と言っていたそうですが、ミールさんなりのささやかな仕返しだったのかも知れません(試合はその後前園顔木島にVゴールを決められ1-2で敗退)。そうまでして残った翌2001年ですが、やはり力不足と判断されたのか、新助っ人アダウト獲得の煽りを受けて再びシーズン途中で解雇。つぶらな瞳の鉄人は赤黒のユニフォームを脱ぎました。
札幌を退団した後はどこのチームにも所属した形跡が見られなかったためその消息がつかめず、「札幌で料理屋をやっている」「群馬でフットサルをやっている」「浅草でサンバを踊っているのを見た」「ティターンズの一員としてジオンの残党狩りをしている」など真偽不明の目撃談も飛び交いましたが、2003年にコリチーバに入団し、今はブラジルのポルトゲーザでボランチとして元気にサッカーを続けています。
posted by choo |01:16 |
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