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2006年03月01日

【スター列伝】播戸竜二

 現在Jリーグの各クラブでレギュラークラスとして活躍しているプロ選手というのは、そのほとんどが過去何人もJリーガーを輩出しているような名門校の出身か、あるいはJリーグのクラブユースの出身の、いわゆるサッカーエリートたちです(超人でいえばロビンマスク)。トレセン制度やスカウト網が発達した昨今では、プロで通用するような選手が無名のまま埋もれているということはほとんどなくなったと言っていいかもしれません。しかしそんな中でも高校時代まで全国的に全く無名でありながら、プロになって活躍したという選手はごくわずかながらいます(超人でいえばジェロニモ)。代表例としては、今の札幌サポーターにとっては文句なしに上里一将なのでしょうが、筆頭格とも言えば今回取り上げる播戸竜二ではないでしょうか。

 1979年8月2日、兵庫県姫路市の生まれ。香寺町立香寺中学校から姫路市立琴丘高校に進みましたが、高校時代は国体選抜の経験がある程度で全国的には無名の存在でした。1998年にガンバ大阪へ入団しましたが、入団とは言っても給料はほとんど出ない練習生契約で、実家のある姫路から毎日2時間半かけて練習に通っていたそうです。プロ契約の条件は「2試合に出場すること」。当時のガンバにはエムボマや松波正信、小島宏美らがおり、FWの選手層は決して薄いものではありませんでしたが、数少ないチャンスをつかんでこの条件をクリアしプロ契約を勝ち取った播戸は、持ち前のスピードと溢れんばかりの闘争心を生かしてこの年13試合に出場し2得点。翌1999年にはユース代表にも選出され、ナイジェリアでのワールドユース準優勝に貢献。所属チームでも途中出場が多かったものの25試合に出場して1得点を挙げ、この年のオフにガンバ大阪に移籍した吉原宏太との「交換レンタル」という形で2000年にコンサドーレ札幌に移籍してきました。
 ワールドユース準優勝メンバーとはいえ、高原直泰、永井雄一郎、小野伸二、稲本潤一、小笠原満男、本山雅志ら錚々たるメンバーが並ぶ中、スーパーサブとしての出場が多く本大会で無得点に終わっていた播戸の知名度は決して高いものではなく、むしろ「そんな人いたっけ?」的な扱いで、同じ年に加入したエメルソン同様、必ずしも大きな期待を持って迎え入れられたわけではありませんでした。その上、やってきた経緯に加えて、吉原とは似たような背格好でプレイの特徴も似ており、さらにガンバでつけていた番号も同じ18番だったため、どうしても吉原と比較されてしまうのは仕方がない話で、前のシーズンにJ2で15得点を挙げた得点源と同時に人気No.1選手だった吉原の穴を埋められるかどうかという見方が強かったように思います。
 しかし、札幌にやってきた播戸竜二はその予想をいいほうに裏切ります。サガン鳥栖との開幕戦で先制点を叩き込み、サポーターに向けて最高のアピールを見せました。ところが、この名刺代わりの一発も束の間、この試合で相手DFのタックルを受けて腰椎横突起骨折という重傷を負ってしまい早々に離脱を余儀なくされます。奥ゆかしく名刺だけ置いていった播戸が戦列に復帰したのは5月のサガン鳥栖戦。まるまる1クールを棒に振る格好となってしまいました。しかし復帰3戦目のアルビレックス新潟戦で決勝ゴールを叩き込むと、その後も持ち前のスピードとどんなボールにも食らいついていく執着心を武器にコンスタントにゴールを挙げ続け、エメルソンとの「すばしっこいちびっ子2トップ」は他のJ2チームの脅威となりました。この年の播戸の成績はシーズン合計で32試合出場16ゴール。エメルソンの34試合31ゴールという異常な成績に隠れてしまったのは不幸でしたが、前年の吉原と比べても全く遜色ない数字を残しました。また、人気面においても端正な顔立ちの吉原とは系統が違うながらも、やんちゃ坊主がそのまま大きくなったような、人当たりがいいわけではないけどどこか憎めないキャラクターで、地元出身の期待株だったルーキー山瀬功治(現横浜F・マリノス)を凌いでチーム一の人気を集めるようになっていきました。
 というわけで期待以上の働きを見せた播戸ですが、ネックだったのは他の主力選手同様彼もまたレンタル選手だったこと。レンタル依存体質からの脱却は急務であり、幸か不幸かエメルソンの完全移籍に失敗したチームには、まだそのための資金が3億円近く残されていました。サポーターからも播戸の完全移籍を望む声が圧倒的でしたし、ガンバへレンタル移籍中だった吉原宏太が4000万円で完全移籍となることが決定的とされておりましたので、当然その吉原と交換でレンタルされていた播戸の完全移籍は確実だろうと思われていました。ところが結末は、吉原が完全移籍し播戸はレンタル延長。本人が完全移籍を拒否したのかそれともチームの事情なのかはわかりませんが、いずれにしても播戸は2001年もレンタルのままプレイすることになりました。

 J1での播戸は相方がエメルソンからウィルに替わったものの、開幕戦から息の合ったコンビネーションを見せ、開幕戦の決勝ゴールやホーム開幕戦でのヴェルディ戦でのゴール、古巣ガンバ大阪戦での決勝ゴールなど重要なゴールを次々と挙げ、大量失点を喰らった清水戦ではチーム全体の気持ちがキレてしまっていた中、1人だけ気を吐いて意地のゴールを決めるなど、勝負強さに加えて負けん気の強さも発揮。また、「無名の苦労人のサクセスストーリー」という少年マンガさながらのサッカー人生が実際マンガになったり(「播戸竜二物語・少年サンデースーパー2001年12月号掲載)、コンサドーレの選手として初めて自身の公式サイトを開設して情報発信したりと、徐々に北海道以外にもその存在感をアッピールしていきました。
 ところがシーズンも終盤になると、そのパフォーマンスは目に見えて落ちていきます。J1残留という目標がほぼ見えてきた頃はチーム全体に倦怠感が漂っており、特別に播戸だけが悪かったというわけではないのですけど、持ち味である裏への飛び出しはすっかり影を潜め、足元でボールを欲しがって何度もボールを奪われるシーンが多く見られるようになりました。今にして思えば、彼は彼なりに「ただ速いだけのストライカー」からの脱却を目指し、プレイの幅を広げようと必死だったのかもしれません。しかし、(少なくともこの時期は)スピードを忘れた播戸なんてベアークローのないウォーズマンみたいなモンです。1stステージでは6得点を挙げながらも、10月17日のサンフレッチェ広島戦の2ゴールを最後にゴールはぱったりとなくなり、2ndステージではわずかに3得点。もっとも、チーム全体でもそれ以降は6試合で2点しか取れなかったのですけど。結局この年はシーズン通算で29試合9得点という成績でした。
 そしてこの年のオフ、当然のようにレンタル選手であった播戸の去就が注目されますが、結局サポーターの慰留も虚しく生まれ故郷である兵庫県のヴィッセル神戸にレンタル移籍。今にして思えば沈む船から逃げるネズミみたいなものだったのかも知れません。彼がもし残っていれば、翌年は…やっぱり降格していただろうな。
 その後2003年に神戸に完全移籍を果たし、2004年には名古屋のマルケスと並んでJ1得点ランキング3位となる17ゴールを挙げ、シーズン通算では32試合で20ゴールという大活躍を見せました。ちなみにこの年の得点王はエメルソン(浦和・27ゴール)、2位に大黒将志(ガンバ・20ゴール)。得点ランキングトップ3を元札幌選手が占めるという、逃した魚は大きいシーズンでした。しかし昨年は怪我もあってあまり試合に出られず、2得点に終わりチームもJ2降格。今年からガンバ大阪に完全移籍し、7シーズンぶりに古巣でプレイすることになっています。

 公称171cm65kgと決して恵まれているとは言えない身体で、サッカー選手としては裏街道を通りながらも日本有数のストライカーに上り詰めたのも、「火の玉小僧」と呼ばれた負けん気の強さがあってこそでしょう。ルーキー時代に、紅白戦で危険なファウルをしてきたダンブリーに右ストレートを食らわしたという逸話も残っていますが、そんな播戸も気がつけば今年で27歳。実はソダンと1歳しか違わないという事実が意外に感じられる辺り、播戸竜二という選手はやっぱりこの先も「永遠の小僧」で有り続けるのかも知れません。


posted by choo |23:57 | スーパースター列伝 | コメント(6) | トラックバック(1)