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2006年01月18日

【スター列伝】名塚善寛

 なんのかのといって子育てに忙しい日が続き、なかなか思うように更新できない今日この頃。実は今年初めての更新なのですが、今日は名塚善寛を取り上げてみようと思います。

 名塚は1969年10月7日千葉県船橋市生まれのディフェンダーで、習志野高校から1988年にJSL1部のフジタ工業に入団。以後1998年までの11シーズンに渡ってプレイし、1999年にコンサドーレ札幌に移籍してきました。フジタ時代の1992年にはバルセロナ五輪代表にも選ばれ、1993年にチームがプロ化してベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)となってからも、Jリーグ昇格や天皇杯優勝、アジアカップウィナーズカップ制覇に貢献し、また個人としても1994年にJリーグベストイレブンに選出され、またファルカン監督の下で日本代表として11試合に出場、同年のキリンカップではほぼベストメンバーを揃えたフランスにチンチンにやられ、ワールドカップに出られなかった腹いせをされましたが、7月8日に瑞穂陸上競技場で行われた対ガーナ戦で決勝ゴールを挙げています。まぁ、この時のガーナ代表は平均年齢18.5歳と実質オリンピック代表だったのですが。名塚が代表に名を連ねていた頃は「ドーハの悲劇」以降の代表混乱期にあったせいか、代表での成績自体はあまり芳しいものではありませんが、それでもベルマーレの黄金期を支えた選手の1人であったことは確かです。
 しかし、1998年オフにベルマーレ平塚はフジタ工業が経営から撤退し、高年俸の主力を軒並み放出せざるを得なくなってしまい、主力選手が各チームへちりぢりに移籍していきました。そんな中で名塚はなぜか1999年にコンサドーレ札幌に移籍してきました。まぁそうでもなければ日本代表キャップを持つJ1チームの主力だった選手が、J2落ちした北の僻地チームに移籍してくるなんて通常考えられないんですけどね。割とドサクサ紛れっぽく札幌は優秀なDFを手に入れたわけですが、小島伸幸がアビスパ福岡へ、田坂和昭が清水エスパルスへ、洪明甫が柏レイソルへ、呂比須ワグナーが名古屋グランパスエイトへと、代表キャップを持つ他の主力がみな他のJ1チームに移籍していく中、なぜか名塚はJ2。

 ともあれ、札幌に移籍してきてからもその統率力と読みの鋭さで守備陣を統率。移籍してきた初年の1999年こそチームとしての戦い方が定まらなかった影響で昇格は逃しましたが、この年の4バックの相方センターバックがめまぐるしく変わりながらも年間失点数は35点(36試合)。これは1位の川崎フロンターレにわずか1点差の2位タイの少なさでした。そしてチームキャプテンに就任し、3バックの中央となった2000年は40試合で失点数わずか22失点、1試合平均で0.55点という鉄壁の守備陣を支え、J2優勝・J1昇格に貢献しました。また、どっちかといえば岡田武史監督(当時)好みのいぶし銀な地味目の選手でしたが、1999年から2000年の2シーズンで計6得点を挙げているように、特にセットプレイの時の得点能力もありました(得点能力という観点において1年で11点取った池内を出してはいけません)。もちろんJ1に昇格した2001年も、キャプテンマークこそ野々村芳和に譲ったもののDFリーダーとして守備陣を統率しコンサドーレの開幕ダッシュの原動力となり、名塚、森、大森の3バックは「精密機械」とまで言われました。
 しかしこの頃には既に慢性的な両足首痛に悩まされており、フル稼働は難しい状態になっていました。それでも当時の札幌は「組織的守備」といえば聞こえはいいものの、レギュラーが1人でも欠けると途端に機能しなくなる、いわばギニュー特戦隊のスペシャルファイティングポーズみたいなものでした。実際名塚が欠場した清水エスパルス戦ではいきなり5失点も喰らう大惨敗を喫してしまい、急遽北海道から遠征先に呼び出されるということもあり、休むに休めない状況だったのです。チームに欠かせない選手なのはいいことですが、藤子アニメの肝付兼太じゃあるまいし、出ずっぱりにもほどがあるってモンです。この無理がたたったのかどうかはわかりませんが、結局この年を最後に現役を引退。Jリーグ通算238試合(J1:177試合、J2:61試合)出場という偉大な記録を残しながらも、最後まで「義寛」と書かれることが多かった悲劇の人でした。
 現在はそのまま札幌に残り、コンサドーレ札幌ユースU-12のコーチとして将来のトップチームの卵たちを温め続けています。


posted by choo |17:05 | スーパースター列伝 | コメント(5) | トラックバック(1)