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2005年11月30日

重大?発表

 えー、世間では契約の更新通知で誰が構想外となるのかということで盛り上がってる中、自分語りの最初が文字通りの自分語りで申し訳ないのですけど。

 11月30日13時すぎ、子供が生まれました。

 つってもオレが口からタマゴを生んでそのタマゴが孵ったとかガリクソンからガルベスが生まれたとかそういうわけではもちろんなく、普通にカミさんが柴犬のメス…じゃなくて人間の女の子を生みました。母子共々健康です。まだ草津戦は残っていますが、ほぼオフシーズン突入に生まれてくれるのはなんと親孝行な娘です。立派なコンサドーレサポーターに育てて他のゴール裏メイトの2世たちとゴール裏デビューでもさせる野望を今から抱いております。

 まぁ、父親に似た場合はかなりの確率でアニメオタクに育つ可能性が高いのですが。

 というわけでとりあえずアウェイ遠征はしばらく自粛かなぁと思っておりますので、ゴール裏メイトの皆さんにお会い出来るのも味スタなどの関東近辺での試合に限定されてしまうかもしれませんが、なんとか愛媛くらいには行きたいなぁ。それよりも孫を見せてあげるなどと甘い言葉で実家に娘を預けて、今年行けなかったホームゲームに…。


posted by choo |23:59 | オノレネタ | コメント(27) | トラックバック(0)

2005年11月30日

【スター列伝】森下仁志

 本当は別の人を書くつもりでいたのですが、現役を引退されるということで書いてみることにします。というわけで第4回は森下仁志です。

 1972年和歌山県生まれ。帝京高校から順天堂大学を経て1995年にガンバ大阪に入団。2001年のシーズン途中からコンサドーレ札幌にレンタル移籍してきました。当時の札幌は右サイドの出来る選手が田渕龍二の他には2年目の中尾くらいしかおらず非常に手薄だった反面、ボランチはビジュ、今野泰幸、野々村芳和、瀬戸春樹と人数はそれなりに揃っていたため、ボランチをひとり交換要因として放出し、右サイドの出来る選手を獲得しようという、まるで野球のようなトレードで札幌にやってきました。その風貌は当時の岡田監督に「板前さんみたいだね」といわれ、サポーターからは「板長」と呼ばれます。ちなみに召還する生け贄として人身御供となったのは瀬戸でした。瀬戸は当時大分からのレンタルだったため、いったん札幌が瀬戸の大分からのレンタルを解除し、大分は再びガンバ大阪へ瀬戸をレンタル、そして札幌は板長をガンバからレンタルするという感じで、右サイドの選手をひとり引っ張ってくるのに人転がしのような複雑な経緯でまで獲ってきたわけですが、来た途端に野々村が膝にケガを負って長期離脱してしまい、「GK以外ならどこでもやった」という板長は結局ボランチをやることに。右サイドはそのままいつもの通り田渕が担当し、結果として状況としては何も変わりませんでした。
 しかしそれでも板長は、アウェイ鹿島戦でいきなり退場するものの、その後は縦横無尽にピッチを駆けめぐり、なおかつ一試合を通してなお衰えないスタミナを武器に活躍し、札幌の(今のところただ1回だけの)J1残留に貢献。板長自身もこの年の暮れに父親が亡くなられた際、サポーターから花束を贈られたことにいたく感動し、2002年シーズン前には相思相愛の形で札幌に完全移籍を果たすことになります。

 しかし、今から考えればこの時が一番お互いにとって幸せな時期だったのかも知れません。完全移籍を果たした翌年は、引退した野々村の跡を継いでキャプテンに就任。ところが、間の悪いことにこれは岡田監督退任を受けてコンサドーレが暗黒時代に突入してしまった時期とざっくりかぶってしまいます。もともと豊富な運動量とスタミナを除いては特に秀でた武器はなかったため試合でもパスミスを連発、「気合が空回り」という言葉がそのまま当てはまるような状態となります。すべてが悪い方向に突き進んでいたチームをまとめ上げることにも失敗し、次第にチームの不協和音が外部にも漏れ伝わるようになってしまいました。特に副主将でもあった守護神・佐藤洋平との不和はサポーターの間でもまことしやかに囁かれており、結局この年チームはJ1最下位でJ2降格となります。翌2003年も引き続きキャプテンとして今度はチームの立て直しを期待されましたが、状況としてはあまり変わったこともなく、親しみを込めて使われていた「板長」という呼称も、いつしかガンバ時代の「モリゲ」というものにグレードダウンしていき、その存在もすっかり単にネタ選手の1人として扱われるようになっていってしまいます。札幌にはもうひとりU-15監督のである森下仁之氏という同姓同名のスタッフがいますが、高円宮杯で2年連続準優勝という実績を作った森下監督が「いいほうの森下」と呼ばれていたことからも、その立場は随分微妙になっていたことが伺えます。
 2002年のナビスコカップ磐田戦で試合前にサポーターから渡された、サポーターの思いの丈が書き込まれたキャプテンマークをその後も大事に巻いてプレイしていたように、サポーターをとても大切にする選手でしたが、2004年には若返りの余波を受けて失意のままジュビロ磐田に移籍。磐田には既にシーズン途中に移籍していた佐藤洋平がいたのはどう考えても何かの縁だと思うのですが、伝統的にGKに恵まれなかった磐田に請われ、その通りに活躍した洋平と違い、何を目的にオファーしたのかはついぞ磐田のサポーターにも不明なまま。2004年にはリーグ・カップ計9試合に出場したものの、世代交代を推し進めた2005年はここまで1試合の出場もなく、今季いっぱいを以て現役を引退。今後は指導者としての道を進むとのことです。
 板長にとって札幌でプレイしていた2年半について、本人がどのようにとらえているのかは知る由もありませんが、思えば今現在和波が苦しんでいる「キャプテンになると途端におかしくなるの法則」は、この人から始まったような気がします。


posted by choo |00:54 | スーパースター列伝 | コメント(4) | トラックバック(1)