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2005年12月07日

【スター列伝】エメルソン

 というわけでいよいよこの人を書こうと思います。第5回はエメルソンです。ご存じ札幌をJ1昇格に導いた稀代のストライカー。

 本名はマルシオ・エメルソン・パッソス。1981年9月6日ブラジルのリオデジャネイロ州ノバイグアス市生まれで、サンパウロFCから2000年にコンサドーレ札幌に期限付き移籍することが発表されたのは、年の瀬も押し迫った1999年の末でした。当時弱冠18歳だった若きブラジル人選手は、この先日本をいろんな意味で震撼させる選手になるわけですが、その頃のサポーターの反応は「ブラジル人FWが来る」という以上のものはありませんでした。当時、札幌は前年の助っ人補強に失敗しており、1999年シーズン当初に獲得した助っ人はことごとくヤムチャでした。唯一MFロベルト・アシス(今をときめくロナウジーニョの実兄)だけはそれなりに活躍しましたが、年俸面等を考えればナッパくらいの評価で、結局残ったのはシーズン途中から加入したビジュのみ。監督1年目だった当時の岡田武史監督に「外国人は宝くじ」というトラウマを植え付ける結果となっていたため、助っ人に対して懐疑的な見方が強かったのです。ですから、前年から契約延長のビジュと既に東京で実績のあるミールさんはいいとしても、元ブラジルユース代表という経歴以外にはほとんど何の実績もないと言っていい無名のブラジル人ストライカーに寄せる期待は、さほど大きくなかったこと、加えて、この頃は吉原宏太のガンバ大阪への移籍が正式に発表されたばかりでそれどころじゃなかったため、サポーターの間ではそれほどの盛り上がりがなかったのも無理もないことでした。
 ところが、シーズン開幕前のキャンプで当時の名塚主将が「今すぐ完全移籍させるべき」というコメントを出すなど新聞紙上でもその評価は鰻登りで、「ひょっとして大物なのか?」という空気が流れはじめます。そして、その風評が現実のものとなるのに、さほど時間はかかりませんでした。サガン鳥栖との開幕戦でハットトリックを達成する衝撃デビューを飾ると、続く甲府戦でも2得点。その後も相手DFをわずか数歩で置き去りにするスピードと、振りの早い強烈なシュート、そして何よりボールを持ったらまずシュートという徹底的な俺様っぷりで得点を重ね、出場34試合で31得点を挙げて得点王に輝き、昇格の原動力となりました。
 しかし、エメルソンの魅力はこれだけではありませんでした。というかむしろ高い得点能力はむしろおまけで、エメのエメたるゆえんはその本人そのものにあります。まずはカード癖。この年はシーズンで11回の警告を受け、退場2回。一発退場こそないものの、カードの数だけなら今年の池内より上です(しかもこの年の試合数は今よりも4試合少ない40試合)。そういえば2001年にJ1得点王に輝いたウィルもカードゲッターとして名を馳せましたので、「チームのゴールゲッターはカードゲッターでもある法則」は今なお生き続けているのでしょうか。
 また、ピッチの外でもいろいろとありました。「札幌にエメルソンあり」というのがJリーグにも響き渡り始めた頃、まだ18歳のエメに2歳の息子がいることが発覚。しかもてっきり母親は何度かフィアンセとして来札していた女性だと思っていたら、よくよく話を聞いてみれば実はそうではないらしく、「エメが速いのは脚だけじゃない」という評価も得ました。ちなみにこの子供の存在や「年の割に老けて見える」という理由から、後にエメルソン年齢詐称疑惑も囁かれました。
 さらには放蕩癖も素晴らしく、J1昇格とJ2優勝を果たしチームの目標を達成すると、残り試合をすっぽかしてとっととブラジルに帰国。当初は天皇杯までに帰ってくる予定だったのが天皇杯が始まっても帰ってくるそぶりすら見せませんでした(帰ってきたのは2回戦が終わったあとで、結局天皇杯は最後まで出場せず)。
 まぁそんな感じで問題児としても名を馳せたエメでしたが、サッカーのスキルは超一流ですから、当然札幌は完全移籍を望みます。しかしネックとなったのは100万ドルという移籍金でした。当然、予算の少ない札幌にはどだい無茶な金額で、資金繰り以前の問題に直面した札幌はこの移籍金をまかなうため、サポーターから1口5万円の増資を5000口募るという無謀な方法を採用。もちろん「エメルソン基金」などというお題は付いていませんでしたが、計画の趣旨から言えばエメの移籍金捻出のためであることは確か。エメ残留を願うサポーターから集められた金額は最終的に3億円近くにもなり、金銭面での障害はなくなったかに思われましたが、ところがどっこいエメときたら「年俸1億円欲しい」と言いだしはじめます。移籍金は用意できてもそれにプラス1億では資金はショートしますし、他の選手との年俸バランスも崩れてしまうため、交渉はいきなり決裂。「朝起きたら肩が反対になっていたからブラジルに帰って手術します」という有名はセリフを残して札幌を出て行き、そしてそのまま二度と戻ってきませんでした(その後、相手チームの一員として札幌に来ましたが)。

 札幌を退団した後は、1年でJ2に降格した川崎フロンターレに完全移籍します。札幌と違って資金力のある川崎はエメの希望通りの条件を呑み、さらにはエメのサンパウロ時代の「恩師」であるピッタ氏をコーチに呼んでまでJ1復帰をこのストライカーに賭けたわけですが、もちろんエメ1人で勝ち続けられるわけもない上、中身は相変わらずエメのままのエメをしまいには持て余しすようになり、シーズン途中でピッタコーチともども浦和に売却されます。その後もやはりきっちり結果は残しますが中身はやはりエメのまま。少しは大人になったのかカード収集癖は影を潜めたものの、一度ブラジルに帰ったら必ず最後来日予定に間に合わず「エメっぷり」は相変わらずのまま。さらにはJリーグの中ではトップクラスの予算を誇る浦和ですら年俸は足りなかったようで、最後にブラジルに帰ったまま来日しないと思ったらいきなりカタールのクラブに移籍していたという瞬間移動を見せた上、しかも何が気にくわなかったのか肩が反対になったのか首が真後ろに回ったのかはわかりませんが、そのカタールのクラブも正味3ヶ月も経たないうちに電撃退団(※)。その後はJリーグのクラブに売り込みをかけていたそうですが、いくら実力があっても年俸も高い上に、さすがにここまで来れば少なくともJリーグに彼を雇うクラブはなく、現在消息は不明。
 まぁエメであれば欧州に行っても十分通用するとは思いますが、「欲するままに生きてたらこうなる」という、ある意味非常に人間力の高い選手でした。


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posted by choo |23:20 | スーパースター列伝 | コメント(3) | トラックバック(2)

2005年11月30日

【スター列伝】森下仁志

 本当は別の人を書くつもりでいたのですが、現役を引退されるということで書いてみることにします。というわけで第4回は森下仁志です。

 1972年和歌山県生まれ。帝京高校から順天堂大学を経て1995年にガンバ大阪に入団。2001年のシーズン途中からコンサドーレ札幌にレンタル移籍してきました。当時の札幌は右サイドの出来る選手が田渕龍二の他には2年目の中尾くらいしかおらず非常に手薄だった反面、ボランチはビジュ、今野泰幸、野々村芳和、瀬戸春樹と人数はそれなりに揃っていたため、ボランチをひとり交換要因として放出し、右サイドの出来る選手を獲得しようという、まるで野球のようなトレードで札幌にやってきました。その風貌は当時の岡田監督に「板前さんみたいだね」といわれ、サポーターからは「板長」と呼ばれます。ちなみに召還する生け贄として人身御供となったのは瀬戸でした。瀬戸は当時大分からのレンタルだったため、いったん札幌が瀬戸の大分からのレンタルを解除し、大分は再びガンバ大阪へ瀬戸をレンタル、そして札幌は板長をガンバからレンタルするという感じで、右サイドの選手をひとり引っ張ってくるのに人転がしのような複雑な経緯でまで獲ってきたわけですが、来た途端に野々村が膝にケガを負って長期離脱してしまい、「GK以外ならどこでもやった」という板長は結局ボランチをやることに。右サイドはそのままいつもの通り田渕が担当し、結果として状況としては何も変わりませんでした。
 しかしそれでも板長は、アウェイ鹿島戦でいきなり退場するものの、その後は縦横無尽にピッチを駆けめぐり、なおかつ一試合を通してなお衰えないスタミナを武器に活躍し、札幌の(今のところただ1回だけの)J1残留に貢献。板長自身もこの年の暮れに父親が亡くなられた際、サポーターから花束を贈られたことにいたく感動し、2002年シーズン前には相思相愛の形で札幌に完全移籍を果たすことになります。

 しかし、今から考えればこの時が一番お互いにとって幸せな時期だったのかも知れません。完全移籍を果たした翌年は、引退した野々村の跡を継いでキャプテンに就任。ところが、間の悪いことにこれは岡田監督退任を受けてコンサドーレが暗黒時代に突入してしまった時期とざっくりかぶってしまいます。もともと豊富な運動量とスタミナを除いては特に秀でた武器はなかったため試合でもパスミスを連発、「気合が空回り」という言葉がそのまま当てはまるような状態となります。すべてが悪い方向に突き進んでいたチームをまとめ上げることにも失敗し、次第にチームの不協和音が外部にも漏れ伝わるようになってしまいました。特に副主将でもあった守護神・佐藤洋平との不和はサポーターの間でもまことしやかに囁かれており、結局この年チームはJ1最下位でJ2降格となります。翌2003年も引き続きキャプテンとして今度はチームの立て直しを期待されましたが、状況としてはあまり変わったこともなく、親しみを込めて使われていた「板長」という呼称も、いつしかガンバ時代の「モリゲ」というものにグレードダウンしていき、その存在もすっかり単にネタ選手の1人として扱われるようになっていってしまいます。札幌にはもうひとりU-15監督のである森下仁之氏という同姓同名のスタッフがいますが、高円宮杯で2年連続準優勝という実績を作った森下監督が「いいほうの森下」と呼ばれていたことからも、その立場は随分微妙になっていたことが伺えます。
 2002年のナビスコカップ磐田戦で試合前にサポーターから渡された、サポーターの思いの丈が書き込まれたキャプテンマークをその後も大事に巻いてプレイしていたように、サポーターをとても大切にする選手でしたが、2004年には若返りの余波を受けて失意のままジュビロ磐田に移籍。磐田には既にシーズン途中に移籍していた佐藤洋平がいたのはどう考えても何かの縁だと思うのですが、伝統的にGKに恵まれなかった磐田に請われ、その通りに活躍した洋平と違い、何を目的にオファーしたのかはついぞ磐田のサポーターにも不明なまま。2004年にはリーグ・カップ計9試合に出場したものの、世代交代を推し進めた2005年はここまで1試合の出場もなく、今季いっぱいを以て現役を引退。今後は指導者としての道を進むとのことです。
 板長にとって札幌でプレイしていた2年半について、本人がどのようにとらえているのかは知る由もありませんが、思えば今現在和波が苦しんでいる「キャプテンになると途端におかしくなるの法則」は、この人から始まったような気がします。


posted by choo |00:54 | スーパースター列伝 | コメント(4) | トラックバック(1)

2005年11月23日

【スター列伝】アウミール

 好評なのか不評なのかあんまりよくわからないスーパースター列伝、第3回の今回はアウミールです。田渕、先生と大塚製薬出身の選手を書いたら、すっかり大塚づいてしまいましたので今回もやっぱり大塚製薬です。「じゃあ次回は磯山和司だな!」と思われるかも知れませんが、書きません。だって半年もいなかったしな。

 というわけでアウミールです。本名はアウミール・モライス・アンドラーデ。1973年ブラジルのミナスジェライス州ラブラス市生まれで、1990年にマツバラでプロ選手としてのキャリアをスタート。1994年にアトレチコ・パラナエンセに移籍し、1995年に来日して1996年までの2シーズン大塚製薬でプレイしたあといったんブラジルに帰国。その後パルメイラス、ゴイアス、アメリカ・カリを渡り歩き、1999年に再来日してFC東京のJ1昇格に貢献した後、2000年にコンサドーレ札幌に東京からのレンタルで移籍してきました。通称は「ミールさん」で、東京時代はボランチのポジションを務めることが多かったのですが、札幌時代は10番を背負い、主にトップ下か左サイドでプレイしていました。札幌のこれまでの9シーズンで「10番」をつけていた選手はミールさんの他にはオテーロ、ウーゴ・マラドーナ、アシス、山瀬功治、ホベルッチ、ウリダ、中尾康二、三原廣樹と8人の選手がいますが、このミールさんはそんじょそこらの10番とはわけが違う。何しろ、単純にテクニックだけを取るならばおそらく歴代の10番の中でも一番ヘタな10番。長い足で相手からファウルせずにひょいとボールを奪う様はとっても見事だったのですが、そのボールをドリブルしようとすると今度はその長い足を持て余し、FC東京時代はサポーターからドリブルをすると何処に行くかわからないことから「糸の切れたタコ」と呼ばれていたほどです。かといってパサーというわけでもなければプレイスキックが得意なわけでもなく、魅力的な武器といえばそのつぶらな瞳くらいという感じでした。
 しかしミールさん、1年半という10番期間の長さと出場試合数の多さはウーゴ・マラドーナ(1997~1998)に次いで2番目です。2000年のJ1昇格時には、チームでただ1人ケガもなければ累積警告もなく全40試合に出場しました。加えて、敬虔なクリスチャンのミールさんはブラジル人選手としてはかなりマジメな選手で、日本での経験も長く多少の日本語も理解できたため、他のブラジル人選手の間に入ってそのとりまとめ役となっていました。とりわけミールさんがいた頃の札幌はやんちゃ盛りだったエメルソンや、日本語はもちろんポルトガル語ですら通じるかどうか怪しいビジュ、俺の俺による俺のためのウィルという問題児ばかりを抱えており、そのお守り役としてのミールさんの貢献度は高かったと思います。まぁ、どっちかというと俺王様にとっては手下みたいなものだったかも知れませんけど。

 そんな感じで徹底的に地味な10番だったミールさんですが、彼は同時に悲劇の人でもありました。複数のポジションをこなせるユーティリティプレイヤーではあったものの、やはり「助っ人としてはJ1ではちと足りない」という部分もあったため、2000年のオフにエメルソンの引き留めに失敗した当時の岡田武史監督が「お守り役は必要ない」という判断で構想外となってしまいます。ところが、エメルソンだけでなくビジュまでも移籍をほのめかしたため、「助っ人総取っ替え」の危険に晒されたクラブは一転ミールさんに残留を要請。端から見れば身勝手とも受け取れるこの仕打ちにもミールさんはあっさりと再契約を結びました(この決定を受けてかどうかは不明ながらも、ビジュも結局残留)。ちなみに、この後に行われた第80回天皇杯の第4回戦・対横浜F・マリノス戦で、1-1で迎えた延長戦でゴール前どフリーのシュートをミールさんがあり得ない外しっぷりを見せました。岡田監督は「勝つとブラジルに帰るのが遅れるからワザと外した」と言っていたそうですが、ミールさんなりのささやかな仕返しだったのかも知れません(試合はその後前園顔木島にVゴールを決められ1-2で敗退)。そうまでして残った翌2001年ですが、やはり力不足と判断されたのか、新助っ人アダウト獲得の煽りを受けて再びシーズン途中で解雇。つぶらな瞳の鉄人は赤黒のユニフォームを脱ぎました。

 札幌を退団した後はどこのチームにも所属した形跡が見られなかったためその消息がつかめず、「札幌で料理屋をやっている」「群馬でフットサルをやっている」「浅草でサンバを踊っているのを見た」「ティターンズの一員としてジオンの残党狩りをしている」など真偽不明の目撃談も飛び交いましたが、2003年にコリチーバに入団し、今はブラジルのポルトゲーザでボランチとして元気にサッカーを続けています。


posted by choo |01:16 | スーパースター列伝 | コメント(10) | トラックバック(1)

2005年11月16日

【スター列伝】古川毅

 第2回は「先生」こと古川毅です。1972年生まれ、青森県五戸市出身。五戸高校から1991年に仙台大学に入学、大学卒業後の1995年に大塚製薬に入団し、1997年にコンサドーレ札幌に移籍してきました。第1回で紹介した田渕とは同い年で、共に同じ大塚製薬でプレイ(ただし学年は田渕のほうがいっこ上で、高卒で入団した田渕のほうが大塚では先輩)、コンサドーレに移籍してきた年も同じならば、さらには退団した年も一緒という一心同体少女隊(知ってる人は30代以上)。ちなみに「先生」と呼ばれている理由は実はオレも確かなことは知らないのですが、教職員免許を持っているからというのが由来のようです。今でこそJリーガーで教員免許を持っている選手も少なくないのかも知れせんが、当時は珍しかったのでしょう。
 さて、この古川先生、ポジションは札幌では主に3バックの中央を務めていたのですが、とてもふしぎなプレイヤーでした。ソダンのように空中戦に強いわけでもなく、カガケンのようにスピードがあるわけでもなく、池内アニキのように読みが鋭いわけでもなく、西澤画伯のように対人に強いわけでもなく、名塚のように統率力に優れているわけでもなく、ホンコンのようにフィードがうまいわけでもない。強いて長所を挙げるならカバーリングがうまいと言えるくらいで、よく言えばトータルとしてバランスの取れたディフェンダー、悪く言えば普通の人。じゃあ全然特徴がないのかと言われればそういうわけではなく、むしろ特徴ありまくりでした。その他にも、腕を水平に振って走る「先生走り」、前ではなく真上にクリアする「先生クリア」、ヒジと手を水平にして叩く「先生拍手」など数々の「先生技」を編み出しました。いずれもプレイとはほとんど関係ありませんけど
 しかし先生の最大の特徴、それは「スペクタクル」でしょう。1試合に1度は必ず何かやらかします。そのやらかしっぷりは今のソダンなど比較になりません。しかし特筆すべきことは、たとえやらかしてもそれがなぜか直接失点には結びつかないところ。といってもそれは当時守護神だった佐藤洋平の神セーブによるところが大きかったのですけど、それでも相手が勝手にミスしてくれることも多く、古川先生の周囲には異次元ワールドが広がっていたに違いありません。その数々のスペクタクルの中でも特に印象深いのが2001年9月22日の万博でのガンバ大阪戦。札幌のペナルティエリア内で古川先生がクリアできず、ボールはガンバのFW松波正信の前にぴたりと止まったのですが、お互いビックリしたのか止まったボールを挟んだまま先生と松波が硬直したままお見合いしていたという爆笑シーンは今でも鮮烈に憶えています。
 というわけで、これといった得意技を持たないかわりに、かといって特に大きな欠点もなく(スペクタクルはむしろ長所)、ベンチに置くには格好の選手だったためか、札幌に在籍していた7シーズンの間、開幕当初は必ずサブかもしくはベンチ外でした。しかしシーズンが進むといつの間にかしっかりスタメンに名を連ねており、定位置を確保しかと思えば翌年開幕するとやっぱりスタメンにはいないという不思議な選手でした。
 とはいえそれでもまたいつの間にかスタメンに入っているということは、たとえ試合に出られなくても腐らずに常にコンディションを整え、いつ来るかもわからない出番に備えていたからでしょう。決してスーパーな選手ではなかったかも知れませんが、そのプロ意識は一流でした。

 そんな感じでサポーターから愛された先生でしたが、J2降格となった2002年シーズンを最後に残念ながらチーム構想外となり、モンテディオ山形に移籍。山形ではその経験を買われてキャプテンマークを巻いてプレイすることも多く、2004年に現役を引退するまでリーグ戦と天皇杯計64試合に出場、2得点を挙げました。現在は京都パープルサンガ育成普及コーチを務め、文字通りの「先生」としてU-15チームを指導しています。
 古川先生がコンサドーレに戻ってくることはないかも知れませんけど、先生がつけていた背番号14は、これからも「スペクタクルの象徴」として受け継がれて行くに違いありません。がんばれタバタン(何を?)。


posted by choo |00:11 | スーパースター列伝 | コメント(8) | トラックバック(1)

2005年11月08日

【スター列伝】田渕龍二

 というわけで「スーパースター列伝」、記念すべき第1回目を飾る選手といえば、この人しかいないでしょう。田渕龍二です。「どーせ1発目は俺王様なんだろ?」とか思っていた方もいらっしゃるかと思いますが、田渕です。なぜ田渕かって言われても、だって好きなんだもん。

 徳島県出身で徳島商高から1991年に大塚製薬(現徳島ヴォルティス)に入団し、1997年にコンサドーレ札幌に移籍してきた田渕は、2003年にヴィッセル神戸に移籍するまでの7年間、右サイドのレギュラーとして出場し続けました。そのプレイスタイルはまさしく「いぶし銀」という言葉がよく似合い、そのプレイスタイル同様本人も一言で言えば「職人」。それも、ススキノの雑居ビルで炉端焼き屋を営み、無口で客には愛想がないが腕は一流、普段は頑固だが家族には優しい父親ってタイプの職人でした。ここまでいってすんなりと「コロポックリ」という単語が頭に浮かんだ方、そんなあなたはけっこうトシですので気をつけてください。ちなみにオレは東京に出てきた時、高田馬場の栄通が実在したことに感動して「ルブラン」という店を探したりしましたけど当然田渕とは関係ありません。

 さて、田渕の最大の武器といえば、やはり「トラップ」でしょうか。マジでこの田渕のトラップは芸術品でした。オレがサポーターとして札幌の試合を見始めた1999年から田渕が退団するまでの4年間、田渕がトラップミスをしたシーンなんてほとんど見たことがありません。マジでトラップだけなら日本代表クラスと言っても過言ではなかったと思います(どっちかというと過言)。田渕のもっとも印象に残るゴールといえば、やはり2000年7月29日、厚別での浦和レッズ戦の同点ゴールなんですが、このゴールもエメルソンからの鬼のような愛のないサイドチェンジパスをぴったり止め、トラップ後のボールを狙っていた浦和DFが飛び込めずにいたところ一瞬で交わして左足で叩き込んだというものでした。終了間際の大森健作のゴールと共に伝説となったこのゴールも、そのトラップが生んだようなものです。まぁ、結局このゴールがプロ最後のゴールとなったんですけどね。
 あと印象に残っているプレイといえば、2001年5月19日の磐田スタジアム(現ヤマハスタジアム)でのジュビロ磐田戦でしょうか。この試合、当時無敵を誇っていた磐田に対し、後半に和波智広のゴールで先制した札幌がロスタイムまでそのリードを守っていたわけですが、その和波のゴールをアシストしたのが田渕でした。アウミールからの「行ってこいロングパス」に追いつき、そのまま上げたクロスが逆サイドからぶっ飛んできた和波がヘディングで決めています。直前まで自陣で守備をしており、「いるはずのない場所」に現れた和波も見事だったのですけど、田渕のクロスももう「ここしかない」という見事なものでした。ただこれ以外にも多くのアシストを決めているハズなんですけど、何でか知らんけどこれ以外のアシストが記憶にないくらい守備的なイメージの強い選手なんですよね。
 しかしその後は年齢的な衰えもあったのかスピードに陰りが見え始め、得意だったはずのディフェンスでも1対1で置いて行かれるシーンが多く目に付くようになります。結局2002年シーズンを最後にコンサドーレを構想外となったのを最後にいったんは現役を退きます。しかし翌2003年に路木龍次が引退して右サイドの出来る選手が足りなくなったヴィッセル神戸に入団。リーグ戦、カップ戦計16試合に出場しましたがオフに構想外となり、プロ生活にピリオドを打ちました。
 その後は故郷徳島で自動車教習所の教官を務める傍ら、大塚クラブというアマチュアクラブでサッカーを続けており、今年の国体にも徳島県選抜として出場していました。東京都選抜に6点喰らって負けちゃったみたいですけど。

 その在籍期間の長さや浦和戦での一世一代の大仕事もあってかその存在感は絶大で、オレは今でも「コンサドーレ札幌の背番号2」といえば真っ先に俺達のモリ…いや田渕を思い出してしまいます。


posted by choo |02:27 | スーパースター列伝 | コメント(13) | トラックバック(2)

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