スポンサーリンク

2010年04月05日

浅田真央の純粋芸術性(後)

フィギュアスケートにおける「表現力」とか「芸術性」というのはいったいどのようなものであろうか。正直なところ明確な答えはないと思う。スポーツと芸術の融合であり、その芸術性をも点数化して評価する競技。そもそも芸術性を点数化すること自体に無理があると言ってしまえばもはやフィギュアスケートはスポーツ競技ではいられない。ではスポーツとは芸術とか美しさとかとは別のものかと言えばそうではない。トップレベルのスポーツというのは精神と肉体の限界レベルが作り出すパフォーマンスである。そのパフォーマンスというのは当然に「美しさ」が伴う。生身の人間の身体ができる最上のパフォーマンスというのは見るものを魅了する「美」と「芸術性」を備えているといっていい。
しかし、多くのスポーツにおいて「美」は意図的に作り出されるものではない。例えは「美しいバッティングフォーム」というのは美しく見せるために行っているのではなく、ボールを打つという技術を極めた結果到達するものである。優れたスポーツ技術は意図せずとも美しさを纏っているものである。

さて、前置きが長くなったが浅田真央の美しさ、芸術性の一番基本となるものはそのパフォーマンスから放たれる「絶対的な美」、スポーツの最上のパフォーマンスが示すような「意図しない美」だと思っている。誤解を恐れず言えば、浅田真央は「美しい演技」をしようとしてはいない。観客に「美しいと思ってもらうこと」を意図した演技はしていない。これはそういう能力がないという意味ではない。彼女は意図して美しい演技を提示できる高い能力を持っていることはエキシビションの演技を見れば一目瞭然。彼女のエキシビションでの演技はいつも極上の美しさと楽しさエンターテイメント性を発揮している。
しかし、彼女にとって競技はエキシビションとは違ったものである。自分のできるパフォーマンスの限界にチャレンジしてそれをやりきること。実はそれこそが自分にできる最高の美しさ、芸術表現たり得ることを彼女は知っている。つまり、浅田真央は作品「浅田真央」を創出しているのである。「浅田真央」の完成度が高まれば高まるほどその美しさ、芸術性はより高い次元へと上っていく。意図的な「美しさ」を提示するのではない、純粋芸術性こそが浅田真央の最大の魅力だと私は確信している。

これは音楽で言えば「絶対楽」と「表題楽」の違いに例えることができると思う。浅田真央の演技の基本は絶対楽である。常に比較の対象とされてきたキム・ヨナは「表題楽」の名手ということになろうか。演技が示す具体的対象が存在し、役者的演技によってそれを表現する表題楽的演技の象徴が「007」であろう。対して浅田真央はそういった具体的な何かを役者的な演技で表現するタイプではない。例えば「チャルダッシュ」のようなアップテンポな軽妙さや楽しさ、はたまた「ノクターン」のような優美さ、「幻想即興曲」のような「激しさ」、そして「鐘」のような沸き上がるような激情。いずれも抽象的な「気持」や「感情」「世界観」といったものを見事に表現している。浅田真央の手にかかれば「カルメン」や「くるみ割り人形」ですら作品「浅田真央」になる。浅田真央の持つ正のオーラが演技全体を包み、天性の才能はもちろん、磨き上げられた「技術」「所作」の一つ一つがこの上もなく美しく、その美しさを音楽との見事なまでの同調性をもって作品として提示するのが浅田真央の真骨頂である

「絶対楽」と「表題楽」という例えをしたが、もちろんこれは別に優劣の問題ではない。どちらがより芸術性があるということではなく、あくまでも表出されたもののクオリティにより評価されるものだと思う。私はこの点が世間が浅田真央に持つイメージに対して一番主張したいポイントである。フィギュアスケートというのは演劇ではないのだから、表題楽的=女優的演技のタイプでないことはフィギュアスケートの表現力において劣っている事にはならない。ちなみに、キム・ヨナについては女優的演技に長けていることを認めないわけではないが、私個人の感想を言えば、そのクオリティは浅田真央の表出する純粋芸術性には遠く及ばないものだと感じている。キム・ヨナの演技は基本的には「高い点数を取るための演技」である。ブライアン・オーサーコーチを先頭に、チーム・ヨナはあらゆる方法で高い点数を取るための演技をブラッシュアップしてきた。ヨナにとっては女優的表現も点数を取るための作業であり、浅田真央のような自らの身体の奥底からわき出してくるような芸術表現とは感じられない。私にとってヨナの表現力というのは「点数を取る作業がうまい」という評価以上のものではない。

今回の世界選手権における浅田真央の演技はショート・フリーともほぼ完璧で、作品「浅田真央」の一つの完成形だと思う。特にフリーの「鐘」はあの重厚な曲を完全に支配し、見事なまでに音楽との同調性を持ったその演技は会場の空気すら支配し、固唾を呑む会場の空気自体が作品の一部のようでもある。一点のキズもない、フィギュアスケート史上に残る究極の演技の一つと断言できる。3Aのダウングレードはルールの瑕疵であって演技の評価を下げる要素では全くない。
このような浅田真央の表現力の限界を引き出し、高めたのは、あのタラソワコーチの手腕である。「仮面舞踏会」「鐘」といった重厚な曲を使うことでより深いところに眠っていた浅田真央の芸術性を引き出すことに成功した。とはいえ、シーズン当初は多くの人がそれが成功することに懐疑的ではあったが、浅田真央は自分の可能性を信じることに一切の揺らぎがなく、タラソワに曲の変更を打診されてもあくまでも「鐘」にこだわったのは浅田真央自身だった。そのタラソワコーチとは来期以降コーチの関係を解消するという情報が流れているが、私は個人的にはアドバイザー的な立場でタラソワコーチとの関係を継続して欲しいと思っている。

「鐘」を演じきることで表現の幅、深さが一段と増した浅田真央の純粋芸術性。これからどのように進化していくのか。これからがますます楽しみである。

posted by たじ |18:43 | コメント(1) |

スポンサーリンク

スポンサーリンク

この記事に対するコメント一覧
Re:浅田真央の純粋芸術性(後)

前編とともに私の気持ちを代弁してくださったような記事、頷きながら読みました。
ありがとうございます。

世選で 確かに 真央さんは 『鐘』を支配していました。
素晴しいプロでした。
完成版をみることができて幸せだったと思っています。

SP/FP/EX とどれも素晴しいプロを作ったタラソワコーチの手腕に感謝です。
タラソワさんは真央さんの才能を高く評価して下さっているので、アドバイザーの立場は受けて下さるのではないでしょうか?

posted by angel| 2010-04-07 18:08

コメントする