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2010年03月31日

浅田真央の純粋芸術性(前)

フィギュアスケートの世界選手権が終わりました。この後いつくかのアイスショーはありますが、基本的にはフィギュアシーズンは終了です。選手の皆さん本当にお疲れ様でした。
五輪、世界選手権と続けてみて、本当に言いたいこと、書きたいことは山ほどあるんですが、それを書くにはあまりにも自分の筆力が足りないと感じています。というわけで、ここ数ヶ月山ほど読んだフィギュア関連の記事、ブログの中で共感、感銘したいくつかをここに紹介することにします。

基本的に私が主張したいことは浅田真央の純粋芸術性について。どうにも世間では「技術の真央」というイメージがあり、その芸術性があまりにも軽んじられているのではないかと感じています。その点について考察した記事を紹介します。

浅田真央の純粋性:純粋美学批判への批判としての自己技術

哲学的な視点から浅田真央の純粋性について語っています。

「性格がいい、素直だ、礼儀正しい、かわいらしい、明るい、精一杯やっている、一途だ、好感がもてる、見ていて心地いい、爽やかだ、・・・人としてポジティブなあらゆる要素を具象している稀有な存在である。」

「純粋性という、ほとんどありえないことがありえている。」

言い回しが哲学的で判りにくい部分もあるこの記事ですが、浅田真央の純粋性をここまで強く主張した文章は他にはないような気がしますが、私にとっては「我が意を得たり」と言える文章です。


 私の≪浅田真央&キムヨナさんへの感想≫が、東京新聞「こちら特報部」に掲載

音楽家の視点で捉えた芸術性について述べられています。

「技を出さずに、氷面を滑走している時の彼女の肩には、
音楽の拍子とピッタリと一致した、小刻みな動きが見られました。
これが、観客を飽きさせず、彼女と一体となって、
「4分間」を楽しませる原動力であると、思います。
演技する浅田真央さんの呼吸と、観客の呼吸とが、一致するのです。
観客も、自分自身が演技しているように思ってくるのです。」

こういう指摘はさすが音楽家だなと感心しています。


浅田選手の表現力について思うこと②エンターテイメント性と芸術性 

浅田真央の表現力について詳細に分析していますが、その中でも特にこのタイトル部分が私の意見に近いです。

「浅田選手は自らの演技で、究極の芸術性を表出しながら、その一方で図らずも、自らの人生にあるこれ以上ない悲しみ、歓び、怒りと笑いをファンの前に惜しみなく供し続けたのだ。
一切の意図もなく、計算の欠片もない、それは『浅田真央』というエンターテイメントの劇場である。」

「浅田選手の驚異的な身体能力と努力を惜しまぬ鍛錬によって、完成の度合いを深めた『鐘』の演技は、タチアナプロデュースによる芸術性の追求だった。」

「そして真央自身による『浅田真央』という演目は、とりあえず『初めての五輪出場』という幕を閉じ、『歴代最高点への挑戦』あるいは『ソチへ向かって』という予告編を垣間見せた。」


浅田真央 「鐘」  身体芸術  アスリート

絵画や写真などのアート系の方の見解です。

「浅田真央は、曲の展開にのせて、空気そのものの動きのダイナミズムまで変化させ、色彩、質感、空間の広がりや、捻じれ、時系列まで変化させて見せた。これを見て「表現力が足りない」などと言う人は、心底俗物根性で、無感覚な人だ。」

こうしたさまざまな言説に触れる中、私も多少の自分なりの見解を書いてみたいと思います。(続く)

posted by たじ |01:40 | コメント(1) |

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この記事に対するコメント一覧
Re:浅田真央の純粋芸術性(前)

たじさんのフィギュアスケートに対する思い入れ、大変尊敬しております。早く後編が読みたいです

不可解な点がキムヨナ(はっきり個人名だしますね)にだけ出るのがわからなくて、色々調べたり、冷静になろうとしても、怒りが収まらずこまってます・・・

このモヤモヤしたものはキムヨナが引退して済むことではない気がします

posted by 女子フィギュアで2月3月怒りまくりなコンササポです| 2010-04-03 03:13

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