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【選手スペシャルインタビュー】 2009シーズン、J1昇格に向けて再出発を誓ったコンサドーレ札幌。選手達のひとつの夢にかける決意と、ひとりひとりのヒストリーをお届けします。 ★あなたのブログからトラックバックして選手を応援しよう!

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EPISODE.5 - 西嶋 弘之

2009年07月28日

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「プロになったばかりの頃は
『トップ下じゃなきゃ絶対に嫌や』という意識を持っていた」

高らかに鳴ったタイムアップの笛は、チームの勝利とともに、
J1昇格を告げるものでもあった。チームメイトたちは誰彼構わず
抱き合い、涙を流しながら歓喜の雄たけびを上げた。
そうしたチームメイトの姿を見ることは素直に嬉しかった。
だが、心底喜ぶことはできないというのが正直なところ。
いや、むしろ心底にあったのは悔しさだけだったのかもしれない。
なぜならば、自分はそのシーズンをもって契約非更新に
なることがほぼ決まっていたからだ。
 



「チームメイトのみんなが笑顔で騒ぎ合っているときに、
自分は騒ぎきれない。それは本当に悔しかった。いつか自分も
昇格や優勝に貢献して心の底から喜びたい。そう強く思った瞬間でしたね」


この出来事は03年シーズン最終戦時のことだ。当時、J2の
サンフレッチェ広島に所属していた西嶋弘之は、プロになって3年目。
いまでこそセンターバック、サイドバック、守備的MFなど複数の
ポジションをこなすクレバーなプレイヤーとして、リーグ戦100試合以上に
出場。コンサドーレ札幌には欠かせないユーティリティープレイヤーとして
活躍を続けている。だが、プロ入り当初はバリバリの攻撃的MFだった。
奈良育英高校時に出場した高校選手権全国大会ではハットトリックを
記録しているほどだ。


「プロになったばかりの頃は『トップ下じゃなきゃ絶対に嫌や』
っていう意識を持っていたんですよ。新人の頃って、全体の
バランスなどを学ぶために色々なポジションをやらされるんですけど、
それがホンマに嫌でしたね。DFなんてやってられへん、って」


そんな彼が、いまでは守備的なポジションならばどこでもこなす
ポリバレントなプレイヤーへと変貌。機を見た攻撃参加からシュート、
スルーパスなどを放ったり、的確な位置取りでオフサイドを取ったりと
クレバーかつ献身的なプレーでコンサドーレを支えている。この変貌が
始まったきっかけはもちろん、03年に広島で聞いたタイムアップの笛だが、
そこからの過程の日々は苦しみに溢れていた。


「広島をクビになってからは、とにかく孤独でした。トライアウトが
あるので、みんなが体を休めているオフシーズンにも近所の公園を
走ったり、一人でボールを蹴ったりと。正直、『オレはどうなって
しまうんやろ・・・』と心のなかでは考えていましたね。でも同時に
『このまま終わったら完全に敗北や。何とかもう一度・・・』という
気持ちも絶やさないようにしていました」


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何者でもなくなった自分を支えてくれたのは、オトンとオカン

本当に孤独な日々だった。慣れないパソコンの前に座り、
トライアウトが行なわれる関東までの行き方を一生懸命に調べた。
新幹線のチケットも買いに走った。所属チームがなく、
自分が何者でもなくなった不安や焦りがなかったわけではない。
でも、身近な支えが大きな力となった。


「精神的には不安定でしたよ。でも、オトンやオカンが
『これも人生勉強や。出来るところまで頑張ってみろ』と
励ましてくれたので、腐らずにやることができました。
そうしたら運良くヴィッセル神戸が拾ってくれて」


そうして再びサッカー選手としての立場を掴み取ってみると、
ポジションへのこだわりは瞬く間に消え去っていた。


「サッカーで生きていくというのはホンマに大変なんやなあ、
とあの時期に痛いほど感じましたね。どのポジションがやりたいとか、
そんな甘いこと言うてられへん。自分がサッカー選手として
生きていくには与えられたポジションで頑張るしかない。
そうした現実に向き合うこともできましたし」


そうして04年に神戸からコンサドーレへと移籍を果たした頃には、
ユーティリティなDF西嶋弘之へと完全なる変貌を遂げていた。
与えられたポジションを貪欲にこなしていくうちに、いくつもの
ポジションをごく当たり前のようにこなせるようになっていたのだ。


「いくつものポジションができるということについては、
自分ではそれほど意識してやっているわけではないんです。
自分にできることを全力でやるだけ。それに、どのポジションも
完璧にこなしているというよりも『それなり』にこなしている
というレベルじゃないですかねえ(笑)」


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身につけたクレバーさは、
与えられたポジションに全力でチャレンジしてきた積み重ね

そんな彼は今年、コンサドーレの選手として6シーズン目を向かえた。
04年に札幌の地で初めて果たしたリーグ戦出場も、今では100試合を
超えている。結婚もこの街でした。
「ホンマ、人生はわらかんもんですねえ。奈良に生まれて、
広島、神戸へ。そしてまさか札幌の街でこんなに長く生活することに
なるとは正直、まったく想像もつかへんかった。もちろん、
この街で結婚をすることも。試合出場にしても、広島や神戸にいた頃は
ベンチ入りするだけでも一大事件やったことを考えると、
これだけ試合に使ってもらえるというのは幸せなことですよね」


クレバー、ユーティリティ、ポリバレント。彼を評するこれらの言葉は、
どれも相応しい。だが、あくまでも結果論であることも忘れてはならない。
プロの世界で生きていくために、与えられたポジションに常に全力で
チャレンジしてきた。あくまでも、その積み重ねだ。


そして彼は明かす。
「ボクを選手としてここまで成長させてくれたコンサドーレというチーム、
それから札幌の街に本当に感謝している。だからこそ、今の目標である
J1定着に向けて全力を注ぐことで恩返しがしたい。その時のポジション? 
そんなのはどこでもいいですよ。フォワードだって、『やれ』と言われたら
全力でやりますよ」


自らのサッカー人生を、「細いクモの糸を握り締めてきた」と振り返る。
でも、握ったまま引っ張り上げられた人生では決してない。
間違いなく自分の手で糸を握り、登ってきた。そしてこれからも、
そうやってハードな日々を乗り越えていく。


【CLEVER  西嶋選手からのRE:】
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『冷静で 熱いプレー』

Name : 西嶋 弘之 [Hiroyuki NISHIJIMA]
Age  : 27
From : NARA
Number : 6
Position : DF


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次のホームゲーム
第37節 9月2日(水) 水戸ホーリーホック
札幌厚別 19:00キックオフチケット購入方法・お得なシートについて試合日程について



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15:30

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EPISODE.4 - 上里 一将

2009年06月26日

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プロの洗礼

期待ばかりを描いていたはずの世界は、苦痛ばかりだった。
「何もかもが違っていて、頭が真っ白になりました。」


沖縄県は宮古島に生まれ、小学校3年生の頃から本格的に
のめり込んでいったサッカーというのは常に「楽しいもの」だった。
島には指導者が少なく、サッカーを「教わる」という概念はない。
中学、高校へと進んでも、練習メニューはいつも自分達で決めていた。
とにかく楽しかった。サッカーとは、そういうものだった。
練習が終わればチームメイトと自転車を漕いで海まで走り、
シャツを脱ぎ捨てて飛び込む。一年中気温が温暖な島での
サッカーライフというのは、時間がゆっくりと流れる、
どこかのんびりとしたものだった。そんな環境に身を置いていた
上里に高校3年の夏、宮古島から遠く離れた北海道に拠点を置く
プロサッカークラブ、コンサドーレ札幌から加入の誘いが来た。



「ビックリしましたよ。いったいどこで僕のプレーを
見ていたのだろう?って感じでしたね。そもそも高校3年に
なっても卒業後のことは全然考えていなくて。
プロサッカー選手になれたら楽しいだろうな、とは漠然と
思っていただけですから。でも、プロになることや北海道に
引っ越すことには何の不安もなかったですよ。
大好きなサッカーに打ち込めるという生活に対して、
期待や楽しみが大きかったですし。迷わず加入を決めました。」


しかし、楽しくプレーしていたサッカーが職業へと変わった瞬間、
そこには苦痛が伴った。


「戸惑いましたね。戦術だったり、ボールを受ける際の体の
向きだったり、細かな部分を当たり前のように要求されましたから。
宮古島ではそんなことを考えてプレーしたことなかったですからね。
サッカーは楽しいだけだと思っていたのに。正直、苦痛でした。」


プロでの生活はあまりにも厳しく、辛い出来事はいくつもあった。
「来年から何の仕事をしようかな、とリアルに考えた時期も
ありましたよ」と今だからこそ笑って言える。
「とにかく必死にサッカーをやりましたね。
とにかく喰らいついていきました」。
サッカーを必死にやる。プロになるまでは考えもしなかったことに、
全力で取り組んだのだ。

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左足に覚悟を備えて

そうして重ねたプロでの日々もこの09年で6シーズン目。
とにかく毎日を必死で生きてきた上里だが、今では左腕に
キャプテンマークを巻くほど、たくましさを身につけた。
顔つきも、かの日とは違う。
そんな上里をここまで支えてきたのは言うまでもなく自らの足。
とりわけ左足だった。


「中学に入った時には身長が138センチしかなくて、
ボクはすごく小柄だったんですよ。チームで一番小さかった。
でも、左足のキックだけは誰にも負けなかったですね。
中学生になると、それまでよりも大きいボールを使用するのですが、
違いをまったく感じませんでしたね」
天性の左足とでも言うべきか。家族は全員右ききななか、
自分だけは左ききだった。そしてその左足には、大きな力が
秘められていたということになる。


だが、才能だけで成長できるほどサッカーの世界は甘くない。
その左足を武器へと変えたのは、紛れもなく努力の積み重ねだ。


「中学の頃から、練習が終わった後にもずっと一人でボールを
蹴っていましたね。ゴールの上隅に何枚かビブスをぶら下げて、
そこを的にしてボールを蹴るんです。外れたらボールを
取りに行かなければならないので、コントロールが磨かれますよ(笑)」
そうして鍛え上げられた左足で、プロの世界を生き抜いてきた。
前十字靭帯断裂という大怪我を負った時期にはサッカーから
目を背けてしまうようなこともあったが、そんな経験も、
成長への糧だった。


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宮古島から北海道へと場所を移し、「楽しむもの」だったサッカーも
職業へと変わった。だが、変わったのは環境やサッカーだけではない。
ここまでの歳月で、上里本人も大きく変わった。
プロサッカー選手として、チームをまとめるキャプテンとしての
上里へと変貌を遂げた。厳しい日々そのものを、楽しめるようになってきた。


「札幌にきて、様々なひとに優しく接してもらえた。
そんな札幌のチームを、自分の力で強くしたい。」


宮古島で育ち、北の大地で鍛え上げられたレフティーは、
その足で勝利を掴み取る。


【LEFTY  上里選手からのRE:】
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『プレースキック』

Name : 上里 一将 [Kazumasa UESATO]
Age  : 23
From : OKINAWA
Number : 20
Position : MF


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次のホームゲーム
第32節 8月5日(水) アビスパ福岡
札幌厚別 19:00キックオフチケット購入方法・お得なシートについて試合日程について
 



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18:00

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EPISODE.3 - 吉弘 充志

2009年05月26日

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試練。

「あれ?」
グラウンドに横たわった自分の身体を起こそうとしていた。
けれど、まったく力が入らない。理解不能の状況に陥っていた。


06年、当時サンフレッチェ広島に所属していた吉弘充志は
プロになって初めてレギュラーポジションを掴みかけていた。
チームは思うような成績が残せず、監督も交代した。
それでも、日々の練習を精力的にこなし、プロとしてのルーティンワークも
染み付きだしていた彼にとっては充実のシーズンだった。
前年にはワールドユース(現U-20ワールドカップ)オランダ大会の
日本代表メンバーに選手され、試合出場こそならなかったものの、
同年代の世界トップに触れたことで意識が飛躍的に高まっていた
時期でもあった。


しかし、7月。練習試合で相手選手と激しく接触しグラウンドに倒れた後、
彼のサッカー人生に大きな苦難が降りかかった。



「起き上がろうとしても、首から下がまったく動かなかったんです。
力も全然入らなくて。そしてそのまま病院へ運ばれたんですけど、
その途中、こういう言葉を使ってはいけないのかもしれませんが
『人生、終わったな・・・』と考えてしまいました」


診断結果は中心性頸髄損傷。
自動車やオートバイの事故で負傷をしたケースで起こる症状で、
身体が麻痺状態になるという重症だった。そして診察をした医師の
言葉はシンプルであり、同時に、当時21歳の若者には極めて重く
のしかかるものだった。


「担当医の方には『サッカーでこういう怪我から復帰をした前例はない。
引退も考えておいた方がいい』と率直に言われましたね。
クラブの方からは『時間はちゃんと用意してあげるから、
両親とも相談してじっくり考えろ』と言ってもらったので、
そこからは本当に悩みました」


治療のための手術には二通りの方法があった。
ひとつは、サッカーはもうプレーできないけれど日常生活は
問題なく送れるようにするもの。もうひとつは、再発の可能性があるが、
何とかサッカーを続けられるようにするもの。
吉弘は、そのどちらかを選ばなければならなかった。


そして選んだのは、後者だった。


「両親には『先がどうなるかわからないけど、サッカーを続けるよ』と
伝えました。そうしたら母親は『しっかり頑張んなさい』
と言ってくれましたね。ただ、母親は泣いていたので、本当のところは
どう思っていたのかわかりませんけれど・・・」


サッカーを続けていく。そうは言ったものの、現実は簡単ではない。


「術後もストレスだらけでしたね。ギプスで首を固定されていたので、
基本的には何もできない。手も痺れていましたから、喉が乾いても
ペットボトルのキャップが開けられないんですよ。あの時の握力は
一桁だったんじゃないかなあ。一応、プロのサッカー選手なのに(笑)」


正直、自らの選択が正しかったのかどうか自信はなかった。
最悪の場合、両親にものすごく大きな負担を与える結果にも
なりかねなかった。その不安に押し潰されそうだった。


「でも、色んな人が日替わりでお見舞いに来てくれて、
本当に支えになりました。リハビリを開始した当初は
不安ばかりだったのですが、色んな人が何気ない世間話をしに、
わざわざ病室まで足を運んでくれた。みんなが自然に接してくれたことで
不思議と『絶対に復帰できる』という自信が湧いてきたんです。
おかげでリハビリをすごくポジティブに取り組むことができましたし、
復帰も早まりました」


実際には復帰にかかった月日は通常のものだったかもしれない。
でも、吉弘にとっては色々な人と一緒に過ごしてきた病室生活が、
思った以上に短く感じることができたのだ。
07年12月の清水戦、多くのサポーターが見守るグラウンドに
吉弘は途中出場で駆け出していった。大きな歓声が心地よかった。
涙腺も緩んだ。


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札幌、挑戦の大地へ。

そして08年、様々な感情が詰まった広島の地を離れ、
吉弘は北の大地にチャレンジの場を移した。
コンサドーレ札幌への完全移籍である。


「それまでは地元やその近隣だったり、住み慣れた場所でしか
サッカーをしてこなかった。どこか自分の中に甘えが
生まれていたような気がしていたんです。新しい土地で
自分がどれだけやれるのかチャレンジしてみたかった」


移籍初年度の昨シーズンは途中から出場機会を減らし、
チームもJ2へと降格。本人も「不甲斐ない」と漏らす1年となってしまった。
しかし、この09年シーズンは開幕からDFの中心として活躍を続けている。


「大怪我をしたこともあって、少し前まではサッカーが出来る
というだけで幸せを感じてしまうようなところがあった。
でも、それだけではダメなんですよね。
怪我からの復帰というのはスタート地点に戻っただけ。
そこから結果を出して初めて評価をしてもらえる。
いいプレーをしても、結果を出さなければ何も意味がない。
今はそのことを強く意識してプレーしています。
ただ、怪我をする前に比べて周囲に対する感謝の気持ちが
強くなったと思います。人間的にも少しは成長できたかも
しれないですね。まだまだガキですけど(笑)」


そんな吉弘にはひとつの儀式がある。
それは、グラウンドに入る時には必ず一礼をすることだ。
「何気なくやっているだけ」と本人は言うが、
今日もサッカーがプレーできること、そして自分を支えてくれた
多くの人達に感謝の意を示すためだ。日々更新をしている
個人ホームページも目的は同じ。自分の毎日を発信することで
「お世話になった人達に元気な姿を知ってもらえる」からである。
ホームページを通じて、かつての恩師からメールが届いたこともあった。
今なお、周囲の声を力へと変えている。


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DFとして、何度でも。

吉弘の持ち味は読みの鋭いカバーリング。
危険なエリアを常に先読みし、誰よりも早く走り出す。
昨シーズンには相手のシュートが自陣のゴールを割るかと
思われた直後、ギリギリのところで吉弘が飛び込んでボールを
描き出した場面もあった。


一度は遮られかけたサッカー人生。でも、前例のない負傷から
吉弘は再び立ち上がった。どんなピンチに陥っても決して諦めない。
その魂が、誰よりも早く危険を察知し、可能な限り周囲を
ケアしようとするプレーにつながっているのだろう。


DFというのはハードなポジションである。
強靭な外国人ストライカーと激しく競り合ったり、
スライディングをしたり。グラウンドに倒れる場面は、
これからも幾度となくあるはず。それでもこの男は立ち上がる。
周囲の声を力にして、そして感謝の意を込めて。
何度でも何度でも、立ち上がってみせる。


【COVER 吉弘選手からのRE:】
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『リーダーシップ』

Name : 吉弘 充志 [Mitsuyuki YOSHIHIRO]
Age  : 24
From : YAMAGUCHI
Number : 2
Position : DF


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次のホームゲーム
第25節 7月4日(土) 水戸ホーリーホック戦 札幌ドーム 14:00キックオフチケット購入方法・お得なシートについて試合日程について



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11:00

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EPISODE.2 - 岡本 賢明

2009年04月24日

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“トリック”に魅了された少年。

1990年6月25日。イタリア、ベローナ。
ワールドカップ イタリア大会、決勝トーナメント1回戦。
ユーゴスラビア-スペイン。
0-0のスコアで迎えた後半33分、左サイドからのクロスを
カタネッチがバックヘッドでファーサイドへと送ると、
待ち構えたユーゴスラビアの背番号10、ストイコビッチは
豪快に右足を振ってボレーシュート。かと思われた瞬間、
その右足はピタリと止まりボールはそのまま足下へ。
シュートをブロックしようとスライディングで飛び込んだ
スペインDFが通り過ぎるのを確認したトイコビッチは、
今度は丁寧に足を振ってボールをゴールへと流し込んだ。
まさに“トリック”。
誰もがボレーシュートだと確信していた。
スペインDFだけでなく、試合を中継していたTVカメラさえも欺かれ、
映像がブレたほどだ。
後世に語り継がれるスーパープレー。世紀のトリックが演じられた瞬間だ。


それから何年もの月日を経て、九州・熊本。
94年に名古屋グランパスエイトへ加入したストイコビッチの
プレーに魅了されていた少年は、その世紀のトリックの映像と出会い、驚愕した。
「ヤバイ・・・」
そして何度もその映像を巻き戻しては、トリックに嵌り続けていた。
少年の名は岡本賢明。現在、コンサドーレ札幌でプレーするMFである。



「スペイン戦のゴールはヤバかったですね。より一層、
ストイコビッチさんのファンになりました。あんなの、
誰が見てもボレーシュートだと思いますよね。あのシーンは
何回見ても飽きないですよ。その日から、少しでもストイコビッチさんに
近づきたいと思って毎日一生懸命に練習をしてきました」


トリックに魅了された少年は、今度は自らがトリックの演者になりたいと
トレーニングを重ねた。そして高校を卒業した07年、努力が実り
コンサドーレ札幌に入団。その高いテクニックと物怖じしない強心臓を
武器に1年目からリーグ戦デビュー。プロ初ゴールもその年に記録し、
多くの人間を驚かせた。表現の舞台や方法は若干異なるが、
トリックを演じる側になってみせた。


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DREAMS COME TRUE.

ここまでの流れを聞くと、口当たりの良いサクセスストーリーに
聴こえるかもしれない。
だが、時計の針を少し巻き戻せば、少年の苦闘の日々がよみがえる。


岡本少年が高校1年のことだ。
ナショナルトレセンの合宿で軽く腰を痛めた。
その時はあまり気にもとめなかったが、
自宅に帰ってみると歩けないほどの痛みに襲われた。


「親からは真剣にサッカーを辞めるように言われたこともありましたね。
1週間丸々休んで、やっと痛みが引いたと思って部活に出たら、
また痛みがひどくなったり。友達にもすごく心配をかけてしまいました。
自分でも不安になって『こんな腰だったら、もうサッカーは無理かもな』と
考えたこともありました」


でも、少年はサッカーから離れなかった。


「『何とかならないかな』といつも思っていました。
だって、サッカーは絶対に辞めたくなかったから。
正直、心の底では『ヤバイ』と焦っていましたけど・・・」


ストイコビッチのトリックと出会った時に発したものとは
正反対の意味の「ヤバイ」。
未来ある高校生には、あまりにも酷な状況だった。
プロになるとか、ストイコビッチに近づくだとか。
そんなこと以前の問題だった。
教室の椅子にマットを敷いたり、通学のためのバスに乗る際にも
腰にクッションを当てるなど、少年はできる限りのケアを施した。
それでも痛みは引かなかった。


そうした中で少年を支えたのは、
サッカーを辞めるように勧めたはずの両親だった。


母親は「あそこの病院がいい」という噂を聞けば
すぐに賢明を連れて出掛けて行った。
当時はまだ出始めで高価だった低反発マットも購入し、
賢明のベッドに敷いてくれた。
祖父や父親が古新聞をティッシュペーパー代わりに
するほどの倹約家系だったが、必要なものには惜しみなくお金を使った。
「週に2回くらいのペースで整体院に通っていたんですけど、
結構お金がかかっていたので、今考えると親は本当に
大変だったと思います。本当に応援してくれていたんだなぁ、
って思いますね」


そうした計り知れない想いが現実を超越したのか、
賢明が高校3年になった春、腰の痛みは何とか和らいだ。
「高校3年のプリンスリーグくらいから復帰できるようになったんです。
そこでプロのスカウトの人たちに見てもらえたんでしょうね。
何とか間に合った、という感じでした。でも、
何よりも、またサッカーを思い切ってプレーできたことが
とにかく嬉しかった20090424-04.jpg

「見ている人を驚かせるようなプレーがしたい」

昨年の夏過ぎのことだろうか。
プロ2年目を迎える岡本が連日、チームの全体練習が終わっても1人、
宮の沢グラウンドを走っていた。ちょうどプロの壁にぶつかり出場機会を
失っている時期だった。走っている理由を聞くと
「試合に出られないということは力が足りないから。
だから、出来ることからやっていこうと思って。
特に僕は体力が不足しているので、少しでも補わないと」
東欧が生んだ稀代のテクニシャンであるストイコビッチに憧れて
練習を積んだ少年は、Jリーグの舞台でそのトリッキーな
ドリブルを披露する。
イタリアワールドカップでのトリックに魅せられた少年が、
現在では自らがトリックを演じる側にいる。


トリック。
トリックにはいつもタネがある。
岡本少年が見せるトリックのタネ。
それは家族の愛情と、重ねてきた努力だ。
前者は少年の胸の内だが、後者は宮の沢グラウンドに行けば
いつでも知ることができる。
トリックのタネは、いつだってシンプルだ。


【TRICK 岡本選手からのRE:】
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『チャンスメイク!!ゴール!!』


Name : 岡本 賢明 [Yasuaki OKAMOTO]
Age  : 21
From : KUMAMOTO
Number : 17
Position : MF


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次のホームゲーム
第17節 5月24日(日) 東京ヴェルディ戦 札幌厚別公園競技場 13:00キックオフチケット購入方法・お得なシートについて試合日程について



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16:00

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EPISODE.1 - 藤田 征也

2009年02月18日

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“サッカー選手になりたい”

小学校の卒業アルバムの「将来のゆめ」には、そう書いた。
藤田征也、21歳。
コンサドーレ札幌ユースU-18から、06年にコンサドーレ札幌へ。
早くから各年代の日本代表チームに選ばれ続け、中学卒業時には数多くのJリーグのユースチームからスカウトされた北海道きっての逸材だ。
07年にはカナダで開催された20歳以下のワールドカップにも出場。
スピード溢れるドリブル突破で右サイドを疾走し、勝負を決めるラストパスを蹴りこむ。
国内屈指のスピードスターが、この北の大地から世界を見据える。



「ちゃんとサッカー部に入ってプレーをするようになったのは小学校3年生のときからなんですが、それ以前にも物心がついたときにはもう、ずっとサッカーボールと一緒に毎日を過ごしていましたね。別に親がサッカー好きだったというわけでもないですから、きっかけは全然わからない。それから今日まで、ずっとサッカーのことばかりを考えて生きてきました。サッカーを辞めたくなったこと? そんなのあるわけないじゃないですか」


試合中、グラウンドの右サイドに立つこの男の表情は、まさに獲物を目の前にした獣のそれだ。だが、ひとたびグラウンドを離れてシューズの紐を緩めると、屈託のない笑顔ばかりがこぼれる。そして宝物を磨くかのようにシューズについた土を丁寧に取り除いていく。何度も何度も、時間をかけて。本当にサッカーが好きなのだろう。
“サッカー選手になりたい”と夢見た少年が、日の丸を背負う大役も果たしながら、見事にその夢をかなえてみせた。幸せな人生、と言ってしまうのは簡単だ。この男だって、普通の人間。ナンバーワンでもスペシャルワンでもない。当たり前のように壁にもぶつかった。


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壁を乗り越え手に入れた、
絶対的な“スピード“という武器。

「中学のときからずっと年代別の日本代表チームでプレーしていたのですが、高校2年生くらいの時期からしばらく選ばれなくなったんですよ。
そのときは『まあ、こういう時期もあるか』と思っていたのですが、同時期に、コンサドーレの方でもトップチームの練習に呼ばれなくなってしまったんです。自分では特別そんな意識はなかったんですけど、油断や奢りがあったということなんでしょうね。日本代表に選ばれるのも、コンサドーレユースで試合に出るのもごく当たり前のことだと思ってしまっていましたから・・・。そしてコーチにも『お前、いまのままじゃヤバイぞ』と突き放されてしまって」


だが、ここで自分の甘さと向き合えたことが大きなターニングポイントになった。「伸びた鼻をボキッとへし折ってもらえた」と振り返る。
それからは毎日を、そしてひとつひとつの試合やトレーニングにすべての意識を注ぐようになった。そしてプロになった今でも、日々、自分の甘さと向き合うようにしている。
髪をなびかせて華麗に右サイドを駆け上がる藤田を形成してきたもの、
それは自分自身との戦いだった。


「Jリーグが始まったのはボクが6歳のころ。華麗なテクニックで観衆を沸かせたり、楽しませてくれるような選手が大好きでした。そういう選手のプレーを見てボクもサッカーを好きになっていったし、サッカー選手になりたいと思うようになった。だから、ボクのプレーを見てサッカーをもっと好きになってくれたり、コンサドーレでプレーしたいと思ってくれる少年がひとりでもいてくれたら、それこそプロサッカー選手にとっての最高の幸せかもしれないですね。
ボクは華麗なテクニックで観衆を楽しませることができるほどサッカーが上手ではありません。でも幸い、スピードという武器を持つことができた。
だから、走るんです。走るしかないんです。
ボールがラインを割りそうになっても、敗戦が濃厚になっても、一歩踏み出すことで何かを変えられるかもしれない。最後まで諦めなければ、色々な可能性が生まれるはず。だから走る。
スーパーなプレーはできないかもしれませんが、最後まで走り抜ける、それだけは約束できます」


昨年、目標としていた北京五輪への出場は叶わなかった。ケガに泣き、J1残留に貢献することもできなかった。悔しさばかりの1年だった。
それでも、藤田はまた走り出す。いや、だからこそ走るんだ。
日の丸を、そして札幌を背負って立つ覚悟はできている。
今ではそんな藤田の背中を見て、子供たちが厚別競技場や札幌ドームの、さらには世界のグラウンドを夢見る時となった。
右サイドを走り抜ける藤田の足跡は、北海道民の夢への架け橋だ。

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Name : 藤田 征也 [Seiya FUJITA]
Age  : 21
From : SAPPORO
Number : 7
Position : MF



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13:00

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