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【選手スペシャルインタビュー】 2009シーズン、J1昇格に向けて再出発を誓ったコンサドーレ札幌。選手達のひとつの夢にかける決意と、ひとりひとりのヒストリーをお届けします。 ★あなたのブログからトラックバックして選手を応援しよう!
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2009年12月28日
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「とにかく試合に出たかった」。 その気持ちが、大きなターニングポイントの原点だった 「こんなにこの街が好きになるなんて、最初の頃は思わなかったなあ」 初めて札幌の街にやってきた当初を思い出し、そう呟いた。 柏レイソルに所属していた02年までも札幌とのアウェーゲームは あったのだが、室蘭などで試合が開催されたこともあり、 不思議と「札幌市そのものに来る機会がほとんどなかった」という。 しかし、03年。大きな転機が訪れる。コンサドーレからのオファーだ。 「その時は札幌だとか北海道だとか、その辺のことは あまり考えてなかったかな。いや、考えられなかった、 というのが正直なところ。 とにかく試合に出たかった。その一心でしたね」 02年まで所属していた柏レイソルでも高いテクニックを持つ この選手への評価は高かった。しかし現実には、 当時のレイソルにはブラジルでの実績も持つ強力なアタッカーがいたり、 日本代表クラスの選手もいた。 そうしたなかで砂川は、紅白戦にすら出られないような日もあった。 そうした競争の厳しい環境に身を置くこと自体は嫌ではなかった。 しかし、「試合に出たい」という欲望は、それ以上に 膨らんでいたのだった。 そしてコンサドーレに移ると、その高い技術を遺憾なく発揮して 現在まで7シーズンをプレー。 DF曽田雄志の引退により、チーム最古参の選手となった。 今ではもう、すっかりチームの顔だ。
ただし、その7シーズンは思った以上に過酷なものだった。 加入した03年はJ1復帰を目指しブラジル代表経験者らも揃って 充実した戦力で上を目指したが、そのシーズンが不振に終わり、 経営状態の悪化も加わって翌年からはクラブは中長期的視野に立った 「五段階計画」に着手。 J1を目指していたチームが、04年からは若手育成へと ドラスティックに進路を変えた。 外国籍選手はいなくなり、学校を出たばかりの選手が顔を並べる。 平均年齢も20歳代まで下がった。 そのなかでJ1経験者として、または年上の選手として。 チームコンセプトが大きく変化したなかで、砂川は戦うしかなかった。 「周囲の人は戦力的には厳しい、と言っていた。 でも、その時オレの心の中にあったのは 『やってみないとわかんねーよな』というもの。 フラットなメンタルだったかな。でも現実は厳しかったよね・・・」 そう、現実は厳しかった。若手選手ばかりで構成されたチームは、 とにかく黒星を重ねた。年間5勝、ぶっちぎりの最下位だった。 「サッカーをやってきて、あそこまで勝てない経験というのは したことがなかった。だから『どうしたらいいんだろう・・・』 という悩みが、あの頃はあったよね」
初めて札幌ドームで戦った日の感動、 あれが今でも忘れられない 04年からの3シーズンというのは、我慢の日々だった。 時折、上位に顔を出すようにまではなったものの、 思うような結果は出ないまま。 とにかく、トレーニングを積んで強くなっていくしかなかった。 途中、他チームからのオファーもなかったわけではない。 「実際、そういう話はあった」 と本人も認める。だが、それでも砂川がこのチームでのプレーを 選び続けてきた最大の理由はやはり、愛情だった。 「何年か住んでみて、この札幌の街やコンサドーレへの愛着が すごく深くなっていた。 J1でやるならやはり、コンサドーレで。そういう気持ちに なっていましたね。そしてやっぱり、03年に初めて札幌ドームで 戦った日の感動、あれが今でも忘れられない。 『このチームには、こんなに熱いサポーターがいるんだ!』って」 この男のテクニック溢れるプレーは、相手を抜き去るだけでなく、 敵味方問わずサポーターからのどよめきを呼び起こす。 敵陣深くで見せる鋭いドリブルや切り返しは、 いまやコンサドーレの名物だ。 そして来る10年シーズンに向けてこう話す。 「僕の力でどうにかしようとか、そんな図々しい気持ちはまったくない。 ホンの少しでも力になれるのであれば、コンサドーレのために 全力を出し切りたい。そう、年々強く思うようになってきた」 気がついてみると、プロ生活は10年を超えていた。 多くの関係者が高く評価するその高い技術も、 年々磨きが掛かっている。でも、キャリアを重ねたからこそ、 思い出す言葉がある。 和以征技。 「市船(市立船橋高)伝統の言葉なんだけど、 チームワークがあって初めて技術を生かせるということ」 チームの中心的存在ではあるが、あくまでもチームなかの ワンピース。その意識が増しているからこそ、 砂川の卓越したテクニックもまた、年々鋭さを増しているのだ。 【砂川選手からの RE:】
『和以征技』 Name : 砂川 誠 [Makoto SUNAKAWA] Age : 32 From : CHIBA Number : 8 Position : MF
2009年12月04日
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「リアルに引退も意識した」というあの頃。 手を差しのべてくれたのが、 コンサドーレだった。 本格的にGKをやるようになったのは高校生になってから。 Jリーグでプレーする他のGKに比べれば、 間違いなく遅い方になるだろう。
「中学3年で岐阜県選抜に選ばれた時に、少しGKをやっていたんですよ。 でも、学校のチームではフィールドプレーヤーなのに、 GKとして県選抜に選ばれるという不思議な立場だったんです(笑)。 なかなか珍しいケースだったと思いますよ。 そして高校に入ってからはGK一本でやっていくことになりました」 現代サッカーにおけるGKのポジションでは、ゴールを守るだけではなく、 後方からのビルドアップにも積極的に参加するということも求められてきている。 手を使ったプレーのみならず、足下のプレーにも安定した技術が 求められるということだ。その意味では左足でのキックを武器に 最終ラインさらにはMFとのパス交換ができる髙原は、 モダンフットボールさらには、ボールポゼッションを重視する 石崎信弘監督のサッカーにフィットするGKだと言っていいだろう。 「フィードやビルドアップは『得意』というよりも『好き』という 表現のほうが正しいかもしれませんね。ただ、イシさん(石崎監督)の 戦術はすごくボクに合っていると思います。 『(パスを)つなげられる場面は出来るだけつなげ』 と求めてくれていますから、自分の武器が生きる戦術だと感じています」 しかし、その「武器」をプロ選手として観衆の前で自信を持って アピールするまでには、険しい道のりが待っていた。 03年、ジュビロ磐田でプロデビューを果たした試合では 「プロのスピードにまだまだついていけず」大量失点。 05年から期限付き移籍でコンサドーレに加入し2シーズンをプレーするも 怪我に悩まされる日々が長く続き、思うように結果を残せなかった。 そうして移籍期間は終了するのだが、同じタイミングで所属元である ジュビロからも契約非更新を告げられてしまうのだった。 つまり、行き場をなくしてしまったのである。 「正直、あのときはサッカーを続けるかどうか悩みましたね。 引退もリアルに考えました。 怪我もしていて、トライアウトすら受けられる状態になかったですし。 精神的にも苦しかったですね」 そうしたなかで再び救いの手を差しのべてくれたのがコンサドーレだった。 07年シーズン開幕前のキャンプに練習生としてチームに加わり、 そして正式契約へとつながった。 「本当に、コンサドーレが拾ってくれていなかったら どうなっていたかわからないですよね・・・。 だから、このチームに懸ける想いは強いですよ」「色んな人に助けてもらいながら、 なんとかプロとして戦っている」。 その実感が大きな支えだった。 もちろん、練習生の立場から再出発をした選手がそう簡単に 試合出場を果たせるほど、プロの世界は甘くない。 ましてやGKというのは1人しか試合に出ることのできないポジションである。 我慢の日々は再び長く続いた。 「自分は試合に出られないからといってモチベーションを 落とすタイプではないと思っているんですよ。もちろん、 苛立ちなど精神面の波がなかったわけではありません。 だけど、試合に出られないというのは自分の力が不足しているからであって、 それを乗り越えるには練習を重ねていくしか方法はありませんから」 結果としてこの09年シーズンの途中まで、丸2シーズン以上も 試合出場から遠ざかることになった。 「いつクビになってもおかしくない」、そう思いながら毎日を過ごしていた。 でも、視線はいつも前向きだった。 「不安は常にありました。 でも、思い返してみると、以前の自分は怪我ばかりしていて、 思うようにサッカーをすることができない時期がすごく長かったんですよ。 だから試合に出られなくても、まずは怪我なくサッカーが出来ていることに 喜びを感じながらトレーニングを続けていました。 怪我がなかなか治らずに苦しんでいる選手はたくさんいるし、 プロになりたくてもなれない選手だってたくさんいる。 そう考えると、僕は本当に色んな人に助けてもらいながら 何とかプロの世界で戦えている、その実感が大きな支えになりましたね」
そして、我慢の日々を見事に跳ね返した。 現在では正GKとして、自分の武器を存分に発揮しながら さらなる成長を続けている。 「試合に出られない時間は長かったですが、そこでしっかりと 練習を重ねてきたという自信はありました。 そして同時に、試合になかなか出られないことで GKというポジションの難しさも身に染みましたね。 試合に出られるチャンスは本当に僅かしかない。 ですから今でも「ミスをしたらまた以前の立場に戻ってしまうぞ」と 自分にプレッシャーをかけながら日々を過ごしています」 試合に出られない日々は長く厳しいものだった。 でも、その時間が自分を強くした。 その実感が、今日の髙原を支えている。 苦しい日々を跳ね返したのと同じように、 これからも髙原は敵のシュートを跳ね返し続けるのだろう。 【髙原選手からの RE:】
『シュートストップ』 Name : 髙原 寿康 [Toshiyasu TAKAHARA] Age : 29 From : GIFU Number : 21 Position : GK
2009年11月09日
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生まれながらのコンサドーレ戦士。 トップチームのホームゲームは、 クラブ創設時から当然のように観戦に通っていた。 生まれながらのサッカー少年だった。 物心がついた頃にはすでに、週末は豊平川の河川敷で 父がプレーする社会人サッカーの応援という生活。 もちろん、空き時間にはグラウンドに飛び出して 自らもサッカーボールを蹴る。 幼稚園の頃からそんな日々を過ごしてきた。
そして、生まれながらのコンサドーレ戦士。 「クラブ創設時からしょっちゅう試合を観に行っていましたね。 厚別での試合はほとんど観ているし、父親と一緒に室蘭にも 観に行っていました。 デリー・バルデスやウーゴ・マラドーナは大ファンでしたよ。 後半ロスタイムに2点差を追いついた、97年の 川崎フロンターレ戦ももちろん観ています」 幼いころからサッカーをプレーし、そして同時に、 コンサドーレの試合に通うことが当たり前の生活になっていた。 自らのプレーと、地元クラブへの愛着。 その2つは中学入学時に、ひとつの形となる。 コンサドーレのアカデミー(下部組織)である ユースU-15への入団が叶ったのだ。 「コンサドーレのホームゲームには毎週通っていたのに、 下部組織があるなんて全然知らなかったんですよ(笑)。 で、中学に入る頃に親が教えてくれたので、 すぐにセレクションを受けに行ったんです。 小学生の頃は一応、北海道選抜でプレーしていたこともあったので、 合格することができました」 こうして西大伍のコンサドーレライフはスタートを切ったのだが、 言うまでもなく、人生というのは長ければ長いほど困難も多くなる。 中学卒業時から、22歳になった今日まで続いている西大伍の コンサドーレライフにもしっかりと幾多の困難があった。 「中学に入った頃は、本当に身長が低かったんですよね。 145センチくらいしかなくて、背の順番で並んだら クラスでは一番前でしたから」 中学入学時といえば、成長期でもある。 「周りのヤツらが一気に体が大きくなったり、走るのが速くなったり。 小学校の頃は走るのはすごく自信があったはずなのに、 それもドンドン追い越されていってしまって。 苦しかったですね」 こんなはずではない、という思いを抱えながらも 現実と向き合う日々が同時に始まった。 「(身長の低さを)コンプレックスに感じていたかもしれない」 と今だからこそ明かす。 そうした日々を越えて今日の西大伍があるのは、 やはり技術があったからなのだろう。 02年に行なわれた高円宮杯(U-15)では決勝戦にまで進出し、 トップ下の選手として周囲を牽引して国立競技場の舞台に立っている。 ただし、本人は当時をこのように振り返る。 「ぶっちゃけ、ボクのようなタイプの選手は“勝つ”ということを 考えたら使い難い選手だったと思うんですよ。 技術はあったかもしれないけど、体は決して強くなかったし。 だから、試合に使ってもらいながらも心苦しかったですね。 明らかに勝つための選手起用ではなかったと思ってましたし、 試合に出られないチームメイトもいたわけですから。 僕に期待して使ってくれていた監督やコーチ、 それからチームメイトには感謝しないといけないですよね」 ただし、間違ってはいけない。 大伍が周囲に感謝するだけの選手だったならば、 起用はされていなかっただろう。 「心苦しかった。でも、だからこそ絶対に結果を 出さなければいけなかったし、 自分の武器である技術を磨くことに全力で挑みました」「サッカーを楽しむ」 この言葉が、いつの日も彼のサッカーライフを支えてきた。 そうしてU-18へとステップアップしたのだが、 ここでは決定的な壁にぶつかってしまう。 「U-18では高校3年まではほとんど試合で使ってもらえませんでしたね。 高校3年になっても主力ではなかったし、そこでもあまり いいプレーはできていませんでしたから。 その時はプロになる自信もなかった」 そして高校3年の夏には「トップチームへの昇格は無理」 という宣告をされる。 でも、そこが大きなターニングポイントになった。 「トップ昇格は無理、と言われたことで『サッカーを楽しもう』と 考えるようになったんです。 それまではあんまり海外のサッカーには関心が強くなかったのですが、 だんだん興味を持つようになっていって、プレーすることだけでなく、 サッカー全体を好きになっていきました」 テレビで見たロナウジーニョ(ブラジル)に衝撃を受け、 そのテクニックを真似しようと日夜、リフティングに励むようになった。 それまではバレーボールなどに興じていた学校の休み時間にも、 サッカーボールを蹴るようになった。 サッカーを楽しむようになった結果、練習量が圧倒的に増加していたのだ。
当然、実力も増した。 最後の高円宮杯(U-18)に挑む頃にはゲームをコントロールするまでの 存在になり、ここでもファイナリストに。 そして評価も覆した。 トップチームへの切符を見事に掴み取ってみせたのだった。 「サッカーを楽しむ」 壁にぶつかったとき、大伍はいつもこの言葉を思い出す。 プロに入った当初、そのトレーニングと指導のあまりの厳しさに 「寝たら次の日の練習がすぐにやって来てしまうので、 体は疲れているのに寝るのが嫌だった」という時期もあった。 それでも、この言葉を思い出せば、自然と力が出てきた。 やっぱり、サッカーは楽しむものなんだ。 プロになって今年で4年目。 コンサドーレでのキャリアも10年目となり、今ではチームの中心として、 その強いメンタリティで年上のチームメイトも、年下のチームメイトも 引っ張り、アカデミーから鍛えられた高い技術でチームを操縦していく。 それでも、壁にぶつかったときには自らの原点を思い出す。 「サッカーを楽しむ」 困難の多いサッカーライフだったからこそ、大伍にとってこの言葉は、 重い重い意味を持っている。 【HANDLE 西選手からのRE:】
『楽しむ!!』 Name : 西 大伍 [Daigo NISHI] Age : 22 From : HOKKAIDO Number : 22 Position : MF
次のホームゲーム 第50節 11月29日(日) 横浜FC 札幌ドーム 13:00キックオフ →チケット購入方法・お得なシートについて →試合日程について
2009年09月29日
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キブドの街の小さな広場から、 国内きってのビッグクラブへ 南米はコロンビアの西部にある、チョコ県。 アトラト川を望むこの県の中心部に州都であるキブドの街がある。 「コロンビアではサッカーが一番のスポーツ。 どの子供もサッカーをやるんです。それもほぼ全員がプロ選手に なることを夢見てね」
ただし、残念ながらキビドの街は密林地帯の中にあり、 天然ゴムやヤシの実は豊富にあるものの、サッカーをやるに 相応しい土地は乏しかった。 それでも子供たちはサッカーボールを蹴り続ける。 ちょっとした広場を見つけては、朝から晩までボールを 追いかけて走り続けた。 そんな子供の輪の中にダニルソン・コルドバもいた。 「サッカーをやるには決して良い環境ではありませんでした。 でも、サッカーが大好きだったのであまり気になりませんでしたよ。 それに、教師をやっていた父がある日、サッカーシューズを プレゼントしてくれたんです。本当に嬉しかった。兄もサッカーに 没頭していましたし、僕も毎日そのシューズを履いて走り回っていましたね」 そうしたなかで、14歳になったときに大きな転機が訪れる。 ダニルソンはスカウトの目にとまり、国内きってのビッグクラブである インディペンディエンテ・メデジンのジュニオール(ユースチーム)に 入団することになったのだ。 「あの時のことはとても良く覚えています。とても嬉しかったですね」 でも、インディペンディエンテ・メデジンに入るということは キブドの街を離れなければならないということ。 木々のなかで毎日ボールを蹴り合った仲間との別れでもある。 嬉しさと寂しさが混在した。 「キブドの街で、父と同じように教師を目指しながら楽しくサッカーを やる人生もいいかな、と思ったこともありました」 それでもキビドの仲間たちと過ごした日々は、ダニルソンの背中を 押してくれる大きな力になった。 仲間たちの想いも背負いながら、ビッグクラブの門を叩くことにした。 名門インディペンディエンテ・メデジン。 そこで待っていたのは、ハードな日々だった。 もちろん日々のトレーニングもハードだったが、力が劣ると 判断されればすぐに追い出されてしまうシビアな厳しい世界でもあった。 親しかったヤツが去っていく日もそうだったが、 あんまり好きじゃなかったヤツが去っていく日もダニルソンの心の中には 大きな寂しさが生まれていた。 「毎日本当に厳しかったですね。 いいプレーを続けていても、悪いプレーをしたらすぐに外されてしまう。 ものすごいプレッシャーでした。 でも、去っていったヤツらのためにも必死で喰らいついていきました。」 そして17歳のとき、念願のトップチーム昇格を果たす。 数多くいたジュニオールの仲間たちも、この時には数人にまで絞られていた。 もちろん喜びは大きかったが 「トップに上がってもその立場を維持することはものすごく大変なこと。 それにインディペンディエンテは人気のあるクラブでしたから、 ファンの期待にも応え続けなければならない。とにかく責任を感じました」。多くの期待を背に、 世界というフィールドを走り続けていく 06年に果たしたトップ昇格だったが、翌年にはさっそく大仕事を やってのける。 コロンビア国内で最も注目を集める試合である、国内2大ビッグクラブの インディペンディエンテ・メデジンとナシオナル・メデジンとの直接対決、 通称「クラシコ」でダニルソンは見事に決勝点を挙げてみせたのだ。 国民すべてが注目する試合とあって、翌日以降は新聞、テレビなどが こぞってダニルソンの活躍を報じた。 そしてこの年にはコロンビア代表チームにも選出されており、 ダニルソンの名は一躍、国中に知れ渡った。 その活躍はもちろんキビドの街にも、ジュニオールを去っていった 仲間たちにも伝わったはずだ。
そしてこの09年、ダニルソンは活躍の場を地球の裏側にある 日本へと移した。身体能力とその俊足を活かし、中盤の底から 幅広いエリアをカバーして徹底して相手ボールを奪い続けて コンサドーレの中心選手として活躍している。 キブドの街からインディペンディエンテ・メデジン、コロンビア中が 注目するクラシコ、コロンビア代表。ダニルソンが走るフィールドは、 成長とともに広がっている。 現在では地球の裏側にまで到達した。 そしてどのフィールドでも相手ボールだけでなく、勝利をもぎ取ってきた。 ダニルソンはこれからも走り続ける。 これまではキブドの仲間たち、ジュニオールを去っていったチームメイト、 インディペンディエンテ・メデジンのファンたちの想いを背中に乗せて。 そこに今ではコンサドーレのチームメイト、スタッフ、サポーターの 期待も加わった。 でもそれは決して重みではない。後押しだ。 走り続ける。奪い続ける。 そのたびに背中を押す新たな力が加わり、スピードは増す。 キブドの街の小さな広場から、フィールドはいまや地球規模へと広がった。 【TOUGH ダニルソン選手からのRE:】
『AGRESIVIDAD!(アグレッシブ!)』 Name : ダニルソン [Luis Danilson Cordoba Rodrigues] Age : 23 From : COLUMBIA Number : 14 Position : MF
次のホームゲーム 第50節 11月29日(日) 横浜FC 札幌ドーム 13:00キックオフ →チケット購入方法・お得なシートについて →試合日程について
2009年08月31日
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繰り返された負傷。苦しみのルーキーイヤー。 人間の体というのは逞しいもので、負傷した箇所というのは完治後、 たいていは負傷前よりも強くなっているのだという。 だがそれは、筋肉や骨といったフィジカル的な箇所のみならず、 メンタル的な箇所についても同じことが言えるのかもしれない。 折れた気持ちというのは修復後、以前よりも強くなっていたりする。
「代表チームの合宿に行ってケガをして、治ってもまた代表で ケガをして。ルーキーだった去年はその繰り返しでしたね。 コンサドーレではケガの治療ばかりで、結果も残せていないのに 代表に呼んでもらっていた。 クラブで結果を出して代表に呼ばれるというのが自然な流れだと 自分では考えていますから、本当に心苦しかったですね。 そしてそこでケガをしてしまっていたわけですから、精神的には 厳しかった」 北海道の名門、室蘭大谷高校のエースストライカーとして爆発的な 活躍をしていたことで注目を集め、高校2年からは年代別の 日本代表チームにも常に名を連ねるようになる。 そして、そこでも不動のエースとして活躍をした。欧州遠征や、 アジアでのタフな国際試合なども経験し、08年のコンサドーレの加入は 多くのサッカー関係者やファンにとって“満を持して”とも言える ものだった。 逆に言えば高卒ルーキーがいきなり多くの視線を集めるという、 大きな重圧の下に身を置いたということになる。 「最初のキャンプの直前に盲腸になってしまって、チームに 溶け込むのも時間がかかりましたね(笑)。 すぐに結果を出さなければいけないという焦りもありましたし」 もともと、新しい環境に身を投じるのは大の苦手だった。 初めて年代別代表チームに選出されたときも 「知らない選手とサッカーをするのは正直、抵抗があった」と 辞退を考えたほどである。 そんな選手がプロという新たな世界に飛び込み、いきなり結果を 求められる。そして、ケガを重ねてしまう。 本当に苦しいシーズンだった。 5月の名古屋グランパス戦で待望のプロ初ゴールを挙げ、 「気持ち的にはひとつのハードルを越えられた」と安堵したものの、 その後もケガに苦しむ日々が続いてしまった。 だが、負傷した箇所が癒えて以前よりも強固になっていくように、 苦しみの日々を乗り越えるたびにハートも強く鍛えられていったのだった。 「ケガをしたり、思うようにシーズンを過ごせないことで不安や 焦りは少なからずありました。 でも、レベルが高く、より厳しい環境でサッカーがしたくて プロの世界に飛び込んだわけですから、そんなことは言ってられない。 少しずつ、そう思えるようになってきました。 この世界、ケガというのは付きものですし、ケガをしている間に 何ができるのか、そういったことも考えられるようになりましたね。 その意味では、早いうちに壁にぶつかれたことは良かったのかもしれない」サウジアラビアで立ち尽くしたあの日。 「今度は絶対に勝つ」 痛みや苦しみが、宮澤を強くした。だが、強くなったからといって 痛みと無縁になれるわけではない。新たな痛みは、すぐにやってくる。 08年11月、中東はサウジアラビアのアンマンで開催された アジアユース選手権。 グループリーグを順調に首位で通過し、迎えた決勝トーナメント1回戦。 これに勝てば翌09年にエジプトで開催されるU-20ワールドカップの 出場権を得ることができ、逆に負けてしまえば敗退となる大一番に U-19日本代表は挑むこととなった。 エースストライカーはもちろん宮澤。セレッソ大阪の香川真司とともに、 大黒柱としてチームを牽引していた。 世界大会まであと一歩、勝てば天国、負ければ地獄という シチュエーション。舞台は整っていた。 だが、ここで立ちはだかったのがライバル・韓国だった。 「気の緩みはまったくありませんでした。でも、その前の対戦で 僕らが一度勝っていたというのがあって、 『絶対に負けない』という気持ちは韓国のほうが上回っていたのかも しれない・・・」 0-3。圧倒的な完敗だった。 受け入れ難い結果ではあったが、それが現実だった。世界への道は、 閉ざされた。灼熱のサウジアラビアで、ただ立ち尽くすしかなかった。 だが、折れかけそうな気持ちを支えたのは、紛れもなく苦しみの ルーキーイヤーで積み上げた経験だった。 「負けたまま終わるわけにはいかない。借りは絶対に 返さなければいけませんよね。 また韓国と戦って、今度は絶対に勝つ。そのためにもコンサドーレで しっかりと成長し、結果を出すことにいま、すべての力を 注いでいる最中です」
「新しい環境は苦手」と言い切っていた男はいま、些細なことにも 動じないタフさを身につけた。 何度倒れても這い上がる、前へと進む。どんな環境に置かれても、 とにかく攻めることだけを考えている。 今シーズンはボランチとしてもプレーしているが、 「サッカーとはゴールを奪う競技。どんなポジションであろうと、 第一に考えるのはゴールを奪うことだけ。DFをやれと言われても、 常に攻めることを考えながらプレーしますよ」と言ってのける。 どのエリアでプレーしようとも、頭の中に描くのはいつも「攻撃」。 それが宮澤という男の生き様だ。 どんな厳しい状況になろうとも、宮澤は這い上がる。 そして這い上がってきたときには、以前よりも強靭な宮澤へと 変貌を遂げている。 攻めの姿勢がより強固になっている。その繰り返しが、 この男のサッカースタイルだ。 「今度は絶対に勝つ」 この言葉を偽りのものにしないために、これからも宮澤は攻め続ける。 今はもう、サウジアラビアで立ち尽くした、あの日の宮澤ではない。 次に韓国と対戦したならば、きっとそのゴールネットをこの男は 揺らすはず。 その瞬間、世界への扉は開かれる。 【CLEVER 宮澤選手からのRE:】
『自分らしく』 Name : 宮澤 裕樹 [Hiroki MIYAZAWA] Age : 20 From : HOKKAIDO Number : 11 Position : FW
次のホームゲーム 第44節 10月7日(水) セレッソ大阪 札幌厚別公園競技場 19:00キックオフ →チケット購入方法・お得なシートについて →試合日程について
プロフィール
【選手スペシャルインタビュー】 2009シーズン、J1昇格に向けて再出発を誓ったコンサドーレ札幌。選手達のひとつの夢にかける決意と、ひとりひとりのヒストリーをお届けします。 ★あなたのブログからトラックバックして選手を応援しよう!
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