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2007年12月21日

aftertalk#4

classics#4をお届けしました。

割り切ろう割り切ろうと考えてきたこの頃になっても、割り切ることのできなかったとある話。そしてそれは今でも割り切ることができていない。割り切らなくていいのかもしれない。フットボールのいくぶんかはそういった忘れられないことでできている、とも思っているから。

98年開幕から入れ替え戦までの話の流れを書いているんだけど、いま思い出してみると浮かれていたなあ、というのが最初に感想として出てくる。それでも開幕戦、日本平での興奮は覚えている。具体的に言うと、できあがったばかりのビッグフラッグ(の真ん中部分だけ)を運び込んで、ゴール裏で広げたときの「おおっ」というどよめき、普通にエスパルスのレプリカを来て座っていた人が「こうやって端っこをピンと張らないと見栄えが悪いから」と言って手伝ってくれたこと、はちきれそうなくらいの誇らしい気持ち。そしてそれが砕かれそうになった気持ち。
やっぱり勝てなかったからか、悔しいことばっかりだったなあ。
京都に負けてトラメガ地面に叩きつけて壊したりとかあったけど、そういうのは若かったからなのかなあ。あのあと秋葉原に買い直しに行って損したのは自分自身だったって思い知ったし(特に金銭面で)。
入れ替え戦に向かうときにまだ「安心感」があった、というのも読み返してみるとなに楽観視してやがるんだって過去の自分に怒りたくもなるし、人数の割に声が出ていないなんて書いているところに自分のことを差し置いて他人に責任をなすりつけているような嫌な気持ちもするけど、たぶんあの時は「恐怖感」を「安心感」に無理矢理上書きして(もしくはごまかして)試合に向かっていたんだろう。恐怖心と正面から向き合うような気持ちはまだ持ち合わせていなかった。今の自分にもそういうところがあるし、解決しなければならない大きな人生の問題なんだろうけど、まだ2002年の時のほうがそういう恐怖と向き合う気持ちを持っていたような気がする。
どこかで「なんとかなるだろう」という正体不明の安心感を引きずり出してきてそれにすがってしまったり、他人に自分の安心感を求めてしまったりするということが自分の人生の中において絶えずどこかにあって、そしてそれは今でも自分のどこかに巣を張っている。実際に「なんとかなってしまった」という経験がなまじあるがゆえに、そこから抜け出すことができない自分というのも感じている。やりきったからこその気持ちではない、やりきれなかったからこその依存心。自分の心の醜さをどこかで感じるのはいつも今でも同じことだ。きょうのテレビで見た三浦監督の潔さ、なにかを成し遂げた表情の素晴らしさといったら!

「過去に生きてはいけない、今何ができるのかというのが大事」と三浦監督が語る姿を今日のテレビで見ていると、今自分自身が書いているこの文章も、ものすごく後ろ向きで情けないことに思えてきた。ひょっとしたら今の自分は「アーカイブする」という「安心感」に、またもやすがっているのかもしれない。

posted by retreat |23:26 | aftertalk | コメント(1) | トラックバック(0)