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2008年04月15日

CONSAISM clasics #40

clasics #40です。前回の「classics」に続き、「何書いてるんだかわからないシリーズ」第二弾。


言葉というのは不思議なもので、自分ではうまく言い表せなくてもどかしいことをたった一言で言われたり、あるいは読んだだけで愁眉を開くような、雷に打たれたような刺激を受けた経験のある人は多いと思う。(ちなみにそんなことない、という人はすごい人だと思う。その理由はまた後で。)その最たるものが「人生とは〇〇である」という例えの言葉だろうと思っている。曰く、「人生とは登山である」「人生とは川の流れである」「人生とは天気である」、そして僕がこうして書いているコラムで何度もしつこく言っているように、「人生とはフットボールである」とも。(ちなみに、「人生とはフットボールである」ということと「フットボールとは人生である」ということは、主語とその対象を入れ替えただけではとどまらないもっと大きな違いがあると感じているが、そのことはまだ自分の中でもまとまっていないので改めて書いてみたいと思っている)
こうして人生というもの(なんだか上段に構えているようで気恥ずかしい、と思う人は「人生」を「日常」とか「生活」と読み換えてみてください)を一つや二つの簡単なセンテンスに丸め込んで表現するということは確かにわかりやすい。また、はっきりとはわからなくても「ああ、そういうことかもしれないよな」なんて、なんとなく納得できたりする。どうしてそういうふうに納得できたりするのかというと、そのように人生のメタファーとして置き換えられるものというのは、必ず今この世界の中にある何ものかであり、思想であり、物体であるからだ。人間が今までの歴史の中で誰も思いもつかなかったようなことをとりあげて「これが人生というものだ」――なんて一刀両断に言うことはまずないし、あったら人間なんて生きることに飽きてもう存在すらしていないだろう。だって人間は「それ」を思いついたことがないのだから、それはどっちかというと「発見」に分類されるものだろう。そうして人生というものは、そのメタファーにされる対象によって如何様にもその読み取られる形を変えることができる。複雑な多面体、もしくは不定の流動体をいろいろな切り口でいろいろな角度から眺めるようなものだ。それは硬質であると同時に柔らかであり、熱いところも冷ややかな部分もあり、いつもどこかしら不透明で、めまぐるしくその形を変えているものだ。そういう存在が人生であり、またフットボールでもあるのではないか――と、また僕は小難しく思ったりしている。

まあそういう思考はともかくとして、ここで僕にはひとつの思いが生じてくる。「人生とは〇〇である」と例えることによって、人生というものをシンプルに提示することはできる。しかしそこで一言にシンプル化されることによって、語られることのないいろんな感情や事象が出てきてしまうということだ。砂を両手にすくったとき、手のひらからこぼれおちてしまうように。そうしてこぼれおちたものは「人生とは〇〇である」という、理解する側にとっては圧倒的な言葉の威圧感の前にその存在感を希薄にさせられ、その言葉を受けた瞬間、それに気づくことはまずない。それゆえに、一言では言い切れなかったこぼれおちたものを別の手で受け止め、提示するために「人生とは〇〇である」というような、さまざまな表現が成り立つことができるのではないだろうか。

ゆえに「人生とはフットボールである」と言う表現もまた然り、だ。人生という長いスパンのものを90分のフットボールに例えることの中で、自分でも気づかなかったほんの小さな感情の揺れ動く様を読み取るということは非常に困難だ。朝、道ばたに咲いていた花の美しさを「フットボール」という例えを用いて表現することはちょっと難しいかもしれない、ということだ。まあ、人生の全てをフットボールに例えることができたとしたらそれはそれで悲しむべきことなのかもしれない。俺の人生ってその程度だったのかよ、なんて。
 ということで、フットボールというものの中にはまだまだ僕らが語ろうとして語れないもの、感じ取ろうとして感じ取れないもの、表現しようとしてできないもの、あるいは想像もしていなかったようなものがまだまだ隠れている、と僕は思う。そしてフットボールを観て、語るということにはそういった隠れている(あるいは見過ごしていた)ものを拾い出し、感覚として共有することを大きく広げる可能性があるではないだろうか。ゼノンが「アキレスと亀」の論法の中で示したように、時間は無限に分割されることができる。だとするならば、フットボールという事象においても「時間」を無限に分割し眺めることができるのだろうし、そこには無限の意味がある。そしてそれはフットボールにとどまらず、他の人生のメタファーとして表現されるもの全て、ひいては人生そのものに広がっていくのではないだろうか。とはいえ、これはちょっとかなり乱暴な言い分だとは思うけれども。

そういうわけで冒頭でもちょっとだけ触れたが、たった一言の言葉で愁眉を開く、もしくははっとさせられるような経験をしたことがあるか、と聞かれて「そういうことはない」と答えた人は個人的にすごい人だと思う。それはつまり「人生とは〇〇である」というように、この世の全ては一言で表すことなどできない、ということをもうすでに獲得できている人なのだろうと思うからだ。そして僕はそういった経験がなかったので、人生をフットボールというメタファーにして、こうしていろいろと考えてみたりする。
まあ毒にも薬にもならないだろうが(もしかしたら毒になる確率が高いかもしれないが)、こういうことを考えるのは僕にとってはとても楽しい。だからこれからもフットボールの中に見えるいろいろなものを眺め、また見出していければいいと思っている。それが僕にとっての、フットボールを「観る」という行為だ。

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2008年04月09日

CONSAISM clasics #39

clasics #39です。
この回と次の回は「何書いてるんだかわからないシリーズ」と勝手に名付けたい。


幼い頃から一人で何事かをしているのが好きな人間だった。

特に親が共働きだとか、一人っ子だったからとかいう理由ではない。でも引っ込み思案で臆病な、おとなしいタイプの性格だったことは間違いない。そしてそれはいまでもそうだ。自分が覚えている最初の記憶は、本を読んでいるところから始まる。一人で畳の上に腹這いになってページをめくっている自分の姿が、どこかおぼろげな記憶で保存されている。本を読むだけではない。一人でカセットテープを聴いていたり、一人でブロックで何かを黙々と作っていたりしていた。こういうことを書くと自分が暗い性格の人間であるかのように思われるが、実際そうだから仕方がない。それで今では、一人で散歩したり、一人で本を読んだり(これは変わらない)、部活や習い事も一人でできること(武道――剣道とか――なんて孤独なスポーツの極みだと思う)ばかりやってきた。人並みに野球やバスケットなんかのチームスポーツも好きだが、実際やるのは気が引ける。それで一念発起してやってみたり、学校の体育で嫌々ながらやらされたりしてみるとこれがまた案の定できない。球技なんてそもそもパスが回ってこない。下手なのをもう見抜かれてしまっているわけだ。そんなわけで、一番好きだった体育は無難に長距離走だったりする。でもやっぱり遅かったけど。

一人で何事かをするのが性に合っている、というのはスポーツやそれ以外の娯楽を見に行くときも同じことだったりする。札幌以外のフットボールの試合に限らず、野球でもバスケットでも映画でもひとりで見に行くことがよくある。面白いプレーや笑えるネタの話をしたくて「誰か誘って来てればなあ」と思うこともあるが、だいたい2,3秒すれば「ま、いいや」で済ませてしまう。そもそも面倒くさがりなところもあるのだけれど(面倒くさがりすぎ、という話もある)。そんなわけで、物心ついてからの生活というのは引っ込み思案で臆病→他人とのコミュニケーションが得意でない(もしくは人を選ぶ)という孤独ライフサイクルの悪循環をたどっている。まあこんな悪循環にはまりこむとろくな事はないので、やっぱり人と一緒に遊んだり、コミュニケーションをとる能力があるに越したことはないと思います。

さて、ここで今まで語っていることとは一つ矛盾が生じてくる。そもそもチームプレーが好きではない自分が、なぜチームプレーの上に成立するフットボールを好きになったのか、もう一つは、なんでこういう性格の自分がゴール裏で飛び跳ねたり叫んだりするようになってしまったのか、ということだ。チームプレーとしてのスポーツも突き詰めると個人のプレーに当たると思うけれど、それはそれで今ここで書きたいこととはベクトルが違う気がする。一人でいるということに違和感を感じなかった自分が、なぜ他人とのコミュニケーションを必要とする場所にわざわざ飛び込んで行って、人間関係だとか議論に時間を費やしているのだろうかと最近思うようになった。自分の中にある価値観に、何らかの転換がもたらされたと言えばそれまでなんだろうけれど、その転換のそもそもの起点はどこかと考えるとやっぱりゴール裏のことにつながる。どこかに今までの自分とは正反対の行動的な自分がいて、それがフットボールによって目覚めさせられたということなのだろうか。

と、ここまで書いてきてなんだか雲をつかみ霞を喰うような話になりつつあるし、これ以上考えていてもどうやら埒が開きそうにないのでとりあえずこの疑問はこれからも考え続けることにしてみる。厄介なことに、自分はこういった日々の生活に役に立ちそうもない、ある意味下らない疑問にはやたらと食いついて考えるので、しばらくはこのことが頭の片隅に残っていそうだ。ただ解っていることは、フットボールというスポーツには、いや、フットボールという社会的存在にはそういった自分の知らない自分を目覚めさせてくれる何かがある、ということだ。けれど人がなにがしかのタイミングで全く変わってしまうと言うことは良くある話なので、自分の場合それがたまたまフットボールだった、ということかもしれないけれど。というわけで自分を変えてみたいという人は、フットボールに限らず、大きな野望でも小さな事でも何か今までとは変わったことをやってみると良いんじゃないでしょうか、春だし、という無茶なまとめかたでこの話はとりあえずはおしまい――と。

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2008年04月05日

CONSAISM clasics #38

clasics #38です。しかしどうしてこんなに過去と現在のネタがかみ合うんだろう。
自分のスケジュールに合わせて上げているだけなのになあ。


残り43試合の前途多難をあっさりと予想させながら、今年もまたフットボールのシーズンが始まった。札幌にとって、8回目の早い春の訪れである。そしてこのチームができてもう7シーズン、自分が応援するようになってから6シーズン半。思い起こせばもう立派にそれなりの年月が経ってしまっていて、思い出としてしまっておきたい試合や、誰にも話したくないタブーのような試合や、伝説としてとうに誰もが知ってしまっている試合が、歴史という層の中に薄いながらもそれぞれの色を見せている。「99年開幕当時のイレブンを答えなさい」とか「札幌に在籍したことのある外国人選手をすべて挙げよ」なんて質問をされても、自分はもう立派に答えきれる自信はない。そんな過去の記憶を覆い隠してしまうだけの歴史がちゃんとあるということだ。この原稿を書きながら思い出してみて(あるいは思いだそうとして思い出せなくてデータを引っぱり出したりして)その深さが自分の予想以上であるということに気づき、少々びっくりした。そして同時に、良い色の地層や立派な年輪を刻んでほしいものだと願ってもいたけれど。

時々、そんな昔の記憶を持っている他のファンや選手たちに、あなたのベストイレブンとトップ5のゲームを教えてください、といってアンケート用紙を配ってしまいそうな気持ちになることがある。でも集計して「これがサポーターの選ぶベストです!」だなんてやりたくはない。そんなのは一人一人のファンの持っている思い出や歴史を踏みにじるものだからだ。逆にアンケートを書いた人一人一人にその選手やゲームを選んだ理由を、思い入れを聞かせてほしいくらいだ。彼(彼女)はその日どこにいて、どんな風に試合を見ていたのか。ゴール裏か、メインスタンドか、はたまたブラウン管の向こうか。どんな思いがあったのか。どんなところに目を惹き付けられたのか。それにまつわる個人の思い出(彼女と初めて行ったとか、初めて喉が嗄れただとか)とか。そんなことを100人くらいに聞いて回ったら、結構札幌的には興味深い本が一冊できあがりそうな気がする。

もちろん他のプロチームはもっともっと多くの歴史や、語られるべき選手や、事あるごとに思い出されるゲームを持っている。日本で最初のプロ選手から始まり、Jリーグ創設時の10チーム、それからどんどんと増えていったプロチーム、飛躍的に増大したプロ選手数とその質の向上、それに伴ったゲームの増加は週末どこかで必ず試合が見られるという恩恵を可能にさせた。そしてその分だけ、観る側の人間が語る言葉や、目に焼き付けられたプレーや、記憶から抹消したいほど恥ずかしいゲームが増えていった。Jリーグはフットボールの試合やこの国のフットボールのシステムを大きく変えただけでなく、僕らがフットボールについて語り合う機会とその言葉の量をも大きく増やしている。スタジアムで、フットボールカフェで、居間のテレビの前で、気の置けない仲間と、あるいは初めて会う人と、言葉のパスゲームが続く。それは皆で円く広がって、空き地でボールを回しあうような感覚。そんな中から伝えられるべきものが伝えられ、その土地の、そのチームにおけるフットボールの遺伝子が渡されてゆく。さながら現代的な口承文化、なんてのは言い過ぎだろうか。

今までも札幌のフットボールはありとあらゆるところで語られ、時にはこうして不特定多数に発信されてきた。その中で語られてきたのは必ずしも素晴らしい伝説ばかりじゃない。五分五分くらいで苦い思い出も混じってる。けれどもそうやって語られる事でフットボールはフットボールとしてのその地位と歴史を形づくってきたし、これからもそうだろう。なによりもフットボールを語るという行為そのものは、よほどの悪口雑言でもない限り楽しいものなのだ。そうして、

「ベストゲームは?」「昨日の試合だよ」
「ベストイレブンは?」「昨日のスタメンだよ」
なんてさらっと言えるほどの誇りも願わくば持ち合わせれば十分である。

さて今年は、どれだけ語りたくてたまらないことが増えて、嫌なことも笑い話で済ませられることができるだろうか。そのためにはまず、次の試合は勝っておかないとね。
 

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2008年04月02日

CONSAISM clasics #37

clasics #37です。時間は一気に進んで2003年3月、開幕直前の回。


気がつけばあっという間に1月も2月も過ぎて、今年のシーズン開幕までの時間はもうわずかになってしまった。今年も選手達は札幌を離れ、オーストラリアや鹿児島や宮崎や、遠く離れた空の下で一年戦うための力を身につけ蓄えている。札幌のチームであっても札幌にはしばらく戻らない、今年も変わらぬジプシーのような合宿生活が続いている。
自分自身はというと、サッカーを生観戦することのないここ2ヶ月はなんだかんだいってやっぱり退屈なもので、2月になって開催されたA3マツダチャンピオンシップには尻尾を振って飛びつく犬のように国立競技場へ行き、普段見られない韓国や中国のチームのプレイを堪能し、鹿島の一層迫力を増したディフェンスラインに驚嘆した。秋田のあの強さは人智を越えたものになったんじゃないかなんて一瞬本当に思う。けれど2月の風は寒くて、自分は寒さに震える犬のような感覚で2試合を見てしまったのだけれど、それはそれで風邪さえひかなければプレシーズンの興趣の一つではある。そうして他のチームの試合を見ながら「札幌の仕上がり具合はどうだろう」とか、「今年の新外国人は当たりだろうか」とか、「ウィルは今年誰を蹴るのだろう」とか適当につらつら思ってしまうのもこの時期ならではの妄想でもある。
そうして3月になり、雪も風も日差しも柔らかくなり、首に巻くマフラーがいい加減うっとうしくなる頃にやっとリーグの開幕がやってくる。東京で、静岡で、大阪で、九州で、そして札幌で。そう、チームが出来て初めてのホーム開幕である。札幌ドームという場所が出来て、初めてその恩恵とにあずかることが出来る。この嬉しさは他のチームのファンには理解できないかもしれないが、とんでもなく嬉しいことなのだ。
ご存じの通りいままで札幌はホームで開幕を迎えた事がない。96年の福島に始まり水戸、清水、大分、鳥栖、長居、広島と、この時季は雪国チームのハンディを背負って戦う季節でもある。そして札幌のファンはそれをごく普通のこととして受け止めてきた。何試合かを(立地という点では)アウェイで戦い、そこでスタートダッシュを決めたりいきなり大失速したりしながらも北海道に戻ってくる。室蘭に、厚別に、そしてドームに。その季節が近づくたびにみんな我知らず高揚し、胸躍らせる。今まで見たくて見たくてたまらなかったチームの姿を、今日このホームでやっと見ることが出来る。その年初めてのホームは、そんな気持ちの爆発が選手達を迎え、札幌でしか味わえない興奮がピッチを包む。そんな光景は見ていて気持ちよく、晴れがましく、またチームへの自分の気持ちというものを再確認できる場所でもある。
それが今年は最初からホームでの試合になる。今までアウェイでしか開幕を迎えたことのない人間にとって、その日がどんなものになるかは正直想像もつかない。けれどそれはどうしようもなく嬉しい日になるだろう。7年分ホームでシーズン最初のキックオフを迎えていない分の気持ちが、そこに表れるのだろうから。そうして、その気持ちがずうっと続けばいいと思う。フットボールに我を忘れ、コンサドーレに我を忘れ、そのことをとてつもなく幸せだと思える週末が、ずっと。
今年の春の訪れは今までより少し早い。けれども、それを実りの秋にできるかどうかはこれからの戦い方次第だ。雪未だ融けぬ札幌の街で、緑のピッチが萌えるように映えるその日が、赤と黒の週末が、また今年も僕らを待っている。

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2008年03月29日

CONSAISM clasics #35

clasics #35です。この回はちょっと話が堅いかなあ。


新年早々フットボールとは一気に違う話だけれど、この間貴乃花引退のニュースをテレビで目にした。相撲は普段は積極的に見ないのだけれども、記者会見のニュースやこれまでの足跡をまとめたVTRを見ていて、その中で武蔵丸との優勝決定戦の映像が流れていた。鬼気迫る集中力、技のせめぎ合い、勝った後の咆哮。そんな貴乃花を見ていて、ふと「心技体」という言葉が浮かんできた。心・技・体、それぞれが高いレベルに凝縮された一番に思えたからだ。
相撲や武道といった、日本古来のスポーツには必ずと言っていいほどこの「心技体」の三文字が登場する。たとえば学校の横断幕や、選手のインタビューの言葉、そしてちなみに自分は剣道をやっていたので、頭に巻く手ぬぐいにもこの字が染め抜かれていた。スポーツを語るときに、この心・技・体という言葉ほど似合った言葉はないように思う。動じぬ心、鍛えた体、磨かれた技術。この三つが高いレベルでかみ合ってこそ、その醍醐味を見る人もする人も味わえるのではないだろうか。
「心技体」という言葉は日本古来のスポーツだけでなく、あらゆるスポーツ全般にも言える言葉だ。体力が無ければ動けないし、心無くして集中力や向上心は生まれない。技術は必死になって練習すれば身に付くが、それを生かす体や心がなくては何もならない。もちろんそれぞれのスポーツではそのうち何を大事にするかが大きく違う。マラソンは何がなくてもまず42.195キロを走り抜く体力が必要だし、比較的身体を動かさない部類に入るであろうカーリングは「氷上のチェス」と呼ばれるように、緻密な戦略や1センチのストーンのズレも許さない技術が大きく勝敗を分ける。様々なスポーツを見て、それぞれの「心技体」の違いを見つけるのもまた、スポーツを見る楽しみだと思う。
それではフットボールはどうだろうか。90分(プラスアルファ)を走る体力。ボールを正確に操る技術。勝ちたい、うまくなりたいと思う心。どれもが必要に思えてくるが、その実どれもが第一ではないとも思えてくる。なぜなら体力が持たなくても技術と経験でカバーする選手もいるし、技術がなくても走りまくって泥臭くプレーする選手もいる。ビジネスだと割り切って高いレベルの技術と体力を見せる選手もいることはいる。どこかそれぞれがそれほど高いレベルになくとも、ほかの二つの能力を生かすことでそれを補って余りあることができると考えるからだ。そしてスポーツという枠の中でそれぞれの競技における「心技体」を楽しむことができるように、フットボールの中でもそれぞれの「心技体」を楽しめるし、そのレベルの高低にかかわらず様々な形で楽しめるスポーツの一つであると思う。
新旧問わずに在籍していた札幌の選手をこの「心技体」に当てはめるなら、村主博正はとてつもない運動量の持ち主だったし、山瀬功治の技術には何度も目を見張った。関浩二の見せたゴールへの意欲は、誰彼問わずに気持ちの伝わるプレーだった。今年の札幌の選手達が見せる「心技体」の形はどんなものだろうかとあれこれ想像して楽しむのも、また一興という思いがある。それぞれの選手がそれぞれの「心技体」をピッチの上で存分に見せつけてくれることが楽しみでならない。
そして、何もこれはスポーツ選手達だけに当てはまった話ではなく、自分たちにも同じことが言えると思う。労働のための体力は必要だし、生活のためだとか夢のためだとか、貫き通せる心も大事なことだ。そして仕事や勉強を通じて学んだ技術はそれぞれの場所で生かすことができる。さらに人それぞれの生活の中での「心技体」の比率はまた異なり、それぞれがそれぞれの生活の形を作っている。そう考えると、自分や周りの生活もそれぞれ少しは楽しめるものになるのではないだろうか、とも思う。
年が明けても相変わらずそんなことを考えながらいつの間にか冬は過ぎ、そしてピッチに転がるボールの行方に目を凝らす季節がまたすぐにやってくるのだろう。

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2008年03月27日

CONSAISM clasics #34

clasics #34です。オフシーズンのヒマネタ込み。
なんだかどんどんと内容が抽象的というか、観念的にというか……。


DVDを買ってきた。タイトルは「リトル・ストライカー(原題:there's only one jimmy grimble)という、その名の通りフットボールものの映画。
主人公のジミー・グリンブルはマンチェスター・シティのファンで、ユナイテッドファンばかりの学校でいじめられている毎日。当然フットボールも巧くない(ただし人前では)。そんなある日、彼は謎のお婆さんから「魔法のスパイク」をもらう。そのスパイクを履いて試合に出るとあら不思議、次々とゴールを決めて大活躍。しかし、決勝戦を目前にしてそのスパイクが消えてしまい・・・。というストーリーの映画。
天皇杯で札幌は大分に何とも言えないしょっぱい負けを食らって、「駄目な年は最後の最後まで駄目」というがっくりした感じをたっぷりと味あわされた。その後でこの映画を見て、主人公のフットボールへのまっすぐな憧れやひたむきな気持ちを余計にたっぷり伝えさせられて、ちょっと沈み込んだ気分になってしまった。そして最初にスタジアムに行ったときの、あのどうしようもない高揚感とか、空の高さとか、芝の匂いとかを一気に思い出して、いつの間にかそういうものを忘れていた自分にも気がついた。まあ一言で言ってしまえば安直なセンチメンタリズムに浸っていたということなんだけど、天皇杯のあるこの時期はそういう気持ちになる事が多いということで、とか思って青臭さを隠してみたりする。
 
自分にも主人公のような時期が確かに存在した。おどおどして自信が無くて、あらゆる事が不安で仕方なくて石のように固まっていて、悩んでいた。でも誰しもそういう時を過ごして来たのだろうし、今まさにその時期だという人もいるだろう。かくいう自分もそういう時期から脱しているかといういうと、どこかでしがみついて離していない部分があるし、ひょっとしたらすべてにおいてそうなのかもしれない。それでも否応無しの現実は自分を学生服から背広へと着替えさせて、中身が伴わないまま社会へと放り出す。必要なことは自分で手に入れなければならない。自分で行動しなければ、主張しなければ生活することもままならない。みんなそうしてこの社会の中で生きてきたんだろうと思う。いうなれば自分以外すべてアウェイの世界。勇気を持って、自分を信じて行くしかない。そして映画の中で、主人公はこう告げられる。ピッチで頼れるのは、自分一人だ、と。

応援する時には威勢のいいことを言ったり叫んだり騒いだりしているけれど、日常生活でも自分がそうであるとは限らない。むしろその逆だ。自分はフットボールから何らかの糧をもらって、生きている人種だ。それは言い換えれば勇気と呼んでも良いかもしれないもの。自分を信じる勇気。自分を動かす勇気。勇気も弱気も希望も絶望もすべて詰め込んだピッチからあらゆる事を教えられ、気づかされる。だから自分はフットボールが好きなのだろうし、時に現実をまざまざと見せつけられるフットボールが嫌いになることがあるのだろう。
それでも感じるのは、自分自身を信じなければ何も始まらないのだ、ということ。自分を自分の味方にして、現実の中を生きていくということ。映画の中でも、現実の世界でも、フットボールでも、それ以外でも、要は同じ事なのだ。

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2008年03月22日

CONSAISM clasics #33

clasics #33ということでした。
がっかりとか脱力とかそんな感じの回です。


仙台でのアウェー戦で、とりあえず個人的には今年のリーグ戦は終了した。
最後は結局3月の広島や高知で見たあの札幌に戻ってしまっていて、良いところはまったくもって見られないまま試合終了になった。ただ、試合が終わったときに感じる気持ちが「失望」や「悔しさ」から「いつものことだ」「またかよ」になっただけで、それはそれで悲しいものがあるけれども。
今年を見直して、これほどもどかしいシーズンは無かったのではないかと思っている。それはチームのことであり、自分たちの応援のことであり、またその二つの相互作用的なものであったりする。チームは悪いながらも何とかしたいと思っているところは見受けられたし、自分自身もそれに応えるべく応援をしてきたつもりだけれども、そういう気持ちは負けがこむたびにどんどん薄れていってしまうのが傍目にもわかってきて、そうなるともう目先の一つ一つのプレイを追いかけて、それを原動力として応援していくことしか出来なくなる。そして仙台では、その最後の原動力であった個人の頑張りさえもどこかに忘れてしまっていたかのようなプレイを見て、試合終了後も何と言っていいかわからずに途方に暮れてしまった。今までは途方に暮れたら暮れたでそれなりに何か選手に叫んだりコールをしたりしたのだけれど、今回ばかりはなにも言うことが見つからなかった。
 
こうして途方に暮れたり徒労感に支配されるのには、応援しているのに選手がそれに応えてくれない、もしくはその逆だったりという理由があると思う。でもそれはどっちが悪いという問題ではなくて言ってしまえばどっちもどっち、目くそ鼻くそを笑うような問題だろう。自分たちの伝えたいことを応援という形で具体化できなかったこっちもこっちであり、気持ちを伝えるプレイを見せてくれなかった、勝ちたいという気持ちが見えなかった選手も選手であるとは思う。ただ一つだけ共通して見えていたのは、どちらも悩んでいて、それぞれの悩みはどちら側が手を差し伸べても解決できないということだった。例えるならば数学の近似曲線のように、ちょっと近づいたりちょっと離れたりしながらも同調することなど一度もなく、互いに似たような下降線を描いていたようなものだと思う。互いが互いの気持ちを理解しようとする時間も意識も降格という眼前の危機に逸らされて、全てを曖昧にうやむやにしてしまったままここまで来てしまった、そんな感じがする。
 
だから今やらなければならないことは、それぞれがそれぞれに何をしなければいけなかったのか、何が出来て何が出来なかったのかを改めてきちんと再確認する事だと思う。それは個人としての再確認でもあり、チーム、サポーター、経営陣全てとしての再確認でもある。そうして出来ることからまた始めればいい。性急に何かを求めようとしてそれが現実のものとなることはまず無いと今年学んだのだから。
 
サッカーは人生のようでもあり、人生がサッカーのようであるとも言えるのは昔から誰もが言ってきたことだが、まさに今はそれを体現してしまっている(ただし悪い形で)。良いときもあれば悪いときもあるというのはどの世界でも誰の人生でもあることで、大事なのはそれをどう受け止め、どうすればいいのかを考えることだと思う。何もサッカーに限ったことではない。
だから来年のために、未来のために、自分のために、チームのために、これからのことを考え、それをしかるべき行動に移すこと。自戒を含めて、まずそれが大事だと自覚することから、全てはリスタートするのだろう。

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2008年03月19日

CONSAISM clasics #32

clasics #32です。
ついに訪れてしまった、あの日のこと。


ボールが僕の視界を斜めに横切って、低く動いていく。
札幌の選手は誰もが動けない。
ネットを力無く揺らしたボールと、反対側のゴール裏の歓声が聞こえたところで、僕は柵に座り込んでしまった。
ああ、二部に落ちたんだなぁ、と、それだけを思っていた。
 
いつもと変わらないアウェイ遠征だった。なじみの友人の車に同乗させてもらい、サッカーの話やらあれやこれやと馬鹿な話を続けながら、いつもと変わらない気持ちでスタジアムに入っていって、やるべきことはすべてやろう、出来る限りの応援をしよう、と変わらない気持ちで試合開始を迎えた。
あの日の試合に限って言えば、札幌らしい試合だったと思う。泥臭く、粘ってこらえる我慢するサッカーでいつの間にか先制し(あの時ゴールが決まったのかよくわからなかった)、追いつかれてもPKで引き離した。そして何より「気持ち」の伝わる試合だった。けれども、その「気持ち」の源泉は「勝ちたいと思う願い」ではなくて「二部に落ちたくないという危機感」が大勢を占めていることも伝わってきた。でも今更そう言うことを言える状況なんかじゃ無いから、僕はただ勝ちたくて、目の前で終戦のホイッスルなど聴きたくはなくて、絶対に悔しさで泣いたりしたくなんかはなくて、そう言う気持ちだったのだけれども、結局それら全てを僕は経験してしまった。悄然として、座り込んでしまった。
 
うなだれたまま、顔を覆ったままゴール裏に挨拶に来る選手達に向かって「落ちたらまた上がればいいんだ!けれどもこの悔しさだけは絶対に忘れるな!」と叫んだ。「We Are SAPPORO!」と、背中に向けて叫んだ。そうして誰もいなくなったピッチに向かって「コンサドーレ!」と叫んだとき、泣きたくなかったのに涙が出た。開き直っていた自分ではなく、絶対に諦めたくなかった、最後まで残留を信じていた自分が涙を流していた。落ちたものはしょうがないよとなだめる自分に、悔しい諦められないなんで鹿島なんかにコールなんか返すんだよだから俺らは甘いんだよと吠える自分が同時に存在していて、僕はどちら側に立っていて良いのかわからずにただ悄然としていた。
 
とりあえず片づけて、スタンドを出て、ゴール裏の人たちと少し話をした。そのときに自分が感じたことは
・札幌は落ちるべくして落ちた。総合的に実力で劣るチームに混乱を加えたら降格はやはり当然の帰結だった。
・ゴール裏で応援する人は増えたが、質は変わっていない。つまり、ただそこにいるだけのカッコつけたがりが増えただけの話で、応援の質や意識を見直して行かなければならない。
・結局はサポーターが行動しないと、チームは変わらない。
 
こんな事を話していくうちに感情は落ち着いて(思いを言葉にしたからだろう)、それじゃまたと手を振って、帰り道を急いだ。車中では行きよりもちょっとトーンが落ちながらもやっぱりいつものような馬鹿な話をしていた。ナイター中継を聴きながら、そう言えばMDもってきたんだけどと言って、僕は鞄からMDを一枚取り出して再生した。スカのリズムで今風にアレンジされた「あの鐘を鳴らすのはあなた」。いいねぇ、と言って、僕はなぜか歌い出した。なぜか三回も四回もリピートして、そのたび歌う声は大きくなって、歌いながら横を見るとディズニーランドの照明がきらきらと光っていた。悔しい、悲しい、やりきれない、そんな思いがヤケ気味に歌う声にのって、ほんの少し、夜風に紛れて行った気がした。
「あの鐘を鳴らすのはあなた」と歌ってみてもその鐘自体どこにあるのかわからないまま、鳴らせないまま札幌はここまで来てしまったと思う。けれどもどこかで見失ったその鐘を鳴らさなければいけない。歓喜の鐘を打ち鳴らすのはいつになるのかはわからないけれども、必ず見つけて、鐘の音を響かせたい。そして翌日には普通通りの生活や仕事が待っていて、そこには札幌の降格のことなんてまったく別世界の話なのだけれども、明日はやっぱり気持ちが沈んだまま仕事するんだろうなと考えたらなんだか可笑しくなって、そんな自分のことを鼻で笑った。お前人生が終わった訳じゃないのに何沈んでんだ。そんな声が聞こえたような気がした。お前自身の鐘を鳴らせ、ともう一人の僕が言って、僕らを乗せた車は夜の東京を走っていった。 

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2008年03月17日

CONSAISM clasics #31

clasics #31、ついに「降格」の二文字が見たくなくても見えてきたころ。
覚悟を決めよう、でも諦めないでいようと思って書いたのだろう文章。


雨に濡れた万博競技場で試合後の撤収作業をしながら、本当に明日このまま2部に落ちてしまうのだろうか、とふと思った。目の前の試合に敗れて決まるのならともかく、何もせずに他のチームの試合結果次第という、なんだかすっきりしない、不思議な終わり方だけはしたくないなと考えながら、雨に濡れたTシャツを着替えもしないで駅へ向かった。雨が身体に染み込み、寒さが増すたびそう思った。実際その夜神戸は負けて、日曜日に何もせずに降格するという事態は避けられたわけだけれども。
アウェイのゴール裏はいつもと変わりなく、チームも良くも悪くも普通で(負け続けているチームに「良く」などという表現はしたくないのだけれど)、それなりの試合をして、それなりに負けた。そういう感覚のゲームだった。けれども、ただやっぱり負けるのだけは嫌で、どうこうしても攻められない、点の取れないチームを見るのはちょっとキツいものがあった。けれども、あの日万博に来た人たちはやはり心底馬鹿なくらいに札幌が好きで、札幌のサッカーが好きで、札幌の選手が好きで、だから2部には落ちたくなくて、だから来たのだと思う。応援したのだと思う。そう思いたい。
万博で、試合前にゴール裏でちょっとした話し合いをした。参加者はそこにいる人みんな。自分の気持ちを言って、みんなも意見を言ってくれて(本音を言うと、もっといろんな人に話して欲しかった)、ゴール裏のみんなの気持ちを確かめあった。
その中でひとり、神戸から来たという女の子はこう言った。

「札幌は今とても厳しい状況だけれども、それでも一生懸命応援したいと思います・・・じゃなくて、応援します!」

ひとつ、大事なことをこの人は言葉にしてくれた、そう思った。
応援したい、と思うだけでは何も起こらないのだ。応援したい、と思うのならば、応援してくれて構わないのだ。立ち上がり、声を枯らして良いのだ。時には強く思うことも大事だけれど、思っているだけじゃ何も伝わらないのだ。残念ながら僕らは、思念をそのまま相手に伝えられるような超能力者集団ではない。だから行動して、言葉で、動きで伝えることが思うことと同じくらいに大事なことなのだ。
 
僕らが生活している社会というやつは、そういう風に出来ていると最近よく感じることがある。どうにもならないことを「どうしよう」とあれこれ方策を練って頭をひねるよりも、「えいっ」と動いてしまった方が案外簡単に終わってすっきりしてしまうことがある。もちろんその逆もある。入念に下準備をして、作戦を考えて行動しないと結果として果たせないこともある。思うことも動くことも、どちらも大事なことで、どちらかだけではうまくいかない。
ただ、一つだけ決定的に違うことがある。社会というやつは、可能性を予想して行動する。可能性があまりにも低ければ、それは諦めや妥協という形を伴って別のモノへと変化する。けれどもゴール裏の僕らは(少なくとも僕は)可能性というものが存在するのならば、それに賭ける。弱い自分も強気な自分も全て認めて、その中にわずかにでも残った可能性を手にするために、あがいている。それは端から見ればどうしようもなく愚かで馬鹿な行為ではあるだろうけれども、今の僕にはそれしか出来ないし、それを信じる以外に方法はない。

しょうがないじゃん、僕は札幌馬鹿なんだから。
試合の翌日、がらんとした大阪港を歩きながら、そんな事を考えた。
 
「われわれの持っている力は意志よりも大きい。だから事を不可能だときめこむのは、往々にして自分自身に対する言い逃れなのだ。」(ラ・ロシュフコー)
 
僕はこの言葉を信じる。信じて、可能性を信じて、自分を信じて、日々を過ごす。
 

※ラ・ロシュフコーの言葉は『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳・岩波文庫)による。

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2008年03月12日

CONSAISM clasics #30

clasics #30、いよいよせっぱ詰まってまいりましたという02年シーズン終盤の話。
文章にもかなり危機感が増してきております。


思い出したくもない。
打ちのめされた。
末期症状。
涙も枯れ果てた。
 
そんな言葉が埋める札幌関係のネット。電話越しの友人の声。メールで近況を伝えてくれた古いゴール裏仲間の言葉。もう既にみんな「諦めモード」にはいりつつある。否、どっぷりとはまりこんでいる。
いつからか一戦ごとに、選手から集中力が抜けていくのが見えて来るようになった。ゴールが決まらないことを当たり前のこととして受け入れるようになった。勝てないことを芝のせいにした、言い訳めいた戯言しか聞こえてこなくなった。
どんどん選手と僕らとの壁が高くなり、溝が深くなっているような感覚が毎日訪れ、そしてその深さと高さは毎日大きくなっている。
 
会社の中でもそういう話になることが、たまにある。「札幌はもうダメだな」「いつ2部に落ちるの?」と言われる。ただ自分は黙ってその言葉を受け入れるだけだけど、裏側には煮えたぎるのを感情がある。
そういうことを言う奴は誰だ。
俺の札幌を糞味噌に言う奴は誰だ。
正直怒鳴り散らして、殴り飛ばしてやりたい気持ちがあるのだけれど、その原因はやはり札幌自身に帰結する。だから気持ちの持って行き所がない。自分自身に溜め込むしか出来ない。そうして再びはまりこむ泥沼。サッカーを発明したやつを一瞬憎む。
 
そして今、現在の自分自身の心の中は、諦めと反抗が拮抗してせめぎ合っている状態。片方の僕は「もうどーでもいいよ」と足を投げ出し、もう片方は「最後の最後まで勝負を捨てない」と固く決意している。たぶん、どちらも正しい感情だと思う。そしてたぶん、僕のとる行動は後者なのだとも頭のどこかでわかっている。どうせやるなら最後まで応援していたい。文句や涙はそのあとに付随して来ればいい。願わくば涙なんて流さなくて良いようにしたい。僕は札幌に関しては、そういうタイプの人間だ。
 
札幌がたとえ2部に落ちたとしても観客は厚別に1万人程度はコンスタントに入るだろうし、僕は僕でいろんなアウェイの試合に行くだろう。でも、それは「サッカーがある」から行くのではない。「札幌のサッカーがある」からそこに行くのだ。面白いサッカーなんて世界中のどこにでも転がっている。テレビでヨーロッパのどこかのリーグ戦でも見ていればいい。そしてワールドクラスの美技に歓声を上げていればいい。けれども僕が望むのは、どんなに泥臭くても走り続ける札幌の姿なのだ。あるいは、そのプレーの一瞬なのだ。それをただこの目に焼き付けたいから、語りたいから行くのだ。それを望んでいるから、声を張り上げて歌うのだ。
 
もしも僕がずっとずっと歳を取ってこの年の札幌のことを「何もない、ただ負けていった年だった」などとは言いたくない。「それでも立ち向かおうとしていた、少なくともその姿は僕には見えた」と、未来の僕に言わせて欲しい。
 
だから。
 
せめて、運命に諾々と流される姿だけは見せないで欲しい。それでももがいてあがいて苦しんで、どうしようもなくなったときにしか現実を受け入れないで欲しい。身勝手で我が儘な感情論だと思うけれども、僕はそう思っているし、そのために僕自身に出来ることを厭わない。
 
自らを信じて、運命に抗うその姿が、僕の今一番見たい札幌の姿なのだ。

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