2008年03月22日

CONSAISM clasics #33

clasics #33ということでした。
がっかりとか脱力とかそんな感じの回です。


仙台でのアウェー戦で、とりあえず個人的には今年のリーグ戦は終了した。
最後は結局3月の広島や高知で見たあの札幌に戻ってしまっていて、良いところはまったくもって見られないまま試合終了になった。ただ、試合が終わったときに感じる気持ちが「失望」や「悔しさ」から「いつものことだ」「またかよ」になっただけで、それはそれで悲しいものがあるけれども。
今年を見直して、これほどもどかしいシーズンは無かったのではないかと思っている。それはチームのことであり、自分たちの応援のことであり、またその二つの相互作用的なものであったりする。チームは悪いながらも何とかしたいと思っているところは見受けられたし、自分自身もそれに応えるべく応援をしてきたつもりだけれども、そういう気持ちは負けがこむたびにどんどん薄れていってしまうのが傍目にもわかってきて、そうなるともう目先の一つ一つのプレイを追いかけて、それを原動力として応援していくことしか出来なくなる。そして仙台では、その最後の原動力であった個人の頑張りさえもどこかに忘れてしまっていたかのようなプレイを見て、試合終了後も何と言っていいかわからずに途方に暮れてしまった。今までは途方に暮れたら暮れたでそれなりに何か選手に叫んだりコールをしたりしたのだけれど、今回ばかりはなにも言うことが見つからなかった。
 
こうして途方に暮れたり徒労感に支配されるのには、応援しているのに選手がそれに応えてくれない、もしくはその逆だったりという理由があると思う。でもそれはどっちが悪いという問題ではなくて言ってしまえばどっちもどっち、目くそ鼻くそを笑うような問題だろう。自分たちの伝えたいことを応援という形で具体化できなかったこっちもこっちであり、気持ちを伝えるプレイを見せてくれなかった、勝ちたいという気持ちが見えなかった選手も選手であるとは思う。ただ一つだけ共通して見えていたのは、どちらも悩んでいて、それぞれの悩みはどちら側が手を差し伸べても解決できないということだった。例えるならば数学の近似曲線のように、ちょっと近づいたりちょっと離れたりしながらも同調することなど一度もなく、互いに似たような下降線を描いていたようなものだと思う。互いが互いの気持ちを理解しようとする時間も意識も降格という眼前の危機に逸らされて、全てを曖昧にうやむやにしてしまったままここまで来てしまった、そんな感じがする。
 
だから今やらなければならないことは、それぞれがそれぞれに何をしなければいけなかったのか、何が出来て何が出来なかったのかを改めてきちんと再確認する事だと思う。それは個人としての再確認でもあり、チーム、サポーター、経営陣全てとしての再確認でもある。そうして出来ることからまた始めればいい。性急に何かを求めようとしてそれが現実のものとなることはまず無いと今年学んだのだから。
 
サッカーは人生のようでもあり、人生がサッカーのようであるとも言えるのは昔から誰もが言ってきたことだが、まさに今はそれを体現してしまっている(ただし悪い形で)。良いときもあれば悪いときもあるというのはどの世界でも誰の人生でもあることで、大事なのはそれをどう受け止め、どうすればいいのかを考えることだと思う。何もサッカーに限ったことではない。
だから来年のために、未来のために、自分のために、チームのために、これからのことを考え、それをしかるべき行動に移すこと。自戒を含めて、まずそれが大事だと自覚することから、全てはリスタートするのだろう。

posted by retreat |21:16 | classics | コメント(0) | トラックバック(0)

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