2008年04月27日

CONSAISM clasics #44

clasics #44、なんか斜めに構えているっていうか何というか、な回。


J2のリーグ戦が半分終わった7月の初めから半ばの中断期間。J1ではここ数年よりはずっと面白い(少なくとも鹿島か磐田かの二択ではないので)優勝争いが繰り広げられていて、試合がBSで放送されているものであれば片っ端から観ていた。鹿島と磐田のいわゆる「2強」がそれぞれにどこか不安定な戦い振りを見せていることもこの混戦のひとつの要因だろうけど、オシム監督のもとに鍛えられた市原の試合がとにかく面白い。走って走って走って奪って奪って奪ってスペースに走る。村井が坂本が阿部がクロスをどんどんと上げてそれをまたチェ・ヨンスがばしばしと決めていく。一見したら体育会系なシンプルさだけど、そこに元から市原に見られた技術の高さが組み合わさってそれがまた相乗効果を産んで、どこか学者然として何をしでかすかわからないようなオシム監督の表情と相まって僕のフットボール的好奇心を膨らませる。ちなみにこの原稿を書いているのは磐田対市原戦の直後、チェ・ヨンスがヴァンズワムをあざ笑うかのようにふわっと浮かせたPKの余韻がまだありありと残っているぐらいの時間だ。タフで締まったいい試合だった、と思う。

さて、そうすると札幌の試合がなかったこの2週間ほど僕は何をしていたのかというと、相変わらず本を読んでばかりいた。なにしろ自分自身で憶えている最初の自分が「畳の上に寝転がって絵本を読む自分(当時2歳)」くらいなので、ほぼ生まれた頃からずっとなにかの文字を読むことに時間をかけてきて、例え財産が無くても本にかけるお金には糸目はつけないというのがもう自分の中でひとつのルールにされてしまっている。どうしても糸目どころか糸くずも見つからないときは父の書棚をひっくり返してよくわからないながらも何か文字を目で追い、それでもなければ新聞を隅から隅まで、それこそ株価の欄に至るまで読むような子供だった。今思い返すと嫌な子供だとつくづく思う。

どうしてそこまで本を読むこと(文字を読むこと)が好きだったのかというと、文字というひとつの定まったスタイルから拾い上げた情報だけを使って、そこにある情景や物語、あるいは100年も1000年も先の世界、そして今いるこの世界とは全く異なる別の世界を想像することができたからだった。知らない言葉は調べて覚えて、文章の使いまわしに感嘆したり難渋したりしながら読み進め、そこからしだいしだいに浮かび上がってくる世界やその世界を作り上げた作者の掌まで想像し、僕の頭の中に創造されていくのがとても好きだった。そうやって本を読み続けて20年以上、たまった知識は多いだろうけれどもほとんどは今テレビでやってるアレ、「トリビア」だったりもする。でもまあそれでも楽しいからいいんだけど。ちなみに僕はあんまりマンガは読まない。なぜかというとそこには言葉以外に「絵」というものがあるので、それが存在することによって僕自身の創造できる「世界」がどうしてもその絵に規定されてしまうからだ。それでも読むマンガがあったならば、それは僕がものすごく好きな絵を描く人であったり、マンガでしかできない表現があったりするからだったりする。しかしこうして本ばかり読んできたせいで、僕はその世界に結構引きずり込まれてしまってリアルの世界ではなかなか人付き合いが苦手だったりとっつきにくいやつだと思われているようで僕自身もそれを痛感している。とりあえず思ったことをきちんと相手の顔を見て伝えるということはとても大事だとしきりに思うこのごろ。

じゃあ自分はただの本オタクで引きこもりがちなヤツなのかと言われればまあ否定はできないのだけれども、本を読むということで国語の成績はよかったということ以外にとりあえず身に付いたのは「ものごとを読み取ろうとすること」だ。ある文章を読んでそこにある風景や心情や作者のほんとうに言いたいことを読み取ろうとその文章の中にある世界を類推し、理解しようとする。そのことをずっと意識していたおかげでリアルの世界においてもそういう力(というか癖、なのかも)がついた。文章でなくても、目の前の出来事でも人の発したひと言であってもそういうことをまず第一に考える。その物事が行われている背景には、必ずそうせざるを得ない「状況」や「理由」があると思うからだ。例えそれが「なんとなく」という理由であっても、言い換えてしまえば「本能」といってしまうこともできるし、そういう「本能」が生まれた要因というのは必ず存在すると思って今まで僕はそうやって物事を考えてきた。そしてフットボールもやっぱりそういう風に観るようになっていた。例えば左サイドのスペースに出された一本のパスにしたって、そこにスペースが生まれたのは中央なり右サイドなりで相手の注意をひきつける動きがあったからこそだし、そこにパスが出されたのは味方がそのスペースに動いていってパスを受けチャンスを作り出す動きを戦術的なものとして叩き込まれているから、はたまたさっきの「本能」的なものであれ予測されてのものであって(「苦しまぎれ」という理由もたまにある)、そこにボールが出てフィールドでどういう変化が起こるのか、つまりゴールを生み出すためにどうするべきなのかというのをプレイヤーも監督も考えているからこそのパス一本、トラップひとつなのであって、やはり僕が考えて行き着くところは「フットボールというのはかくも考えさせられるスポーツなのか」ということなのだ。そうして味方のことを考え、自分のことを考え、敵のことを考え、その結果行き着いたボールの流れを見てまた僕はそれぞれのことを考える。そのボールの行き着く先と、そのボールの交差によってフィールドに描き出される世界を。そうして絶対にどう考えてもだれに聞いても「わからない」という答えしかでないプレーやゴールを見ることがある。そこがまた僕の好奇心を刺激して、また深くフットボールにのめりこんでいく。答えの出ないミステリを読んでいるような、結果があって理由をどうしても導き出せない戯言だらけの推理小説のような、そんなところが面白いのだと思う。このフットボールというものはまだまだ僕なんかの想像力が及びもつかないところがいっぱいあるし、多分その量は増えこそすれ減らないだろう。どうやらこの「フットボール」という名の本はまだまだ読み終われそうにない。

posted by retreat |22:16 | classics | コメント(0) | トラックバック(1)

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