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2007年12月28日

aftertalk #6

clasics #6をお届けしました。

これ書いてた時は社会人1年目だったのかと今更ながらにびっくりして、そして文章の青さにまた今更ながらにびっくりした。青臭いのは変わってないのかもしれないけど。そしてここで書いた内容については、自分の考えは今でも変わっていない。

結果と過程どっちが大事かっていうのをテーマにして書いているけど、どちらが重要かなんてのはその都度変わるものだよなあと思う。企業活動の中でも、新規に何かを立ち上げるときは過程を経験として蓄積することが大事だろうし、そのあとに結果を求める時がくる、ということもある。もちろんその逆もある。自分と自分の周囲が置かれている立場によってころころ変わる、その中でバランスをとっていくのが大事だし、結果ばかりを求められて生きていくのはしんどい。かといって過程だけを評価されるのも寂しい。大きく言ってしまえば人間のサガみたいなものなんだろうか。

論理と非論理の話だって、岡田さんも三浦さんもリアリズム重視の戦術ではあったけれど、その人間像からかいま見える中身を覗いてみればそれ以上に夢追い人というか理想像があって、そういうものを追い続けていられるからこそフットボールは面白いんだと思う。プレーの中でも論理的なものがあるし、センスという呼び方でしか言い表すことのできないプレーもある。それが良い。仕事で巻き込まれる非論理はごめんだけど。

こういうことを考えいる自分は良く言えば論理的で、悪く言えば理屈っぽいなあと思う。昔からそうだったし、今も未来においても変わることはないんだろうとも思う。だいたいのことが論理で片がつくと思っていたし、片をつけてきた。論理がなければ意味はないと思ってずっとやってきた。でもそれは言語的な「論理」の話で、肉体的行動や、瞬間的なものにも「論理」があると気づかされたのはフットボールを生で見始めてからのことだ。感情を表すという「論理」も、自分には長いことピンと来なかった。人間はシナプスから流れる微少なプラスとマイナスの電流で生きるデジタルな生き物だと知ったときに、ある程度そういうのは理解できるようになったと同時に、感情を表に出すのはそういう論理的でデジタルな思考回路を表現しているひとつの方法なんだと思うようになった。どうしてそういう表現になるのか、と戸惑ったこともあったけど。

なんて考える自分は、相当に理屈っぽい人間なんだなあ。

posted by retreat |23:09 | aftertalk | コメント(0) | トラックバック(0)