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2007年12月27日

CONSAISM clasics #6

年の瀬ですが第6回。今回は当時の仕事から「結果と過程」の話。


今ではどこの会社でも珍しくないと思いますが、僕の勤める会社にも能力評価制度があります。一定の期間ごとに個人の目標と部署の目標を定め、達成したかしていないかという判断を元に給与が決まる、というやつです。
僕自身も新入社員ではありますが一応この制度の対象ではあるわけで、個人の目標や売上目標をシートに記入し、評価を行いました。

その評価の席でのこと。
僕と上司の二人で評価を見ているときには、上司は
「おまえの立てた目標は〇〇で、これは達成していないな?」
「はい」
「それじゃ、未達成だな」
でも、と言いかけた僕を制して上司は一言。
「過程がどうあろうと、出来ていないものは出来ていない。おまえがいくら頑張ったとしても、未達成は未達成だ」
企業は利潤を追求する以上、結果をまず第一に求めるのは当たり前の事ですが、この事実を改めて実感した出来事でした。
 
会社から帰ってきて、それではサッカーはどうだろうか、とふと思いました。
結果か過程か、どちらかを重視するのは人それぞれの観戦姿勢によりますが、僕は負けたからと言ってそれだけを理由に怒る事はないし、勝ったからといって内容がひどい場合はすっきりした気持ちで帰れない事もあります。それでもどちらかを選ぶならば、やや「結果」に傾くかもしれません。今年の札幌はまず勝ち点をとって残留する、という至上命題があったということもあるのですが。
それでもサッカーというものは、ゼロか1かというデジタルな割り切り方では決して語ることの出来ないものだと思います。そこにはデジタルでは決して表現できないアナログ的な過程や要素が必ず関わっているし、そもそもサッカーがそういった論理で割り切れるのであればサポートの意味なんて全くの無用なのですから。
 
たとえば選手がパスを出すとします。右に出すか左に蹴るか後ろに戻すかそれとも思い切って前線に放り込むか、といった選択は、ボールを出す方向という意味においてはデジタルで論理的な選択の結果ですし、そのボールの動きは論理の重なりであるからつまりはその最終目的地、すなわちゴールは結果であると言うことも出来ます。しかし、そこに至るまでにはボールの動きという本質の他に芝の長さや風向きや観客の歓声、その時にゴール裏で歌われている歌の種類や諸々のものが入り交じった「雰囲気」によって動くものであると思います。さらに言うならば、先ほど述べた「ボールの動き」だって、トラップの場所と角度やボールを蹴る足の位置、他の選手の動き、パススピードに判断力、すべてが一人の選手の足下から分岐するのであって、非論理である要素も十分併せ持っていると思います。
つまりサッカーは論理と非論理のごちゃ混ぜの世界であり、そこには無限の過程と結果があるということです。そして、その過程と結果のバランスの判断は個人の裁量にまかされていて、それこそがサッカーの魅力なのだと思っています。
 
そして、僕が今結果を求める企業社会の一員として曲がりなりにもいる以上、僕は結果や論理と同じくらい、過程や非論理にもこだわっていたいのです。結果と論理だけの社会の中で生活するのはとても息苦しいでしょうし、つまらないでしょう。けれども、サッカーにはそれをうち破るほどの過程と非論理が存在し、それは再び結果という事実になって自分に帰ってくる。そんな堂々巡りに惑わされることがどうしようもなく楽しくて、僕はこれからもサッカーを見て、札幌を応援して、ほんのわずかでもスタジアムでの一存在としてありたいと、そう思うのです。
 
 

posted by retreat |23:59 | classics | コメント(0) | トラックバック(0)