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2006年11月12日

小倉隆史



「レフティーモンスター」ことオグちゃんがコンサ戦士となったのはJ1だった2002年シーズンでした。高校時代から注目され、名古屋グランパスなどで活躍、日本代表FWとしても期待されながら、靱帯断裂など大けがに泣いてきた選手。コンサドーレへの入団が決まったときは、「けがはもう大丈夫なのか」という不安もありましたが、ウィルの抜けた後だったので「すごい選手が来る」と期待が膨らみました。シーズンが始まってみると、けがはすっかり癒えていたようで、主力として活躍。FWとしては前線で張るよりも、すぐに下がってボールを受ける1・5列目の選手だったようです。確かに運動量では物足りなかったのですが、ときおり繰り出すトリッキーなパスは相手選手だけでなく、味方選手も合わせられないことが多かったのがご愛敬でした。喜怒哀楽が顔にはっきり表れるタイプで、ゴールを決めたときの笑顔は見ている者もうれしくさせてくれました。確かこの年のJリーグオールスターにコンサからただ1人東軍に出場、先制ゴールを決めました。ただし、MVPは2点目を決めた元コンサのエメルソン(当時浦和)にさらわれ、テレビの前で悔しかったのを覚えています。

結局、コンサでは27試合出場、7得点。最下位でJ2降格が決まったシーズンで、チーム得点王でした。当然、1年でのJ1復帰を目指して小倉には翌年も活躍してもらいたかったのですが、確か最終戦を終えてのインタビューで「男として許せないことがある」と発言、すでに次期監督に内定していたジョアン・カルロスとの確執を示唆し、退団してしまいました。中には「J2が嫌なのでは」との見方もありましたが、翌年途中からJ2の甲府へ入団。それから3シーズンを甲府で過ごし、J1昇格へチーム力向上に貢献しました。コンサとの対戦でも活躍し、痛い思いをしましたが、どこか憎めない選手でした。

05年シーズン限りで甲府から戦力外となり、選手続行を希望したようですが、結局、現役を引退。甲府のJ1初試合で引退セレモニーが行われました。その後はスーパーサッカー(TBS)などで解説者(レポーター?)として活躍、ドイツワールドカップにも派遣されていましたね。10月21日のOB戦に、ぜひとも来てほしかった1人でした。オグちゃん、商売も大事だろうけど、かつてのファンにも顔を見せてよ、と思ったのは内緒です。

写真のカードは上段左端がJカード、右2枚はカルビー(右端はオールスター)、下段左端がイレブンスターズ、右3枚はパーフェクトイレブン(右端は同じくオールスター)です。


posted by papa12 |18:58 | 思い出の選手 | コメント(5) |

2006年10月09日

播戸竜二



今が旬のバンちゃんです。10月4日のガーナ戦で日本代表デビュー、それも流血しながら頭にテーピングして出続けたガッツの男です。

コンサドーレに入団したのはJ2だった2000年シーズン。吉原宏太がレンタル移籍したガンバ大阪からトレードの格好で出場機会を求めてやってきました。この前年、U-20日本代表としてワールドユース準優勝のメンバーだったそうですが、私は活躍をよく知りませんでした。それでもエメルソンとの2トップで得点を量産。開幕戦で先制点を挙げながら骨折するというアクシデントもありながら30試合15得点と活躍し、J1昇格に貢献しました。プレー自体はうまいというよりも、気持ち、気迫を前面に出すタイプ。コテコテの関西弁で、やんちゃな兄ちゃんというキャラクターでした。エメが唯我独尊でほとんどパスを回さないなかでのこの得点はたいしたものです。J1に上がった翌01年はエメが抜けた後、ウィルと組んで27試合9得点。忘れられないのは、どの試合かは不明ですが、確か右サイドからの角度45度のFKをウィルがけり、バンちゃんはそれをヘディングで入れたように見えました。公式記録も播戸の得点となりましたが、あとでビデオを見直したら、どう見てもかすってもおらず、ウィルのFKが直接入ったようでした。それでも自分が決めたとアピールするのがFWですね。

岡田監督が去り、バンちゃんもレンタルでしたので、コンサが移籍金を払えなかったためか、01年シーズン終了とともに神戸へ移籍。04年には17得点でJ1得点ランキング3位に。J2降格の神戸を退団し、今季から古巣のガンバ大阪に戻り、10月9日現在、リーグ4位の15得点と大活躍中です。現在のコンサ戦士たちはどちらかというと、淡泊というか、プレー中にもあまり声が出ず、おとなしいタイプが多い気がします。ぜひともバンちゃんのように気迫でゴールにねじ込む点を学んでほしいと思います。とりわけFW陣は。

写真のカードは上段がJカード、下段左がカルビー、右がイレブンスターズです。


posted by papa12 |19:43 | 思い出の選手 | コメント(6) |

2006年08月21日

森下仁志



日本代表のオシム監督のキーワードは「走る」ことのようです。コンサドーレで「走る」ということで思い浮かぶ選手が森下です。J1時代の2001年7月、ガンバ大阪からレンタルで移籍してきました。GK以外ならどこでもできるユーティリティープレイヤーで、確か手薄な右サイドの補強ということでしたが、コンサでは主にボランチを務めました。決してうまい選手ではありませんでしたが、驚くのはその無尽蔵の運動量です。サッカー選手としては驚異的な持久力だったのではないでしょうか。キックオフから後半ロスタイムまで、とにかく細い体で走り回っていた印象が強いです。この年は13試合出場、無得点でした。その風貌からか、ひそかに「板長」の愛称で呼ばれました。
翌02年、完全移籍し、キャプテンになります。しかし、この年は監督解任が続き、チームが崩壊。最下位でJ2降格が決まる、つらいシーズンでした。29試合出場、2得点。そしてJ2に落ちた03年もキャプテンを続けましたが、この年も監督交代とチーム崩壊。悲劇のキャプテンとなりました。この年は37試合出場、1得点。ゴールを決めたのは7月5日の厚別での鳥栖戦。ゴール前のオフサイドっぽい位置にいた森下に浮き球のバスが渡り、胸でトラップするとボレーでたたき込むビューティフルゴールだったと記憶しています。

この年のオフ、意外なことに、なぜかジュビロ磐田から獲得のオファーがあり、前年途中から磐田に移籍していた佐藤洋平とともにJ1の舞台に戻るのでした。04年はほとんどカップ戦や時間稼ぎ要員で、リーグ戦は9試合出場、無得点。05年はついに出場しないまま、現役を引退しました。今年から磐田のユースのコーチを務めているはずです。

どの試合でか忘れましたが、すでに敗色濃厚となり、コンサ選手の足も止まったなか、ただ一人、最後までボールを追い続けた姿は忘れられません。ただし、この姿にはヤジが飛び、某掲示板などでは「無駄走り」「モリゲ」などと揶揄されたりしたものです。しかし、私は孤高のキャプテンの姿が目に焼き付いています。オシム監督就任であらためて注目されている「走る」。アクション&ムービングを掲げる柳下コンサドーレでも基本中の基本です。孤高のキャプテンは再評価されるべきだと思っています。

写真のカードは上段左2枚がJカード、右2枚はカルビー。下段左2枚はイレブンスターズ、右1枚はパーフェクトイレブンです。


posted by papa12 |18:53 | 思い出の選手 | コメント(8) |

2006年06月25日

野々村芳和



愛称は「ノノ」さん。主にボランチを務めた頭脳的なMFでした。岡田コンサドーレ2年目の2000年に岡田監督に請われてジェフ市原から移籍、J2で36試合2得点、J1の翌01年は22試合無得点。決して華麗なプレーをする選手ではありませんでしたが、チームの攻守のバランスを取るのがうまかったように思います。何と言っても、先週書いたビジュとのダブルボランチでは、自らが汗をかくよりも、ビジュを上手に操縦していた印象が強いですね。サポの間では密かに「猛獣使い」とも呼ばれていました。そういえば、00年第20節の水戸戦で野々村のFKにビジュが頭で合わせ2点目を取った後、3点目を野々村が押し込むと、ビジュが野々村の足をひざに乗せて靴磨きのパフォーマンスがありました。これには後日談があり、石屋製菓様がオフに制作したCMに野々村が元モデルの奥様と出演、野々村にサッカーボールをぶつけて夫婦2人の抱擁のきっかけをつくったビジュに野々村が靴磨きをするという落ちがありました。本当にいいコンビでした。

そして特筆すべきはそのキャプテンシーでしょう。清水東高でも慶応大でもサッカー部主将。コンサでも入団した年に副キャプテンとなり、J1に上がった01年はキャプテンとしてチームを統率しました。コンサがゴールを決めると、喜びの輪に必ず加わっていましたね。思い出すのは00年第29節の湘南戦で播戸を倒した相手DFに頭突きし1発レッドで退場。出場停止明けには自慢の長髪をばっさり丸刈りにして現れ、責任感の強さを感じさせました。

コンサで最も幸せな2年間に活躍し、サポの心をわしづかみにした(今で言うイケメンですから女性ファンが特に多かったですね)のですが、01年はけがもあってか、シーズン終了後に戦力外通告。本人も悩んだようですが、サポに本当に惜しまれながら現役を引退。一応HFC強化部に籍を置きながら、その後のテレビなどでの活躍は皆さんご存じの通り。現在はスカパーのJリーグナイトの司会者や試合中継の解説者などを務めています。確か指導者のライセンスも取得中だったはずですので、できることならぜひコンサの監督に戻ってきてほしいと願っています。

写真のカードは上段3枚がJカード、下はイレブンスターズです。


posted by papa12 |18:29 | 思い出の選手 | コメント(4) |

2006年06月18日

ビジュ



コンサ史上、最も記憶に残る外国人選手というと、私の場合はビジュです。岡田コンサドーレの1年目、1999年にクレーベル退団後に途中入団。主にボランチを務めました。ブラジル人選手にしては華麗なプレーではありませんでした。むしろ技術的には下手。でも、無尽蔵のエネルギーと丈夫な体が売り物で、少々ぶつかっても平気でした。確かほお骨を折って、宮本のようなフェイスガードをつけて出場したこともありました。ただ、ややプレーは荒っぽく、よくファウルで相手選手をつぶしていたものです。逆にファウルされると、すごく痛がるのですが、相手にイエローカードが出た途端、元気に立ち上がって走っていたイメージがあります。とにかく見ていて飽きない、お茶目さんでした。通算成績は99-2000年のJ2で52試合8得点、01-02年のJ1で50試合2得点。決してうまい選手ではなかったので、コーナーキックなどからのこぼれ球をスタンドに打ち込む「宇宙開発」が印象に残っています。特に01年にJ2に落ちた浦和には相性がいいのか、決勝点を決めるなど大活躍し、シーズン後に浦和からオファーがあったとの噂がありました。真偽は知りませんが。

02年シーズン終了とともに戦力外となってチームを去りました。直後に札幌の女性と結婚したとの噂を聞いただけに、本当に残念でした。4年近くいたわけですから、おそらく外国人選手で最も在籍期間が長かったと思います。ところが、もう会えないと思っていたら、何と翌03年、J1の京都に途中入団し、13試合1得点。翌04年は京都がJ2に落ち、同じリーグで戦いました。14試合1得点で途中退団して再び日本からいなくなりました。05年は鳥栖に所属し、22試合2得点。センターバックまで務める姿にビックリしました。鳥栖を戦力外となりましたが、何と今年はJ1に昇格した甲府に。日刊スポーツの出しているプレイヤーズ名鑑によると、年俸が何と2000万円。確かコンサにいたときは1000万円足らずと報じられていたはずですから、出世したものです。今年で32歳になりますが、いつまでも丈夫で長持ちで活躍してほしいと願っています。

写真のカードは上段左3枚がJカード、右端はカルビー。下段左2枚はイレブンスターズ、右2枚はパーフェクトイレブンです。アッカンベーでもしているような表情はいかにもビジュらしいですね。


posted by papa12 |20:31 | 思い出の選手 | コメント(1) |

2006年06月04日

アシス



1999年に所属したアシスは今をときめくロナウジーニョの兄ちゃんです。先週の日曜にNHKで放送された「W杯への挑戦」(昨日、BSで再放送されました)でロナウジーニョが取り上げられ、そこに「代理人の兄ロベルトさん」として登場しました。「選手としてブラジルとヨーロッパ、日本のJリーグ、コンサドーレ札幌でも活躍しました」と紹介されていました。ちょっとうれしかったですね。懐かしいので、今回急きょ取り上げることにしました。
コンサにいた現役当時も171センチ、70キロとがっちりした方でしたが、テレビでは少し太ったようでした。あのマラドーナの弟のマラドーナが前年限りで退団した後の司令塔としてJ2に落ちたチームの再建を期待され、10番を背負いました。生観戦する機会がなかったのですが、テレビで見た感じでは(外国人助っ人にしては)さぼらず、なかなかまじめな選手だった印象です。記憶に残っているのは、確か右45度の角度から蹴ったFKを相当な距離があったにもかかわらず直接ゴールに決め、本人もよほどうれしかったのか、両手を高く広げて誇らしげにしていたシーンを思い出します。

ただ、この年の外国人助っ人はリカルジーニョ、クレーベル、ジネイと「外れ」ばかり。アシスは出場29試合、8得点ですから、攻撃的MFとしてはまずまずだったと思いますが、結局、高額年俸などもあって1年で去りました。ちなみにこの年、途中入団したビジュは2002年までコンサに生き残ります。知人との間で当時、アシスの弟のことが話題になり、「年代別のブラジル代表らしいぞ。兄のつてでコンサに来ないかな」と冗談で話していました。その後、ブレイクしたロナウジーニョを見て、本当にびっくりしました。あの時、アシスを引き留めていたらもしかすると、と思わずにはいられません。

写真のカードはコンサに来る前に所属したアマドーラ(ポルトガル)時代のパニーニ社製です(外国のカードはよくわかりませんが)。コンサ時代のカードはありません。


posted by papa12 |16:27 | 思い出の選手 | コメント(1) |

2006年05月26日

黄川田賢司



亜細亜大時代は大学サッカー界の大型FWと鳴らし、コンサにはJFLだった1997年入団。黄川田といえば、ヘディングです。JFLの97年8試合無得点、Jリーグの98年20試合1得点、J2の99年21試合無得点、2000年30試合5得点、J1の01年13試合無得点。
身長179㌢ですから、電柱系FWというほど特別大きかった訳ではありませんが、私の印象では、スーパーサブとして試合途中から投入され、恵まれた身体能力を生かしてヘディングシュートを決めた姿が脳裏に焼き付いています。後ろにのけぞりながら長い滞空時間で高い打点から入れたゴールがありました。とても難しいプレーだったと思います。逆に足で決めたゴールもあったのでしょうが、まったく記憶がありません(笑)。何といっても思い浮かぶのは頭ですね。コンサには外国人助っ人を含め多くのFWが来て、そして去って行きましたが、ヘディングシュートのうまさだけなら黄川田が1番だったのではないか、とひそかに思っています。黄川田以前には万能型のバルデス、現在ならDFの曽田(元FW)、池内が比較的ヘッドに強い選手がいますが、最近はFWにそういう選手がいませんね。

01年シーズン限りでコンサを戦力外となり、02年からJ2の川崎フロンターレへ。その年34試合2得点、翌03年途中(5試合無得点)で現役を引退しました。そんな彼の名前を再び見たのは04年のロビンソン札幌屋上のフットサル場オープンの時。フットサル場を管理・運営するイベント企画会社の社員となり、札幌に戻ってきてくれたのでした。北海道出身じゃなく、しかも別なチームで引退した選手が帰ってきてくれるのはうれしいものですね。聞いたことはありませんが、札幌のFM局でDJも務めました。05年には北海道リーグのベアフット北海道に所属し、再びピッチに立ったようです。その後の動静は耳にしていませんが、どんな活躍をしてくれているのでしょうか。
なお、余談ですが、今年3月まで放送していたNHK連続テレビ小説「風のハルカ」に出演し、現在、野菜ジュースのCMに出ている黄川田将也は実弟です。「風のハルカ」放送中に私がネットで情報を見つけて教えると、わが家は大騒ぎになりました。なんとアホな一家でしょうか。

カードの上段はJカード、下段左はカルビー、右はイレブンスターズです。


posted by papa12 |22:14 | 思い出の選手 | コメント(4) |

2006年05月04日

梶野智



セレッソ大阪からの移籍で1998年に入団。「ヒゲカジ」の愛称で親しまれました。コンサでは主にボランチやセンターバックを務めました。決してテクニック的にうまいタイプではなく、どちらかというと縁の下の汗かきタイプでした。98年のJリーグで23試合出場1得点、99年のJ2で26試合出場。私の印象では、リーダーシップがあり、チームのバランスを取るのがうまく、中盤の底で攻守の要を務めていたと思います。バランスが崩れ、失点した後に交代出場で入ると、妙にチームが安定した気がしています。さすがセレッソでキャプテンを務めた人物で、これぞベテランの力。3年目を迎えた柳下コンサドーレで欠けていた点で、今季のチームでは大塚に期待されている働きですね。そんな地味な存在ながら、サポーターには愛された選手であり、確か99年には似顔絵入りのTシャツなどヒゲカジグッズが売り出されました。まだグッズ欲に燃えていなかった私は買いませんでしたけど。

99年シーズンを最後に現役を引退。翌2000年からセレッソのサッカースクール担当に。04年からはチーム統括ディレクターとフロントの要職を務め、大森健作の移籍にも暗躍したものと疑われています。ぜひ今度は恩返しにいい選手をコンサに送り出してほしいものです。

写真のカードはいずれもセレッソ時代で、下段右から2枚がカルビー、ほかはJカードです。コンサ時代のカードはないようです。


posted by papa12 |23:37 | 思い出の選手 | コメント(3) |

2006年04月29日

関浩二



どんなに寒くても半袖姿の「熱い男」でした。
忘れられないのは1998年12月5日、そう室蘭でのJ1第3参入決定戦です。関はこの年の10月になって、入れ替え戦をにらんで獲得したFW。リーグ戦は4試合出場し、無得点。入れ替え戦はこの日も含め4試合とも出場しました。この日の室蘭は雪に見舞われ、私もスキーウエアを着込んでの観戦。その寒さの中で関は半袖でした。涙なくして語れない試合は福岡に0-3。試合終了の笛とともに号泣する関の姿は忘れられません。移籍してきたばかりなのに、こんなにチームを愛してくれていたのか、と感極まったものです。

翌99年、J2で25試合出場で6得点。残念ながらシーズン後、戦力外となり、チームを去りました。ストライカーとしては物足りなかったかもしれませんが、妙に記憶に残る選手でした。天皇杯は2年で5試合3得点と天皇杯男でもありました。コンサとの縁は続き、コンサドーレ退団情報によると、2003年にジュニアサッカースクールの指導者になり、04年からU-12のコーチを務めています。ぜひともあの「熱い気持ち」を未来のコンサを担う選手たちに注入してほしいと思っています。

写真のカードは左と中央がJカード、右がカルビー、いずれも平塚時代のものです。


posted by papa12 |11:45 | 思い出の選手 | コメント(0) |

2006年04月21日

深川友貴


コンサを初めて生観戦した1998年にセレッソ大阪から移籍してきたFWが深川友貴でした。当時、転勤で室蘭に住んでいた私は高校サッカーの影響でやはり室蘭大谷高出身者を応援していました。当時、コンサには道産子選手がまだ少なく、それだけに貴重な存在でした。ただ、吉原宏太ファンの娘ら家族に、深川を応援していると、「えーっ、シブすぎる」と言われたものです。コンサでは98年Jで24試合2得点、99年J2で36試合5得点、2000年J2で13試合1得点、01年J1で11試合無得点と、後半はけがに泣きました。戦力外となって02年に水戸でプレーして引退、03年からコンサユースU-18のコーチを務めています。
児玉社長のブログ「近未来のコンサ」によると、4月5日の草津戦で一時、道産子選手5人が同時に出場、さらにベンチに1人いました。コンサが文字通り北海道のチームになりつつあり、喜ばしいことだと思います。深川コーチには引き続き道産子選手をトップチームに送り続けるよう育ててほしいと願っています。

写真のカードは左が2001年Jカード、右は同年のイレブンスターズ。セレッソ時代にもカードになっていますが、コンサではこの2枚だけのようです。


posted by papa12 |22:47 | 思い出の選手 | コメント(6) |

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