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北海道から出発してどんどん西へ向かい 2018年はついに国外へ出てしまったが また西の端へ戻ってきた。 9歳、11歳、14歳、そしてhousanと いっしょに暮らしています。 このブログでは日々のつぶやきを 公開中。

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うれしい報せ

2009年02月24日

2007年の論文に学会賞をいただいた。
第一報を見たときにはあまりのうれしさになぜかhousanの名前を連呼してしまった。

考えてみれば、この論文、データを取ってから掲載までに7年。
hirakuちゃんなんてもう小学生!
かなりの粘り腰である。

でも途中でやめないで本当によかった。


周りに応援してくれる人がいることのありがたさを身にしみて感じさせてくれた論文でもある。
とにかくお礼を、と思い、メールをした。
そしてやっぱり一番感謝したいのはhousan。ありがとう。
家族の支えがなければきっと投げ出していたと思う。
(そして実際のところ、連名にすべきだったのではないだろうか。)

そう考えると、自分でとったんじゃなくて、とらせてもらったんだなぁ。
申し訳ない気持ちになる‥‥。
2本目。襟を正して臨もう。




しかし、ポチ研すごい打率だね。


post by mou3

16:07

研究 コメント(7)

暫定的に正しい価値/精神の人

2009年01月29日

今、仲間で新しい乳児テキストを書こうとしている。
その構想段階でつらつらと考えたことを少し。


3歳と0歳の子どもがいると言うと必ず、大変でしょう!と同情される。
あるいは、子育てはこうしなくちゃいけない、こんなことはしちゃいけない、最近の若い親は‥‥と言われる。

でも、雨の日に傘とかばんを持って、2カ月の赤ん坊をだっこし、2歳の子どもの手を引いてバスのなかで立っている母親には、誰も席を譲ってくれない。若い人も、年を取った人も、子育てを経験したであろうおばさんも。

こういうギャップが子育てを苦しくしているのではないかと思う。

1分1秒という単位で目の前のことに四苦八苦している親に「正しい」こと言っても、それが「正しい」がゆえに、親は受け入れられない。そんなこと親はもうとっくにわかっているのだ。
そうじゃなくて、今、その席を譲ってほしい、というのが親の本音だと思う。


子育ての漠然とした苦しさをまったく無くしてしまえるほど大きなことは言えない(し、言いたいとも思わない)。けれど、小さくてもポジティブになれるようなメッセージをその本で伝えられたら、と思う。






tomoの咳がなかなか治まらない。
結局、昨年末からずっと引きずっている気がする。
ここ1週間は、ほぼ毎晩夜泣きもある。
おそらくyoh-chanの病気と関係があるのだろう。
とても繊細なひとなのだ、彼女は。
子どものこころのメッセージはいつだってわかる。
本当はお菓子が食べたいのでも、テレビが見たいのでも、病気なのでもない。
一緒にあそびたいだけなのだ。

ママもパパも結構、君のためにがんばっているのだけど、ね。


post by mou3

14:20

研究 コメント(2)

実践者は言葉をもたないか?

2009年01月09日

「実践的研究とは何か」という文章を読み、また、今日たまたま、ある優れた保育者(現在は大学教員)の方にお会いしたこともあって、「実践」という言葉の意味について考えた。

実践とは、人間が何かを行動によって実行すること、という意味だけれど、「保育実践」とか「実践研究」などというとき、そこには必ず価値の問題が含まれる。特に保育実践は、特定の技術や知識の教授を目的とする教育とは異なり、生活そのものなので、その保育者の価値観や人間性が直接的に表れる。もちろん保育専門職としての知識や技術というものはあるし、それは保育者である限り身につけなければならないものだと思うけれど、でも、なんだかんだ言って、結局は、人間性だよね、と最近では思う。

だから保育者養成の中では特に「こういう保育者になってほしい」「こんなふうに子どもを見てほしい」という強いメッセージを発することが必要になってくるのだと思う。学生の人間性を養うと言ったらおおげさだろうか。

子どもをかわいいと思うとか、子どもの言動をおもしろいと感じるとか、子どもをひとつの人格をもった個として捉えるとか、子どものマイナスの側面も受け止めるとか‥‥そういうことは、そんなふうに思いなさい、感じなさいと言われてできるものではない。

では、どうしたらよいのか? やり方はいろいろあると思うが、そのひとつとして「文章の添削」があるのではないだろうか。前にも書いたけれど、言葉は思考の表れもしくは思考そのものなのだ。だから言葉を直す、文章を添削するというのは、思考(思想)を形成することにつながる。

保育者は「実践(身体を動かすこと)」が仕事なのだから、手遊びをいっぱい覚えたり、ピアノを弾けるようになればいいのであって、卒論なんて格好だけでいい、というのは間違いだと思う。むしろ卒論を通して考え、自らの思考を文字に表し、それを人に見てもらって何度も何度も書き直す、その過程で保育者としての人間性を養うことが大事なのではないだろうか。




tomo にお誕生日に何が食べたい?って聞いたら、
おにぎり
だって。




post by mou3

14:33

研究 コメント(0)

期限延長

2008年10月02日

博論提出の期限が延長された。あと数ヶ月→あと1年と5ヶ月へ。
審査の基準が下がることはありえず、そして今の時点ではそこまで到達していない、との判断からである。

課程博でとりたかったけど‥‥しょうがない。
博論なんて焦ってぎりぎりの状態で書くものでもないし。

しかし、期限延長といっても現実的スケジュールが延びたわけでは決してない。
せっかく書くモードに入っているのだし、特に非常勤の仕事が入っていないこれから2週間はがんばりどき、だと思う。
こんなふうに研究だけに集中できることは、この先二度とないだろう。
この貴重な時間をくれた家族に感謝、である。


post by mou3

16:42

研究 コメント(0)

ありがたい

2008年09月30日

無事、紀要の原稿を投稿できた。
締め切り直前だったにも関わらず副査の先生からは丁寧なコメントをいただいて、こんなふうに論文を読んでもらえるなんて本当にありがたいことだと、しみじみ思った。
若い頃は指摘のひとつひとつにへこんだものだが、今はそれらが貴重な意見と思える。
しかも「教育的に」意見を言ってもらえるなんて、本当に恵まれているのだ。

あと数カ月。
がんばるぞ。


post by mou3

17:04

研究 コメント(4)

帰名

2008年03月26日

名古屋に帰ってくることを帰名というのだろうか。
発達心理学会が終わった。
その前の週には札幌へ行き、直前には研究合宿もあり、それぞれへの準備もあり、怒濤の数週間が終わったという感じだ。


24日には妊婦検診へ行ってきた。
じんたろう(仮名)は過酷な移動にも耐え順調に大きくなっていた。
性別は足で隠れていてわからなかった。
わからないとなると知りたくなるのが人情。
次回が楽しみだ。

仕事に追われるストレスからか、ここのところ甘いものを食べすぎていたので(母親の)体重増加が心配だったが、微増、という感じだったので安心した。
この状態をキープしなければ。
tomoのときに比べて、食事に関しても添加物に気をつける以外全く制限をしていないので、こういう点でもじんたろうは顧みられていないと思う。

しかし、6月以降どんな生活が待っているのだろう。
想像を絶するというか、想像したくない、というか‥‥。
なるようにしかならないのだろうけれど多少の不安はおさえられない。



ところで学会の方はまぁまぁの成果だったのではないだろうか。
やっぱり研究を続けていきたいと思った。

共同注意に関しては国内での関心は「発達」から「臨床・応用」へ移ってしまったように感じた。
これまでだって、「発達」といっても出現の時期・順序の解明といったくらいの意味だったけれど、今となっては、もはや共同注意の通常・定型発達は自閉症児との比較もしくはチンパンジーとの比較といった文脈でしか話題にならない、と言っても過言ではないのではないか。
まさに、ブームは過ぎ去りし、といった感。
研究のトピックって「ブーム」なんかではないと思うのだけれど。

こういう時だからこそ自分の研究をきちんと形にしておかなければ、と思った。


post by mou3

17:35

研究 コメント(2)

白ごはん仮説

2007年12月17日

今日はとても寒い一日だった。
家の中でマフラーを巻いて仕事をしていた。


機会あってNさんとお昼をご一緒した。
豊富な臨床経験をおもちの方なので話を聞いていて勉強になることが多かった。
そのなかでこれまで自分なりの仮説だったことのひとつを少しだけ確かめることができた。
それは「白ごはん仮説」。
どんな形であれ発達に遅れの見られる子どもには一般的に偏食が多い。
特に「白いごはんしか食べません」という子どもが多いような気がするのだ。
また、遅れの指摘がない子どもであっても「白ごはんのみ」という子はちょっと神経質な気がする。
ただの経験則に過ぎない。
でもNさんの経験から言ってもこれはあながち的はずれではなかったようだ。

食事というのは五感の全てが使われる活動だ。
そう聞いて非常に納得した。
だから他の活動よりもその子どもの認知的特徴(弱さ)がはっきりと表れてしまうのだろう。


今日の会食では臨床の方ももっと勉強したいな、と刺激された。
来年あたりから某園で自閉症圏の子どもの共同注意行動に関して組織的な観察をしてみたいと考えている。


post by mou3

16:58

研究 コメント(4)

ふるまい

2007年06月18日

実験初日。

実験を組むのは実に修論以来だ。
実際にやってみると、ああそう、こんなんだった、と思い出してくる。

今回はnacchanが助手として活躍してくれたのでいろいろなことがスムースに進んだ。
nacchanありがとう。
前はほとんどひとりでやっていたから。孤独だったな。


そしてこれまでの実験と決定的に違ったのはお母さんと話をするのが本当に楽になったということ。乳児が対象の実験にはお母さんの協力が欠かせないのだが、どのくらい協力してもらえるかは実験者の対応にかかっている。今回は被験者募集も電話での日程決めも当日の進行も驚くほど楽にできた。
それは自分が母親になったから、母親的ふるまいが可能になったからだ。

学生のときは、母親であるという条件だけでつくられる集団に違和感を感じていたのだけれど自分もいつの間にかその中に入ってしまっていた。でもそのおかげで実験が楽にできるのだからこれに越したことはない。



最近「母」というのは恐ろしい存在だな、と思う。
全てを飲み込んでしまう底なしの沼。だれも母親という存在から逃れることはできない。身体的にも精神的にも。


post by mou3

16:54

研究 コメント(2)

ちょっとアレ、なこと

2007年04月23日

自分が書いた論文とめちゃめちゃタイトルがかぶっている論文が出たので少々焦りながら読む。
読み終わって自分の主張とはまったく異なっているのでほっとする。
基本的なロジックの組み方が違うのだけれど、その「基本的に」違っているということをきちんとわかるように書かなければいけないと思う。

しかし10年間新しいデータをとっていないのって、ちょっとアレ、ですな。


post by mou3

22:30

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使用価値

2007年04月16日

やおら文献を集めはじめる。
集めただけで読んだ気にならないようにしよう。

『波状言論S改』を読了。
東浩紀『存在論的、郵便的:ジャック・デリダについて』って、そういえば前読んだような気がするなぁと思い本棚から取り出してみると、付箋がいくつか貼られており線もそこかしこに引かれており、最後まで読んだ様子。
しかしまったく覚えていない。どんなことが書かれていたのか。
わたしにとっての「使用価値」がなければ「最後まで読み終えたこと」は何の意味ももたない。

「使用価値」というのは、あの、マルクスのいう使用価値のことだ。
なぜ突然マルクスか、というと波状言論S改を読み終えて今は宮沢章夫「『資本論』も読む」(WAVE出版)を読んでいるからである。

…「わかる」も労働の一種だとすれば…「価値量」としての「わかる」は「物知り博士」や「クイズ王」である。「使用価値」としての「わかる」は、「生きるため」のなにごとかであり、人は誰だって「クイズ王」と呼ばれたくはないはずだ。


だからあの本の帯に書かれていた
「理論」を使いこなす!
というのは別に間違いじゃあないのだ。

生きるためのなにごとかにならなければ、たくさん読むこと自体には意味はない。


post by mou3

15:26

研究 コメント(0)