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北海道から出発してどんどん西へ向かい 2018年はついに国外へ出てしまったが また西の端へ戻ってきた。 9歳、11歳、14歳、そしてhousanと いっしょに暮らしています。 このブログでは日々のつぶやきを 公開中。
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2007年06月12日
とにかく最悪の一日だった。 午前中の仕事はまずまず。 お昼にスタバでココナッツなんとかフラペチーノとやらを頼んだら甘すぎた。おなかが気持ち悪いなぁと思いながらデパートで化粧品を購入。疲れた足取りで帰路につく。 そして地下鉄乗り換えの時。ベンチに座って、買ったばかりの化粧品が入った紙袋をなんとなく忘れそうだなぁ…と思っていたら本当に忘れてしまった! 気がづいたのは終点で地下鉄を降りた瞬間。ない。座席を見ても、ない。 血の気が失せた。 とりあえずまた地下鉄に乗ってさっきのベンチまで戻ってみることにした。その間5分。こんなに心臓がどきどきしたのは久しぶりだ。こんなことでどきどきなんてしたくない。 紙袋はベンチの上にポツンとあった。 バスに乗って帰宅。 今度は鍵がない。持って出かけるのを忘れたのだ。 ああ朝食を食べた後の片づけも夕飯の支度もできない…と思ってもどうしようもないので近所のコメダへ。 コメダは店内改装のため臨時休業だった。 今日はもう、こういう日なのだ。暑い日差しの中、重いカバンをぶら下げて別の喫茶店へ行く。 10年ぶりにananを熟読した。こういう啓蒙型の雑誌って今どきどうなんだろうと思っていたら1970年創刊だった。これも全共闘の遺物なのか。遺物だけれどちゃんと今も生きている。そのことも考えておくべきだろう、と思う。 さすがに1時間もしたら読み終わってしまったのでスーパーへ移動。仕事帰りのhousanに車で迎えてきてもらい、1週間分の食料を買ってようやく帰宅。休む間もなく夕飯を準備しtomoに食事をさせ、お風呂に入れて寝かせる。洗濯物を干し食器を片づけ自分がお風呂に入っていたらtomoが泣き出したので途中で出る。 このところ毎晩夜泣きの度にtomoを抱っこしてマンションの廊下に出る。 23時をまわると車通りも少なくなってくる。さくら不動産の明かりが消えた。今頃帰る人もいるのだ。長い一日が終わった。
2007年06月10日
若い友人の壮行会。 彼女は今月、青年海外協力隊員としてアフリカに旅立つ。 現地へ行くまでの準備や研修の様子を聞き、若い情熱をなつかしく感じた。 その瑞々しい感性を応援したいと思う。
2007年06月07日
被験者集めは思いの外順調にいった。 あとはもうひたすら実験をこなしていくだけだ。 実験って始めちゃうと楽しいのだけど、それまでが面倒だなぁ。 立花隆「中革vs革マル」講談社文庫、読了。 正確に言えば途中で読むのをやめたので読了ではない。 上巻の終わりくらいからだんだん飽きてきて下巻はあとがきだけ読んで終わりにした。 思ったのは、こういう形の運動は現代日本ではもう起こり得ないのだろうなぁ、ということ。この本を読むまで全共闘というのは大衆運動だと思っていたのだが、実際のところそれは大衆ではなく知識人による運動だった。なぜならこの時代は「文字」が情報の媒体として圧倒的な力をもっていたからだ。文字を読めない人(文盲という意味ではなく)は現代においてもそれなりにいるはずだが、情報の方が大衆化したから、文字=情報=思想=知識人が大衆を啓蒙するという図式はもはや成立し得ない。 全共闘は知識人の「『高尚な』部活動」だった、というのがわたしの感想だ。 「部活」というのは、そこに属する者だけに内輪的楽しみを与える。「中革vs革マル」は隠語や省略語の嵐だった。この本が書かれたのは全共闘が終焉しつつあった75年だから、その当時読めばこれらの隠語も省略語も「リアル」に感じられたのかも知れないが、現在のわたしにはそこからなんらかのニュアンスを読み取るのは難しい。 当時の一般大衆もそんな感じで全共闘を眺めていたのではないか。内側にいる者にとっては真剣な思想闘争も、外側から見ればオタクの戯言にすぎない。革命家ってオタクに似ているのだ。 今は、スガ秀実「革命的な、あまりに革命的な:「1968年の革命」史論」を読んでいる。これは部活の内側にいた人が書いたもの。もちろんカクメイ用語満載である。
2007年05月28日
東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生:動物化するポストモダン2」講談社現代新書 1883 読了。 「オタク」がどのような志向(嗜好)性をもつ人々なのかはいまいちよくわからないし、この本で紹介されている小説もゲームもひとつも知らなかったが、そのことは措いておいても、現代(日本)社会の潮流を考える上でのヒントが得られる。 私たちの世代(30代前半より下の世代)は、目の前に提示されたモノをそのままの意味で受け取ることはしないし、できない。 必ずメタ読みしてしまうのだ。 「徹底的に原因を究明してほしいですね」ということばにも、それはその通りなのだけど…とそこに言外の意味を読み取ってしまう。ベタな言説にうさんくささを感じてしまう。 そうして「真意」を探るためにメタ読みのメタ読みのメタ読み…と無限後退することに疲れ果て、それでもなお相手と何かを共有したいと願うとき、人々は身体性に回帰してしまう。「泣ける」「笑える」というレベルでしか私たちはもはや共通理解を得ることはできないのだ。 このような説明は決して新しいものではないが、このポストモダン的傾向を現代の「物語」消費の現状において見出した点が興味深かった。 複数のありえる可能性の中でその一つを選択するということは、残りの可能性を見捨てることである。このように考えることができるのは、主体が現実をメタの視点から眺めているからだ。 「選択することの痛みを引き受けよ」「選択を拒否し永遠の幻想を生きることの肯定」「選択による痛みを受け入れつつ瞬間瞬間の生に永遠の幻想を見出す」などが現代の「物語」の主題になっているという。 このような精神構造を直接、現実の社会現象(ニートとか)に結びつけるのはあまりに短絡的だと思うけれど。 しかし現代を自覚的に生きるのは苦しいなぁ。
2007年05月26日
タイトルとは関係ないが、昨日tomoが初めてひとりで立った。 つかまりだちではなく座っている状態から自分で立ち上がったのだ。 そして2秒くらい立っていた。 両親の方が興奮した。
今日は保育園の父ちゃん会がある。 園内の修繕活動をしたあと居酒屋に飲みに行くらしい。 父ちゃん会には強烈なキャラクターの父ちゃんがひとりいる。 福祉関係の仕事をしているそうで保育にも熱心で父母会でもたくさん発言する。 それはいいのだが、その発言がびみょーに80年代的なのだ。 園内の修繕活動協力者募集のタイトルは「父ちゃんのちょっといいとこ見せてみたい」だった。 その父ちゃん、うちでは密かに「死語.com」と呼ばれている。 あだ名と言えばもうひとり。 わたしが今ある意味最も注目する人物。 それはNHKの夜9時のニュースキャスター(男の方)だ。 名前は知らない。 なぜ注目しているのかというと、とにかく発言が陳腐だから。 得意技は、誰がどう見ても悪いと思うような事件に対するコメント「なぜこういうことが起こったのか徹底的に原因を究明してほしいですね。」だ。 こんなことそこらのおばちゃんにだって言えるよ。 キャスターとして金もらって言う発言じゃあないだろう。 しかも自分は正しい・自分は頭いいと思っているのがみえみえなところが嫌悪感を増幅させる。 彼のことをうちでは「THE凡庸」と呼んでいる。
2007年05月25日
今日は雨。 授業日ではないが研究室に来る。 仕事を円滑に進めるうえで優秀な事務員がいることは極めて重要だと思う。 その人が親切だとなおよい。 最近tomoは1歳半の壁を越えたようだ。 それはいろいろなところから感じられる。
子どもの発達の力にただただ感心してしまう。 もっと系統だった記録をつけられるとよいのだが…。 週末友だちが遊びに来る。tomoと同い年の子どもを連れて。 今からとても楽しみだ。
2007年05月20日
東浩紀・北田暁大「東京から考える:格差・郊外・ナショナリズム」NHK Books 1074 読了。 同世代の人間が書いたものはいろいろな意味でおもしろい。 何歳のときにどんな出来事に出会うか、ということが人格形成における大きなファクターであることを改めて感じる。 我が家では世代間の違いについて話題になることが度々ある。世代で切るのはおもしろいしわかりやすいのだけれど、それは現象の説明にはなっていないのだよなぁと自省していた。しかし本書に『日本では社会的対立の軸は「世代」くらいしか機能していない』とあり、世代論についてもう少し肯定的に捉えてもいいのかもしれないと思った。 それにしても前の投稿から1カ月も開いてしまった。 楽しみにしていた連休も今となってははるか昔の出来事だ。 この1カ月ブログを書く余裕もなかったはずなのだが、研究がいっこうに進んでいないのはどういうことか。やれやれ。![]()
2007年04月22日
研究集会で子どもの「食」に関する実践報告を聞いた。 生きているニワトリを絞めて調理して食べる、ということの保育実践としての意義とその発達心理学的問題について話し合われた。 子どもは自分の生活がどのようにして成り立っているのかを知らない。 自分の目の前にあるさまざまなモノがどんな過程を通じて生産されるのか、またそこにどれだけ多くの人が関わっているのかを知らない。 そんなこと大人だってわからない。 そんな時代に自分が食べる食べ物がどうやってつくられるのかを見せることは、わたしたちは他の生き物の命をいただいて生きているのだ、感謝しよう!という道徳的メッセージ以上の意味をもつのではないか。 牛から搾りたての生の牛乳の味とスーパーに売られているパックの牛乳の味がどれだけ違うか、なぜ違うのかを知っている人間なら、日本に輸入されたトマト缶1個のためにアフリカに住む1人の赤ちゃんが餓死するという事実についても考えることができると思うのだ。
2007年04月21日
温泉に来ている。 残念ながら旅行ではなく研究会で。 でも旅行みたいなものか。あまりにも気楽に来てしまった。 tomoはいろんなひとに愛想をふりまいてかわいがってもらい、おだっていた。 4月にはいってからずっと風邪をひいていて元気がなかったから久しぶりにぴかぴかの笑顔を見た気がした。 3週間も風邪が長引いた本当の理由は実際にはわからないのだけれど、保育園で新しいクラスになり担当の先生が替わったことが大きいのではないか、と、つい考えてしまう。 去年はこんなことまったくなかったのに、最近は楽しく遊べているだろうか、と毎日心配でたまらない。 どんな環境のなかでもたくましく生きていってほしい、と思う。 これを「適応」とか言ってしまうのは本当につまらないけれど。 温泉につかったから体がだるい。
2007年04月20日
宮沢章夫「『資本論』も読む」(WAVE出版)を読了。 「わからない」壁を乗り越えた後に自分の「声」の量が格段に増していった、という点がおもしろいといえばおもしろかった。 もはや僕は人間じゃない と歌ったのは森山直太郎だが、「人間が生きる」ということにやはり興味がある。 いかに生きるか。生きざるをえないか。 今は生の哲学だよ!性じゃなくてね、と、かのS氏は言った。 目前の書かなければならない論文にまったく関係ないと思われる社会・哲学関係の本を、今こんなの読む暇ないだろ、と思いつつ、読むことをとめられない。
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