2010年10月24日
わが母校の校歌も河邨先生作詞だった
「虹と雪のバラード」の作詞者である川邨文一郎先生は校歌の作詞も多く北海道札幌清田高校の校歌も作詞した,ということをひとみさんのところに寄せられた荒谷弘樹命さんのコメントで知りました。そこで,ふと「清田と設立時期が近い私の母校はどうじゃろ?」と思って調べてみたら,…。 わ~お!うちの校歌も川邨先生じゃった!(^^) 〔追記〕 音楽を選択した生徒は必ず校歌の三部合唱をマスターさせられました。 なので,その際音楽のⅠ先生から「この歌の作詞者は『虹と雪のバラード』を作詞した…」なんていう話を聞かされていた可能性が高いです。しかし,35年も経ってしまったので,「もしかしたらそうだったかも(^^;」的なことしか言えません。
posted by ○た |21:50 | その他 | コメント(5) | トラックバック(0)
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この記事に対するコメント一覧
Re:わが母校の校歌も河邨先生作詞だった
○たさんこんばんわ(^o^)/
>♪~愛と力と夢よあふれよ
いい校歌ですねェ(^.^)格調高く気高く愛に溢れた詩ですね♪
河邨文一郎先生はボクの父の大学の先輩で、父から話を聞いたことがあったと思います。
こんなステキな方が整形外科の権威の先生ですから天は二物を与えたのですね(^o^)v
※以下の記載は全て架空のものです、実在する団体・個人等とは何の関係もありません。
石崎監督「どうじゃ初のリーグ戦のピッチは?」
荒野拓馬「すっかり緊張してカチカチになっちゃいました」
ゴン中山「硬化?」
posted by 大阪帰りの道産子 | 2010-10-25 00:52
Re:わが母校の校歌も河邨先生作詞だった
オォー。やっぱりあちこちで作られていたのですね。
私の母校は札幌ではないので違うだろうなぁと思いながら一応見てみましたら
やっぱり違いました。
でも、未だに歌詞を見れば歌える自分にびっくりです。校歌の威力はすごいですね。
posted by ひとみ | 2010-10-25 01:03
Re:わが母校の校歌も河邨先生作詞だった
○たさん再コメです。
コメントしてからオチが「高校生の硬化」にすれば良かったと後悔・・・
ゴン中山「こうか・・い先に立たず」
posted by 大阪帰りの道産子| 2010-10-25 01:48
Re:わが母校の校歌も河邨先生作詞だった
わが母校は札幌じゃないから違うだろう…と何気にググってましたら!!
作詞が河邨先生だった♪作曲が黛敏郎さんってことだけは覚えていたが…(母校は苫小牧南高等学校で~す!!)
繋がってるんだぁ~。ちょっと鳥肌~♪
posted by アースラ| 2010-10-25 09:17
Re:わが母校の校歌も河邨先生作詞だった
オオドサさん,どうも。(^^)
>いい校歌ですねェ(^.^)
どうもありがとうございます。この歌は出だしも終わりも(35年前の)当時としては斬新なメロディでした。大学に入って飲み会のときにみんなが出身高校の校歌を披露したとき私の母校の校歌だけ「新しい感じで校歌っぽくない」と言われて妙に嬉しかったほどです。逆の意味で「校歌っぽくない」と言われたのは盛岡一高(メロディーが「軍艦マーチ」)でした。:-)
>天は二物を与えたのですね(^o^)v
お医者さんが別の分野でも活躍するというのは江戸時代の昔からよくありますね。あふれる才能?
ひとみさん,どうも。(^^)
高校までの校歌ってしょっちゅう歌いますからね。私も何十年も歌う機会がありませんでしたが,歌詞を見ればちゃんと歌えます。そしてその頃の友達の顔や先生の顔が浮かんできます。すごいもんですね。
アースラさん,どうも。(^^)
苫小牧南も札幌清田や札幌手稲とほぼ同時期の開校なんですね。もしかしたらその頃は川邨先生に作詞を依頼するのが流行だったのかしらん。
歌手の堀江淳(『メモリーグラス』などが有名)は苫小牧南出身なんですね。今知りました。なお,手稲出身の有名人にはTEAM-NACSの戸次重幸(旧名:佐藤重幸)がいます。歌手の椎名恵さんとは高校1年生のとき同じクラスでした。
posted by ○た| 2010-10-25 13:00