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2015年02月02日

竹鶴物語・その5

竹鶴さんは1933年4月に単身で余市へ行った際、かねまた服部旅館に泊まったのですが、その旅館は今でも営業しているようです。
国道5号線が90度曲がる大川交差点のすぐそばにありますね。

その旅館のご主人は、余市のりんごをロシアへ輸出していたけど、ロシア革命で輸出できなくなり、ルーブル札は紙くずになり、蓄えた財産を失って、実家の旅館を継いだとか。

ドラマでは会津の侍が入植し、開拓使からリンゴの苗木の配布を受け、りんご栽培を始めたとありますが、それは事実のようです。1875年(明治8年)に苗木を植え、4年後から収穫が始まったのですが、日本初のリンゴの商業生産で、海外でも評価が高かったそうです。
リンゴは青森が有名ですけど、余市がリンゴ栽培の元祖で、青森よりも春が遅い分、保存が長期に効くメリットもあったそうです。

鰊御殿の親方が、急に鰊が獲れなくなって借金に追われるとドラマで描かれていますが、たしかにそのころから鰊が獲れなくなっていったようで、1926年に1万トンの水揚げだったのが、1927年にはその1/3を割り、1928年には1400トンほどまで激減したとか。
さらに1930年はわずか1トンで、全く取れなかったと言って良いほどだったんですね。
ただ、1931年には5000トン、1933年には9000トン弱と、一時的に盛り返していました。
(その後1935年からまた獲れなくなるのですが)

ドラマの設定とは2~3年ずれがありますが、昭和初期から急に鰊が来たり来なかったりで翻弄されたのは間違いないようです。

1934年7月に会社(大日本果汁)を設立し、その秋の収穫期からリンゴジュースの製造を始めました。
ドラマでは1933年からリンゴジュースを製造してますが、そんなに早くスタートはできないと思います。

寿屋の工場(横浜のビール工場)で働いていた技術者5名と地元の20名の25名の社員でスタートしました。
資本金は10万円で、現在の3億弱くらいだと思いますが、土地代・建築費・機械代などで10万円近く必要で、原料などの仕入や人件費などの費用が不足し、銀行から借り入れました。
ウイスキーの出荷をするまでの間に10万円の増資をし、住友銀行から100万円借りたそうですが、よく銀行が100万円(現在の20億円くらい)も貸してくれたものです。

リンゴジュースは1935年5月から販売を開始しました。冬場は売れないと思ってのことでしょうか?
しかし、価格が高いのが災いし、あまり売れなかったそうです。
当時、ラムネが6銭、サイダーが10銭だったのに、日果林檎ジュースは30銭もしたのです。
現在の600円くらいに相当すると思います。
(ドラマではラムネ6銭、サイダー20銭、リンゴジュース30銭とされていましたね)
また、当時のリンゴは酸味が強く、酸っぱくて飲みにくいと感じた消費者も多かったとか。

当初、竹鶴さんは単身赴任でしたが、1935年に自宅を建て、鎌倉に留まっていたリタさんは9月から余市で暮らすようになりました。
ドラマでは1933年にはすでにリタさんが余市に住んでいますね。

posted by かもめ |12:29 | その他・分類不能 | コメント(0) |